都内の工場で働くパートのA子さんは、2019年12月、同僚女性たちが就業調整で大幅に労働時間を減らしたことのしわ寄せを受け、最低賃金の水準で働きづめの毎日を送らざるを得なかった(写真はイメージです)。
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都内の従業員300人の工場で働くパートのA子さん(45)は2019年12月ほど今の職場が嫌になったことがないと言う。きっかけは同僚の女性たちが就業調整で労働時間を大幅に減らしたことだ。
「夫の社会保険の扶養の範囲内の年収に収めるために、12月に入ると働く時間を短くするのはいつものことです。でも昨年は会社の経理の通知ミスで11月までの給与の合計が125万円を超えていたことがわかり、いつも以上に仕事の量を減らしたのです。そのしわ寄せを受けて私たちの仕事量が増えました」
実態はこうだ。
「いつも午前9時〜午後4時勤務ですが、12月は毎日午後6時、7時まで働きづめの日々でした。それでも時給は最低賃金の水準。目一杯働いても月17万円程度にしかなりません」
賃上げにまったく関心ない主婦パートを「利用」
実はA子さんは1年前から夫の扶養を外れて会社の社会保険に加入している。小さな工務店に勤務する夫の年収は400万円。老後のことを考えて厚生年金に加入したほうが得だと考えたからだ。A子さん以外のシングルマザーや男性の独身社員も社会保険に加入している。
だが就業調整している主婦パートの夫の勤務先は誰でも知っている有名企業が多い。賃金が上がらないのは「夫の扶養の範囲内であればよいという賃上げにまったく関心がない主婦パートの意識を会社が利用しているからだ」と、A子さんは言う。
いわゆる「130万円の壁」がパート間の分断を生んでいる。
しかし、今後は夫の扶養に入る主婦パートの社会保険料控除の範囲がさらに狭まる。2020年の通常国会に被用者保険(厚生年金保険・健康保険)の適用範囲を拡大する年金機能強化法の改正案が提出されるのだ。
2016年10月に施行された年金機能強化法では、
- 週所定労働時間20時間以上、
- 月収8.8万円以上(年収106万円以上)、
- 雇用期間1年以上見込み、
- 学生を対象外
- 企業規模501人以上の企業
これら5つの要件を満たす短時間労働者は強制的に加入することになった。施行以降、適用拡大によって新たに約43万人が被用者保険に加入している(2019年3月末時点)。
老後の年金額増やしたい政府の思惑
働き手が厚生年金に加入し、基礎年金に加えて厚生年金が上乗せされることで、老後の年金額を増やすことが政府の思惑だ。
撮影:今村拓馬
今回の法改正では、企業規模要件を見直し、2022年10月に100人超、2024年10月に50人超の企業まで拡大することになった。50人超になれば新たに65万人のパートが加入する見込みだ。
政府の目的は、働き手が厚生年金に加入すれば、基礎年金に加えて厚生年金が加味され、老後に受け取る年金額が増えることにある。もう1つは加入者増えることで将来世代の年金の給付水準の向上につながるからである。
実は当初は加入対象者をもっと拡大するはずだった。政府の成長戦略実行計画(2019年6月21日閣議決定)に「勤労者皆社会保険の実現を目指して、被用者保険の短時間労働者等に対する適用拡大を進める必要がある」と明記。
安倍晋三首相も10月4日の臨時国会の所信表明演説で「全世代型社会保障」を掲げ、「3つの改革に、安倍内閣は果敢に挑戦いたします」と発言。その1つが厚生年金の適用範囲の拡大だった。
厚生年金に加入していない短時間労働者は1050万人に
実際に雇われているのに厚生年金に加入していない短時間労働者はどれだけいるのか。学生アルバイトと雇用契約1年未満の人も加えた週20〜30時間の労働者が約400万人。弁護士、税理士などの士業や非適用業種で働くフルタイム労働者が300万人。20時間未満で月収5.8万円以上が350万人。合計1050万人も存在する。
2019年9月から始まった厚生労働省の審議会(年金部会)では、一層の適用拡大を進めるべきだという意見が相次いだ。経済界を代表する経団連と労働組合の中央組織である連合の代表委員が、ともに企業規模要件を撤廃すべきと主張。経団連の代表は、適用が除外されている従業員5人未満の個人事業所に対する適用も、検討していく必要があると述べた。この種の議論で経団連と連合が意見を同じくするのは珍しいことだ。
連合は労働時間要件や収入要件について、週20時間以上働く人または給与所得控除の最低保障額以上(2020年から55万円)のいずれかに該当すれば社会保険に加入すること、主婦など被扶養者の年収要件も現行の130万円以上からから55万円以上にすることを求めていた。
中業企業団体のロビー活動「経営に影響」
ところが9月27日の議論を最後に、議論の舞台は自民党に移る。その結果、政府・与党内で企業規模要件を撤廃するのではなく、2022年10月に「100人超」、24年10月に「50人超」と、2段階で対象企業を拡大するという、ごく小さな範囲にとどまった。
影響を与えたのは多くのパートを雇用する業界団体や中小企業団体のロビー活動だ。例えば日本商工会議所は「中小企業の経営に大きな影響を及ぼす懸念があり、加えて、前回の適用拡大時に第3号被保険者を中心に就労時間を抑制する動きが見られたことから、人手不足を助長することになりかねない」という意見書を出していた。
つまり、①社会保険料負担が経営に悪影響を及ぼすこと、②年金保険料負担を免れている会社員と公務員の妻である第3号被保険者を中心に就業調整を行うことが人手不足を助長する——の2つを主張。与党がそれに配慮を示したのである。
しかし、今回の改正で年収要件に手をつけずに企業規模要件を最終的に「51人以上」に引き下げても、新たに対象になる主婦パートが厚生年金の加入を避けようとする「106万円の壁」が残るだけとなる。しかも就業調整だけならまだいいが、企業にとってはパートの労働量の負担増加につながるという意見もある。
賃金格差そのまま、厚生年金保険料のがれ
パート労働の現状に詳しい労働ジャーナリストの渋谷龍一氏は「企業はパート労働者を正社員並みに働かせる『基幹化』を促進している。その一方で、正社員との間に存在する純然たる賃金格差をそのままにし、さらに『壁』によって支払うべき厚生年金保険料の企業負担分を免れるという、3つの企業にとってのメリットを組み合わせた人材戦略を行っている」と指摘する。
「130万円を超えると保険料負担が発生するので主婦パートに職場の基幹戦力になってもらうことを求め、今まで以上にきちんと働いてもらう。130万円未満でも企業負担が発生しないのでこの層を職場の主戦力にすることで、賃金格差はそのままというメリットを企業は得ています。保険料負担の発生が年収106万円にラインが下がれば、今度はその前後でパートの主戦力化が始まるでしょう」
今後、「51人以上」の中小企業に適用拡大すれば、さらにパート労働者の基幹化圧力が高まると予測する。
「中小企業はもともと正社員と非正規の境が曖昧な上に全国津々浦々にあり、そこでしか働けない人も多いのです。保険料負担をカバーするために基幹化という労働者の業務負担を重くする一方で、保険料負担があるからと、賃下げを要求する経営者が出てくる可能性も否定できません」
壁の存在を根深くする第3号被保険者制度
基幹化や賃下げを要求する経営者が出てくれば、主婦パートだけでなく、生活費を稼ぐ未婚者やシングルマザーも巻き添えになるだろう(写真はイメージです)。
保険料負担を受けた経営者による「賃下げ要求」の可能性 ——。その対象になるのは、もちろん主婦パートだけではない。生活費を稼ぐ未婚者やシングルマザーも巻き添えになる。こうした「壁」を根底で支えているのが保険料を支払う必要がなく、国民年金を受け取ることができる第3号被保険者制度の存在だ。
第3号被保険者制度:民間企業の社員や公務員に扶養されている配偶者が対象の年金制度。配偶者は第3号被保険者として国民年金へ加入する。しかし直接の保険料の支払い義務はなく、年金給付のために必要な財源は、その配偶者が加入している厚生年金から支払われる。1985年に創設された。
2018年度の第3号被保険者の数は847万人。第3号被保険者制度は1985年の年金制度改正で導入されたが、それ以前は会社員の妻も任意で年金保険料を払って国民年金(第1号被保険者)に加入していた。当時は約7割の主婦が国民年金に加入していたが、残りの3割は加入しておらず、将来、無年金状態になることが危惧された。
そのため約7割の国民年金加入者も含めて全員の保険料負担を免除する第3号被保険者制度を導入した経緯がある。
だが、制度が導入されたのは奇しくも男女雇用機会均等法の成立と同じ時期となる。女性が働きやすい環境を整備する一方で、女性を家に閉じこめておくような年金制度を設けるという矛盾を当初から内包していた。
賃金、労働条件への悪影響を指摘の声
実は前出の年金部会(9月27日)でも第3号について議論が交わされた。民間有識者の委員は次のように指摘する。
「第3号被保険者が近くのスーパーで働き始めると、単身者やシングルマザーなどの自身で生計を立てざるをえない方々の賃金水準とか労働条件に悪影響を与えるばかりか、近隣の商店街の経営にも悪影響を及ぼしかねないということになるのではないか」と指摘している(議事録)
つまり、第3号被保険者が就業調整をするために賃金が上がりにくい構造になり、他の働き手の賃金も低いままに据え置かれ、地域経済にも悪影響を与えると言っている。
組合員数179万人のうちパートタイマーが約6割を占める産業別労働組合のUAゼンセンの幹部も
「就労促進につなげるという観点から、第1号被保険者制度や第3号被保険者制度も含めてトータルで法改正の検討に入るべきだと考えている」と語る。
過去にも第3号被保険者の廃止を含む議論が政府内で行われたが、選挙で票を失うことを意識した政治家の介入で頓挫(とんざ)した経緯もある。しかし、今では専業主婦世帯は600万世帯に減少し、逆に共働き世帯は1219万世帯に増加している。
しかも未婚者の増加などライフスタイルも多様化している。政治家の都合で先送りにするのではなく、第3号被保険者の存廃を含めて働き方や生き方の選択によって不公平が生じることのない社会保険制度のあり方を議論するべき時にきている。
(文・溝上憲文)