1977年、群馬県生まれ。2002年、博報堂入社。 2015年に乳がんの手術を受け、その後不妊治療を始める。 2016年にライフサカス創業、翌年、長女を出産。 現在は「産む」ことにまつわるメディア「UMU」を運営。
撮影:鈴木愛子
ライフサカスはCEOの西部沙緒里(42)ら、がんサバイバーの女性2人が創業し、社会課題の解決に取り組むという話題性もあり、多くのメディアに取り上げられた。「UMU」も、第1弾であるよしおかゆうみの記事などが多くの読者に読まれ、順調に滑り出した。
2018年8月には、アプリの開発費を募るクラウドファンディングを実施し、目標額200万円を開始6日目に達成、最終的に311万円を集め大成功に終わった。
アプリ開発に挫折、メンバーも離れ
ライフサカスは多くの当事者の声を集め、不妊治療サポートアプリの開発に挑戦していた。
西部さん提供
だが、肝心の開発はほどなく、暗礁に乗り上げてしまう。
西部は、治療当事者に何が必要かは分かっても、アプリについては素人だった。機能を作り込み、製品へ仕上げるための知識にも乏しかった。
「当事者の意図と、技術者の考えのすり合わせが不十分でした。思いが先行するあまり、私の勇み足で開発に乗り出した面もありました。そのためにいろいろなほころびが出て、外に出せる製品にならなかった」
さらにこの時期、ライフサカスを共につくり上げた黒田のがんが再発し、会社を離れることも重なった。
2018年の秋には「潮時かな……」という空気が社内に漂っていたという。誰もが無給に近い状態で、2年あまりも本業と開発を両立していた。
西部は同年末、「開発を中断し、1人に戻って仕切り直す」と決断。クラウドファンディングで集まった資金も、「今後の活動に充てて」と申し出てくれた一部の出資者を除き、返金した。
メンバーは西部を責めなかった。冷静に事後処理を済ませ、「別の機会に、一緒にできることがあればまた集まろう」と言ってくれた。
「みんなの優しさが、ありがたかった」
ライフサカスは、メンバーの多くが40歳前後だった。中堅以上のビジネスパーソンが起業する時は大抵、過去のキャリアと地続きのビジネスを始めるものだが、西部らはまったく前例のない新規事業に挑戦した。
「遅咲きスタートアップ」のメリットとデメリットを「成熟した大人の議論ができる半面、若手のような勢いで強引に進めにくいこと」だと、西部は振り返る。
「メンバーの大半に子どもがいて、生活がかかっている。失敗して丸裸になったら一時実家に戻って親のすねをかじる、という冒険もできない。私もライフサカスという船に、メンバーを乗せ続けることへの罪悪感がありました」
「消えてしまいたい」膝抱え泣く日々
アプリがとん挫した後、西部はほぼすべてのアポイントをキャンセルし、部屋に閉じこもった。
メンバーの努力に報いることができず、クラウドファンディングに応じてくれた支援者たちの期待にも応えられかった自分を、ひたすら恥じていた。
「生きているのが申し訳ない、全部抱えて消えてしまいたいと思うばかりでした」
約3カ月間、「部屋の隅でひざを抱えて」泣き暮らした。
西部の自宅は高台にあり、居間の窓からは広い空と、家々の屋根が見える。衝動的に、その窓から飛び降りようかと、考えたことさえある。手すりに足を掛けなかったのは、当時1歳の娘との生活があったからだ。
「何時間かしたらお迎えに行かなきゃ。保育士さんだって困る」
娘が帰宅すれば、食事の世話に入浴、寝かしつけもあり、そうそう泣きわめいているわけにもいかない。「子育てが、淡々とした日常生活を作ってくれたのはありがたかった」と振り返る。
底の底まで落ちた、と思った時、ふと浮かんだ言葉があった。
「ああ、『生きてるだけで丸儲け』って、こういうことなんだ」
がんから生還し不妊治療を乗り越えて、その経験のすべてをぶつけた事業がとん挫した。頑張って走ってきたつもりだったけど、すべてなくなってしまった——。
「今の私にあるのは、命だけ」
そう思った時、西部は少しずつ浮上し始めた。
女性特有の症状で労働損失4900億円
現在、西部はUMUの運営と、女性の健康や不妊治療に関する研修の講師、企業のアドバイザーなどを務めている。2019年12月、人事担当者が集まったセミナーで語った。
「不妊や生理不順など、女性の不調の多くは30~40代、最も働き盛りの時期に重なっている。女性の健康支援をしないことは、企業にとって大きな経営損失なのです」
長女を出産後。さまざまな家族の形を見るうちに、「娘は娘、私は私、お互い別の人間」と考えるようになった。
西部さん提供
実際に経済産業省は、月経痛など女性特有の症状による労働損失を、4911億円と試算している。また同省の2018年の調査によると、働く女性の43%が健康問題のため、正社員雇用や管理職への昇進などをあきらめた経験があるという。
出産育児という、目に見えやすいライフイベントへの支援は整いつつある。
一方、乳がんや不妊治療、更年期障害や生理不順といった、健康問題にスポットが当たることはあまりない。女性自身が語りたがらず、男性の側にも「体調管理は自己責任」といった無意識のバイアスが働きがちなためだ。
セミナー参加者からも、悩みの声が次々に上がった。
「立ち仕事が多い職場で、不正出血や乳がんの放射線治療による排泄不調などから、辞める女性がいるのは人事も把握している。しかしなかなか対策に至らない」
「不妊治療の支援制度を上申しても、男性ばかりの経営陣に『社会情勢は分かるけど、うちの会社に本当に必要なの?』と言われてしまい、通りにくい」
西部は参加者に「社内調査で不妊治療者数などの数字を把握し、社会の基準といかにかけ離れているかを見せると、制度化を進めやすい。同業他社との比較も効果的」などとアドバイスしていった。
落ち込んでいた時期、娘は西部を一時怖がったことも。「一方で心配していたようで、『よしよし』と私の頭を撫でてくれました。
撮影:鈴木愛子
ある人事担当者はセミナー後、反省を込めてこう語った。
「正直に言って、当社では厚生労働省の安全衛生優良企業認定、いわゆる『ホワイトマーク』を取るのが女性支援の目的のようになっていた。社員一人ひとりの健康に向き合わなければと今日、強く思いました」
ただ、道半ばではあるものの、企業は働き方改革、ダイバーシティ推進といった文脈で、女性の健康支援に着手しつつある。職場でのヒール強制に反対する#KuToo運動のように、女性自身も「健康に、快適に働きたい」という声を上げ始めた。
西部は「今がまさに、時代の変わり目ではないか」と明るい顔を見せる。
「自分自身の経験を通じて、女性の健康や性、生殖などに関する壁にぶつかった時の『乗り越え方』を伝えたい」
次に同じ道をたどるかもしれない、女性たちのために。
(敬称略・明日に続く)
(文・有馬知子、写真・鈴木愛子)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。