1973年、京都市生まれ。中高大学時代は陸上競技短距離選手として活躍。1997年、スポーツ心理学を学ぶために渡米。2012年、ラグビー日本代表のメンタルコーチに。その後、多くのトップアスリートをサポート。現在、園田学園女子大学人間健康学部教授に就任。
撮影:MIKIKO
ラグビー日本代表のメンタルコーチだった荒木香織(46)は24歳で渡米している。
スポーツ心理学が学べる北アイオワ大学大学院への入学を目指して、語学学校に1年通った。返済義務のない奨学金獲得を目指し、懸命に英語を勉強した。1990年後半、学校に日本人女子は3人だけだった。
大学院に入り、分厚いスポーツ心理学の教科書を開くなりぶっ飛んだ。
「私ら、間違ってるやん!と叫びそうになりました。心をどうすればいいのか、すべて書いてあったから。しかも、すごくわかりやすい。3Dで見ている気分でした。どうとらえて、どう考えたらいいのかが書かれていました」
誰がどういう発見をしたのか、その中でも「違う」とされた部分に対してどんな実験や調査をして、どんなことが分かったのか。そこから導き出される考え方が書かれていた。
「緊張って言葉なんてひとつも出てきませんでした。そういった場面での例として、『心臓がドキドキする、口が乾く症状があります』とか、『ダメだったらどうしよう、負けたらどうしようと考えるものです』とは書いてあったけど、それを『緊張』とは名付けてなくて。例えば不安、それも、体の不安(X軸)と心の不安(Y軸)、そして興奮のレベル(Z軸)でその状況が説明されている。
どんな状態ならピークパフォーマンスが起きやすくて、どうなったらガクンとパフォーマンスが落ちるのか。だからどうすればよいかなどが詳細に説明されていました」
日本のスポーツ心理学とは別世界
右から井上悟(近畿大学陸上競技部コーチ)、中道貴之(紀南高校教員)、リロイ・バレル(ヒューストン大学陸上競技部監督)、ミッシェル・フィン-バレル 。ミッシェルも金メダリスト。赤ちゃんは息子のキャメロン・バレル。現在は100mの選手として活躍中。1995年ヒューストンで。
荒木さん提供
日本の指導者がよく使う言葉は、教科書には一切書かれてなかった。
「緊張しないように」「意識を高く持って」「きっちりやる」「最後までやり切る」「勝ち切る」「意識して」「自覚を持って」……。
「意識しろ、と言われても、私たちはそれに対して何もしていなかった。それなのに、私たちは何の疑いもなく、その言葉を使って過ごしていたわけです」
目の前に地平線がぱっと開けていくような、そんな感覚だった。
当時の日本では、スポーツ心理学といえば「あがり」、つまり緊張するストレスをどう乗り越えるかという研究が主だった。スポーツ科学の一部で、動体視力の研究などが心理学に含まれている大学もあったほどだ。
「まったく違う世界でした。勝ち切るとかも含め、緊張とかあがりとか、教科書の章立てにも含まれていませんでした。こんなに山盛りの情報を、本当におおきにありがとうございますと、叫びたかったくらい。本当に嬉しかった」
ラボで、教室で、図書館で、部屋で、むさぼるように教科書や文献を読んで勉強した。
学びと差別と闘うために磨いた英語
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大学で学ぶこと自体は楽しかったが、教室から一歩外に出ると差別的な扱いを受けることは少なくなかった。
学生課へパーキングのパスなどの更新手続きに行った時のこと。荒木の英語は確かに通じているはずなのに、受け付けた人は「は~っ?」と顔をしかめ、まるで「理解できないわ」というふうに不機嫌になった。
語学学校に入った当初こそ、クラス決めテストが「モンキースコア(猿が適当にマークして出る点数)だった」と言うが、1年間で7段階中、最下位クラスからトップクラスへ駆け上がっていた。
「白人の学生なら、そんな態度は絶対にされないはず。大学のスポーツ科学専攻の建物の中に差別はなかったけれど、大学内でもそうではないところもあった。特に最初の2年間は勉強以外の苦労が多かった。異国で自立して暮らすこと、サバイブすることは勉強より大変だった気がする」
荒木が学んでいたアイオワ州は2016年の大統領選でトランプ氏が勝利した土地でもある。道を歩いているだけで空き缶を投げつけられた。「Go back to China!」。大学では、黒人がランチをとるテーブルは、自然と決められていた。黒人、ヒスパニック系、そして黄色人種と分かれ、肌の色で差別を受ける現実を知った。
「顔つきや空気感で、明らかに悪口言われてるって分かるんですが、最初は内容が分からないから言い返せない。だから、言われたことを理解しようと必死でした。だって、悔しいじゃないですか」
言葉が聞き取れるようになったら、次は相手に言い返したいから話せるようになろうと思う。語彙を増やして、発音を磨いた。英語をマスターするのは、スポーツ心理学を学ぶためと差別と闘う武器を持つためだ。明確な目標があるからか、選手時代に自分に足らないと悩んだ「泥臭さ」を身につけていた。
「差別に屈したくないという思いは強烈にありましたね。自分の頭で考えて、意見して戦わないと、こちらが叩きのめされるでしょ?」
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北アイオワ大学大学院では修士課程を、ノースカロライナ大学大学院グリーンズボロ校では、スポーツ心理学の世界的権威のもとで博士課程を修了した。これだけアカデミックのキャリアを積んだスポーツ心理学者は、日本では荒木以外存在しない。
そして、31歳で帰国した。だが帰国当時の2004年、博士課程で師事した教授らの名前を出しても、日本でその価値が分かる人がいなかった。何のツテつてもないまま大学の公募に書類を送り続けた。10校すべて落ちた。
「日本では誰からも必要とされていない。日本ではスポーツ心理学がまだメジャーではなく、アメリカとの扱われ方と大きく異なりました。そのギャップに愕然としました」
しばらくして都内の私立大学で助手のポジションを得たが、生きがいを感じられない。
シンガポールに飛び、大学講師を務めた。資源のない小国であるシンガポールの財産は人材だ。荒木が行く少し前まで外国人はシンガポール人より高給だったため、ここでもさまざまな嫌がらせを受けた。大学側に研究費を申請しても、これはダメ、あれはダメと制限された。
「体を壊したこともあって帰国したのですが、4年前にアメリカから帰国したときとは状況が少し変わっていました。3校目くらいで就職できました」
2008年、兵庫県立大学に准教授として迎えられ、その4年後にラグビー日本代表のメンタルコーチを打診する電話が入る。荒木のアメリカでのキャリアが、エディー・ジョーンズの目に留まったのだ。荒木のミライが動き始めた瞬間だった。
(文・島沢優子、撮影・MIKIKO)
島沢優子:筑波大学卒業後、英国留学を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。『AERA』の人気連載「現代の肖像」やネットニュース等でスポーツ、教育関係を中心に執筆。『左手一本のシュート 夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』『部活があぶない』『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』など著書多数。