「サヨナラEU」のプラカードを抱えるロンドンの市民。
REUTERS/Simon Dawson
1月31日、2016年6月の国民投票から実に3年半の月日を経て、イギリスのEU離脱(ブレグジット)が完了した。
同日の為替市場ではユーロもポンドも大幅に上昇し、為替市場の反応だけ見れば、離脱が双方にとって望ましいイベントとして処理されたように見える。
まさに「いろいろあったが円満離婚」という風情だが、名目上は離脱しても、2020年いっぱいは緩和措置としての移行期間であり、経済関係という意味ではイギリスはまだ実質的にEU内の存在だ。
今後、名実ともに「円満離婚」にたどり着くまでにはクリアしなければならない課題がある。名目上の離脱が完了した節目でもあるので、現状と展望をQ&A方式で整理してみたい。
【Q1】「円満離婚」するために残された時間は?
ブレグジット問題はようやくスタートラインに立っただけであり、イギリスとEUの将来の関係を定める新協定の交渉はこれからだ。
両者の交渉では、自由貿易協定(FTA)を筆頭に、安全保障などを含めた両者の新しい関係性を決める。具体的には3月開始が見込まれる。いますぐに交渉がスタートしないのは、この1カ月間(2月中)の間に、EU側の交渉姿勢をまとめる必要があるからだ。
そんなわけで、交渉開始から(現在の経済関係が保全される)移行期間の終わる年末までは10カ月しかない。
しかも、実際には各国の批准手続きがあるので、12月31日まで交渉するわけにはいかない。議会の批准手続きにかかる1カ月間を差し引けば、3~11月の9カ月間こそが実際に残された時間と考えられる。
このあたりのスケジュール感は毎度のことながら流動的だが、11月末時点で何らかの道筋をつけておかないと大惨事になることは間違いない。
とはいえ、FTA交渉を始めてから合意を形成し、施行に至るまでは通常、数年単位の時間がかかる。9カ月間で「円満離婚」のための条件を詰めるのは容易ではない。
【Q2】ブレグジットはEUの「終わりの始まり」か?
「彼はヨーロッパを破壊しようとしている」と、ハンガリーのオルバン首相を批判する看板。同首相は反EU・難民受け入れ拒否を打ち出すキャンペーンをくり広げている。ただ、ハンガリーがイギリスに続いてEU離脱を企図するかというと……疑問だ。
REUTERS/Francois Lenoir
イギリスのEU離脱を受け、EU側が「岐路に立たされている」とか、過激なものでは「終わりの始まり」といった言説を目にする。
現時点でいろいろな見方があること自体は良いと思うが、筆者は「終わりの始まり」という評価はさすがに過剰だと考えている。
イギリスとEUの関係にはもともと、他の加盟国とEUのそれよりも特殊な側面があった。だから、「古いつき合いなのにどこまで行っても信じ合えない」という因縁の関係が、ようやく「あるべき姿」に回帰しただけというのが実情に近くないだろうか。
ポーランドやハンガリーなど、強権的なトップの下では公然と反EU政権が樹立されており、イギリスに続く第2の離脱国が出てくる気配がないとまでは言い切れない。
しかし、EUから補助金をもらいつつ、単一市場にアクセスでき、ときにEUとして情報発信できる現状の立ち位置は、東欧諸国にとって「おいしい」としか言いようがない。よって、それらの国々がイギリスに続くとは思えない。彼らもそれはわかっている節がある。
もちろん、イギリスの離脱はEUとして手痛い事案には違いない。紆余曲折はあっても、EUは拡大・深化の路線で一貫してきた。それが初めて加盟国の減少という事態に直面しているのだから、小さな話であろうはずがない。「嫌だったら抜ければいい」という前例はないに越したことはない。
しかもイギリスは、ドイツに次ぐEU域内第2の経済大国の地位をめぐり、フランスと常に競ってきたコア(中核)国だ。国際金融センターであるロンドンも擁する。直感的には「イギリスが抜けて大丈夫だったのだから……」と考える向きが出てくる可能性がないとは言えない。
とはいえ、「イギリスが抜けて大丈夫だった」かどうかは、これからわかる話だ。離脱後のイギリスがどのような状況に直面するのか。移行期間が続く限りは何とも言いようがない。
今後5年ないし10年以上が経過し、経済・金融指標の変化を踏まえつつ、この歴史的決断の成否が議論されることになるだろう。
もっとも、今回の離脱はそうした実利的な話ではなく、「主権を取り戻したい」「移民に入って来てほしくない」といったイギリス内部の価値観に起因する決断だったことを思えば(いまはそれを後悔している国民も多いようだが)、経済・金融指標ばかりをウォッチするのもミスリーディングかもしれない。
【Q3】移行期間を延長できないのか?
2020年2月3日、離脱後のEUとの交渉方針を説明するジョンソン英首相。
Frank Augstein/Pool via REUTERS
イギリスとEUが2020年6月末までに合意するなら、移行期間は最大2年間の延長が可能とされている。
しかし、ジョンソン政権が2019年12月に成立させた離脱協定法には、「英政府が移行期間の延長を承認することを禁止する条項」が追加されている。つまり、延長拒否はすでに法律化されており、「移行期間は年内で終了する」のがメインシナリオだ。
もちろん、ジョンソン政権はメイ前政権と違って議会の圧倒的多数を押さえているので、離脱協定法を修正した上で延長に舵を切ろうと思えば、できないことはない。しかし、もしそのような決断をくだすとしても、ジョンソン政権の気質を考えると、ギリギリまで引っ張ることになるだろう。
結果として、移行期間の延長をめぐる4~6月期は波乱材料になるのではないか。
【Q4】「ノーディール離脱」への恐れはまだあるのか?
ウェストミンスター宮殿前の広場でEU離脱を祝うロンドンの市民たち。
REUTERS/Simon Dawson
「ノーディール(合意なき)離脱」の可能性は残っている。
2019年12月17日、欧州委員会のウェイアンド貿易総局長が「その事態(=ノーディール離脱)に備える必要がある。つまり2020年末までに合意がまとまらなければ、また崖っぷちの状況に直面することを、交渉において留意しなくてはならない」と述べたことが報じられている。
要するに、ノーディール離脱への恐怖ありきで交渉に臨む必要がある、というのがEU側の基本認識だ。
ジョンソン政権は最終的に北アイルランドに対する特別扱いをあっさり認めた上で、離脱協定案を手打ちにした実績がある。前政権が苦労してまとめ上げた離脱協定案を反故にしてEUと再交渉に挑んだジョンソン政権が、すぐにも合意をまとめられたのは、一番の争点だったアイルランド国境問題で欧州委員会の意向を飲んだからにすぎない。
この件については説明が長くなり、趣旨とも逸れるので今回は割愛するが、いずれにしてもジョンソン首相はいざとなればそのような譲歩ができる人物なのだろう。
今回のEUとの「将来の関係」に係る協定でも、同様の柔軟性を発揮する可能性はあるし、それに期待するしかないとも言える。移行期間が終わる2021年以降も、交渉は継続できる。
企業、消費者そして市場参加者など、実体経済にかかわるステークホルダーが最も心配しているのは、一夜にして関税・非関税障壁が復活し、世界貿易機関(WTO)ベースのドライな関係に陥ってしまうことだ(これがつまり「ノーディール離脱」)。
現状、安全保障面での交渉が長引くことは特に心配されていない。ゆえに、まずは通商関係の交渉に注力することになるだろう。米中貿易交渉が第1段階合意で小康状態に入ったように、イギリスとEUの新たな関係も、通商関係に配慮した部分合意という「応急処置」で経済へのダメージ緩和を図る線はありうる。
とはいえ、通商関係の合意だけなら8カ月で間に合うのかと言えば、その保証もまったくない。が、そうであればこそ年内に出てくる答えは「部分合意」以外にありえないように思われる。
【Q5】通商関係の交渉は円滑に進みそうなのか?
2020年1月29日、ドーバー海峡に面したフランスの港湾都市ブローニュ=シュル=メールにて。イギリスがEUを離脱すると、この船舶は漁業権を失うかもしれない。
REUTERS/Pascal Rossignol
「部分合意」にしぼったところで、視界良好というわけではない。
離脱協定案を合意するに至っては、アイルランド国境問題がボトルネックとなり時間を空費した。これまでの報道や有識者の論説からもわかるように、アイルランド国境問題こそが離脱交渉における最大の難所であるという通念が支配的だった。もちろん、それは誤りではない。
だが、「将来の関係」にかかる交渉、とりわけ通商交渉が始まっていなかったからこそこれまでクローズアップされなかった争点がある。それが「漁業権問題」だ。今後はこれが最大の難所となる可能性が高い。
周知の通り、イギリスは島国で海洋資源が豊富だが、EUの多くは大陸国なので海洋資源を他国に依存する必要がある。そのため、EU加盟国内にイギリスが存在する意味は非常に大きかった。
詳しい歴史的経緯は他に譲るが、イギリスの漁民たちは、他のEU加盟国の漁船がEUの執行する共通漁業政策(CFP)のお墨つきを得て、イギリスの排他的経済水域(EEZ)で操業できることを常に不満に思ってきた経緯がある。
フランス、スペイン、オランダなどのセミコア(準中核)国を筆頭に、イギリスのEEZには多くのEU加盟国がアクセス権を有しており、そこでイギリス以外のEU籍船舶が揚げる漁獲量は、イギリス籍船舶が同国以外のEU海域で揚げた漁獲量とは比較にならないほど多いことで知られている。
要するに、EU加盟(正式には1973年のEC加盟)に伴って、自国のEEZを共通漁業政策の管理に委ねたことで、イギリスは「自国の海洋資源を他国に恵んでやる」という構図に収められていたわけだ。
しかも、1983年以降は年間許容漁獲高が導入され、各国はその枠の中で漁業を営むことになった。そのため、イギリスの漁民たちは枠を使い切ったあと、自国の海域で外国人たちが文字どおり「漁(あさ)る」のを指を加えて眺めているしかなかった。
ブローニュ=シュル=メールにあるサバの処理工場。イギリスとEUの交渉次第で、従業員たちは仕事を失う可能性がある。
REUTERS/Pascal Rossignol
さて、話を通商交渉に戻そう。
イギリスの離脱後も、EU加盟国は共通漁業政策の管理のもとでイギリスのEEZにアクセスしたいに決まっている。フランス、スペイン、オランダといった比較的「声の大きい」加盟国の利害にかかわる話なので、ここは重要な争点となるだろう。
その点で満足のいく回答が得られなければ、EUは「FTA交渉で譲れない」という立場を示している。イギリス側は自国の漁民を巻き込んで話が複雑化しそうな漁業権問題を、わざわざ交渉に持ち込みたくない構えだが、EUがそれを許す気配はない。
そこで決裂してFTAが結べなければ、イギリスは27カ国に対する自由貿易協定を失う。ところが、EUが失うのはイギリスだけだ。
そうした論理で考えると、イギリスの置かれた立場は圧倒的に形勢不利に思える。ただし、EU側も必ずしも一枚岩ではないというのはポイントだ。漁業権問題に関心がある国、自動車に関心がある国、農業に関心がある国……胸中はさまざまで、劣勢のイギリスからすれば、そこに楔(くさび)を打ち込むのがひとつの戦術になりうるだろう。
いずれにせよ、漁業権問題がヘッドラインをにぎわす時間帯がやってくることが予想される。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
唐鎌大輔:慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。