イギリスがEUを離脱した日、議事堂前広場には無数のイギリス国旗がはためいた。
REUTERS/Simon Dawson
「なんだ、こんなものだったの?」
イギリスが欧州連合(EU)から離脱した日の翌朝、そのあまりのあっけなさに多くのイギリス国民がこう思ったはずである。「何も変わっていないじゃないか」と。
1973年、イギリスはEUの前身「欧州共同体(EC)」に加盟。2020年1月31日までの47年間にわたって、第二次大戦後の欧州統合の枠組みの中にいた。EUで加盟国が離脱することは初めてのこと。イギリスにとって、欧州にとって、そして世界にとっても歴史的な転換を迎えた。
しかし、EU離脱は実現したものの、すぐには何も変わらない。2020年12月末までは「移行期間」となり、年内にEUと急いで自由貿易協定を締結させる必要があるものの、当面は離脱前の状態が維持される。
ゆえに、一般のイギリス国民は「昨日と変わらない今日」を過ごしている。とはいえ、「特別な日」としての盛り上がりが皆無だったわけではない。
「God save the Queen」の大合唱
EU離脱を祝う人々は国旗をあしらった服装で街に繰り出した。
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離脱当日の1月31日。ロンドン中心部・ウェストミンスター宮殿(イギリス議会)前の広場には、3年前の国民投票で離脱に票を投じた人々が国旗をモチーフにした装いで続々と集まってきた。
広場に設置されたステージには、離脱の旗振り役となった政治家ナイジェル・ファラージ氏(前「イギリス独立党」、現「離脱党」党首)が登場。「離脱は偉大なる国家の、最高の歴史的瞬間だ」と語ると、聴衆は国旗を振って大喝采を浴びせたが…。
REUTERS/Simon Dawson
午後11時の離脱前にカウントダウンを始めるころには、広場にはお祭り騒ぎに加わろうとする人々や報道陣が押しかけて、数千人がひしめきあった。
ロンドン・ダウニング街10番地の首相官邸。首相官邸の壁にはイギリス国旗をイメージした赤と青の光が投影され、午後11時になった瞬間には議会の大時計「ビッグベン」が映し出された。
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「ゴーン、ゴーン、ゴーン…」
イギリス国民にはお馴染みの、厳かな鐘の音が響きだした。その一音、一音が「イギリスは、これからいよいよ離脱するのだ」と告げているようだった。集まった聴衆は国歌「God save the Queen(ゴッド・セイブ・ザ・クイーン)」を歌いだした。
歴史的な瞬間にテレビが……
離脱の瞬間はイギリス国内外に広く伝えられた。いかにも国中が熱く盛り上がっているように見えたかもしれない。しかし、必ずしもそうではない。もっと盛り上がるはずだったが、それを抑制する「ブレーキ」もあちこちで働いた。
まず、EU離脱の瞬間に鳴り響いた「ビッグベン」の鐘の音は過去の録音だった。
離脱の瞬間に「ビッグベン」を鳴らすというアイディアは、ジョンソン首相の発案だった。ところが、現在「ビッグベン」は改修工事中だ。
そこで保守党内の強硬離脱派の議員らがクラウドファンディングでお金を集め、一時的に鐘を復活させようとしたが、議会は「一般からの資金を受け取ることはできない」と判断。資金面の調整がつかず、頓挫した経緯がある。
ユーモアを発揮したのか、自らゴングを打ち鳴らしたジョンソン首相。
Andrew Parsons / No.10 Downing Street
当のジョンソン首相も、離脱のお祝いは小規模なものにとどめた。スタッフや政治記者などを官邸に招き、内輪で小規模な「祝う会」を開いただけだった。
あろうことか、EU離脱の瞬間となる午後11時直前には官邸内のテレビがプツンと切れるアクシデントも発生。仕方なく、ジョンソン首相は手元の鐘を打ち鳴らし、自ら「ゴーン」をやらざるを得なくなった。
離脱の幕開けとしては、思いのほか「アンチクライマックス」だった。
「新しい時代の幕開け」と語ったが…
ジョンソン首相はEU離脱の1時間前に国民向けのメッセージを公開。「新しい時代の幕開けだ」と語った。
Twitter / @BorisJohnson
特番を組み、EU離脱の瞬間までの様子を伝え続けたテレビ局だが、ジョンソン政権と一緒になって離脱を祝う道は選ばなかったようだ。
ジョンソン首相は1月31日午後10時、EUからの離脱が「新しい時代の幕開けになる」と述べた3分間の動画を公表したが、主要放送局のBBCやITVは動画のほんの一部を紹介するにとどめた。
国の重大事で首相が国民に向かって話しかける際には、習慣として政権とは独立した立場にある放送局が動画を制作する。今回の動画は官邸が制作したものだったため、そのまま流すことができなかったと言われている(のちに与党関係者はテレビ局を「左寄り」「残留派」と批判することになる)。
残留派が多数を占めたスコットランド。中心都市エディンバラの議会前にはEU旗やスコットランド旗を振りかざす人々が。
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一方、先の国民投票で「EU残留」を支持した人々も、各地で「お別れ会」を開催していた。
住民の大部分が残留を支持したスコットランドでは、EUの青い旗をマントのように身にまとったり、EUやスコットランドの旗を振りかざしたりする人々がエディンバラのスコットランド議会前に集まった。
「もうEUを恋しく思っています(Missing You Already)」。これが人々のメッセージだった。
新時代の喜びか、別れの悲しみか 分かれた「離脱」の見方
「誰もシャンデリアからぶら下がったりしない、誇りに思うだけだ」という見出しのデイリー・メール紙(上)、「赤、白、青、私たちの新たな夜明けの象徴だ」とするデイリー・エクスプレス紙(下)(2月1日付)
撮影:小林恭子
離脱から一夜明けた2月1日付けの新聞を見ると、「離脱支持」か「残留支持」かで報道の論調は大きく異なった。
離脱派の「デイリー・エクスプレス」は、官邸の壁にビッグベンの時計の映像が投影されている写真を1面に掲載。これに「私たちの時代がやってきた」という見出しを入れた。
デイリー・テレグラフ紙「イギリスがもとからの状態に戻ったーさあ、希望プロジェクトの開始だ」(2月1日付)
撮影:小林恭子
題字の下には「私たちの輝かしい歴史の中で、新しい章の始まりである。イギリスは自分たち自身の運命を決定する権利を取り戻したのだ」と書かれていた。
一方、残留派の「ガーディアン」は、EU旗の写真を大きく使った。見出しは「私たちがさよならを言った日」とし、残留支持派のコラムニストの論考を載せた。
1月31日という日は、離脱派にとっては「輝ける新しい時代の始まり」だが、残留派にとっては「EUと別れた悲しい日」なのだ。
離脱前後で変わった「雰囲気」とは
「祭りのあと」のイギリスはどこへ行く…?
REUTERS/Henry Nicholls
一部でお祭り騒ぎもあったが、「移行期間」が終わるまでは原則何も変わらない。
しかし、離脱直前から現在までに大きく変わったことがある。それは離脱派と残留派との熾烈な闘いがひとまず終わったことだ。国内のとげとげしい雰囲気がだいぶ消えつつある。
国民投票から3年半の間、離脱派と残留派の綱引きのような闘いが続いてきた。
残留派は何とか離脱実現を遅らせ、再び国民投票に持ち込んで離脱を中止させようとした。一方で離脱派はそうはさせまいとしてきた。
この闘いは市民同士でも、また議会でも議論として繰り広げられた。離脱派と残留派の議員らは互いの主張を曲げず、全員が納得する離脱協定案をまとめることができなかった。
EU離脱をめぐり「決められない議会」となった英議会下院。
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議会は政府側の提案する離脱案を否定するばかり。残留派の国民でさえも最後にはほとほと嫌気がさすほどの「決まらない・決められない議会」だった。
もはや離脱を果たしたので「離脱するべきか、しないべきか」という堂々巡りの議論をする必要がなくなった。
例えるなら、虫歯を抜くかどうかでさんざん悩んできたが、これを抜いてしまったので、次に考えるべきことは「抜いた後にどうするか」だ……といった具合だ。
国民も政治家も、すでに疲れきっている
「離脱」は成ったが、課題はまだまだ残る。ジョンソン首相の胸中は…。
Paul Ellis/Pool via REUTERS
残留を主張してきた国民や政治家の勢いを一気にそいだのは、12月の総選挙だ。離脱実現をスローガンとした与党・保守党は圧勝。単独過半数の議席を獲得した。
保守党のジョンソン政権はこれを頼みに離脱協定案を議会で通過させた。残留派の議員は、もはや黙るしかなかった。
「国民の審判を受けた」選挙の後で、「議会での法案通過」という民主主義のプロセスに則った決定である。残留派の議員も民主主義を尊重する以上、「その決定は間違っている」と主張しても、国民から賛同を得られにくいと判っているからだ。
将来的に再度の国民投票、そしてEUへの再加盟の道が全くないわけではない。しかし、そのための運動を実行するほどの活力は、いまの残留派政治家には残っていない。
イギリスでは国民も政治家も、すでに疲れきっている。しかし先行きはまだまだ不透明だ。
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国民も政治家も、すでに疲れきっている。特に最大野党・労働党は総選挙に大敗。新たな党首を選ぶ作業に入っている、与党をいかに倒すかの戦略をめぐらす余力はない。
ジョンソン首相も、「ブレグジット」で2つに分断された国民を1つにまとめる必要がある。そのためにも残留派への配慮は欠かせない。離脱当日、官邸内で開かれた祝賀会が内輪のものになったのは、そのことを反映している。
ようやくイギリスは「さて、どのようにEUと貿易交渉をしていくか」と考える実務段階に入った。しかし、先行きは本当に不透明だ。
サンデー・タイムズ(2月2日付)が掲載した風刺画。荒れ狂う海をイギリス船が進む様子を描かれているが…。
撮影:小林恭子
2月2日付の「サンデー・タイムズ」は、政府を風刺する一枚の画を掲載した。イギリス国旗を掲げた船が荒れ狂う海を航海中だ。吹き出しにはこんなセリフが書かれている。
「海図を持ってきた人はいるか?」
「自分たちで海図を作ればいい!」
「食料は?」
「海にたくさん魚がいるだろ!」
「釣り竿は?」
「いいか、みんなが一つになるときだぞ!」
なんだかハチャメチャだが、まさにこれが「今のイギリス」のように思える。
小林恭子(こばやし・ぎんこ):在英ジャーナリスト。英字紙「デイリー・ヨミウリ」(現Japan News)の記者を経て、2002年渡英。政治やメディアについて多数の媒体に寄稿。著書『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』(中公新書ラクレ)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中公選書)。共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。