2020年、競技かるたの普及と振興を目指す「ちはやふる基金」を立ち上げると発表した末次由紀さん。
撮影:吉川慧
累計発行部数は2500万部、2019年10月からアニメ3期が放映している大ヒット漫画『ちはやふる』。作者の末次由紀さんは2020年1月、競技かるたの普及と振興を目指す「ちはやふる基金」の設立を発表し、話題を呼んだ。
2月23日には、基金が協賛する初めての大会「第1回ちはやふる小倉山杯」を開催する。
連載開始から10年以上を経た今、なぜ基金をつくったのか。そこには「競技かるたが抱える課題解決に役立ちたい」という、末次さんならではの想いがあった。
完結したら、もう描けない?
2月23日には京都市で「第1回ちはやふる小倉山杯」を開催し、優勝者には賞金100万円を提供する。写真は会場となる嵯峨嵐山文華館。
撮影:西山里緒
「私はまんがしか描けない。けれどお世話になったかるたに、恩返しをしたい」
基金の設立にあたり、そう綴った末次さんのエッセイ漫画はSNS上で大きな反響を呼び、ツイートは現在、1万いいねを超えている。
2020年2月時点で、43巻まで刊行されている『ちはやふる』。現在は主人公・綾瀬千早が競技かるたの女性最高位を争うクイーン戦に挑戦中で、物語は山場を迎えている。連載終了までに残された時間はあと2年ほど。「50巻は超えないんじゃないか……」と、末次さんは明かす。
「漫画を描くことって、いつも戦争に出ているような感じで、とてもきついんです。だから連載が終わってしまったら、私はラクなほうに逃げると思って」
「もう取材する必要もなくなるし、違う漫画も描き始めるだろうし……。でもこんなにお世話になってきたかるたとの関係も、そこで終わりでいいんだろうかと」
競技かるたに携わる人たちから聞いたのは、現場の疲弊だ。『ちはやふる』ブームでかるた人口は爆発的に増え、この10年で3倍になったとも言われる。一方で賞金の出る大会はほとんどなく、人数が増えたために会場を借りるのも一苦労、という現状が続いているという。
「自分は受け取りすぎていたな、と思って……。その受け取ったものを誰かにパスしたい、という想いが強くなっていきました」
作中でも「かるたプロ」描く
主人公・千早のライバルであり高校生かるたクイーンの若宮詩暢(写真左)は、史上初の「かるたプロ」を目指している。(近江勧学館にて撮影)
撮影:西山里緒
末次さんは「競技かるたで対価が得られる環境」を後押ししたい、と声に熱を込める。
「かるたで生きていける人が何人かはいてもいいだろう、と思うんです。賞金もひとつの手段だし、かるた講師として講習料をもらうかたちでもいい」
作中では、競技かるたを取り巻く厳しい資金事情の現実も描かれる。ほとんどの試合には賞金も出ず、交通費さえ自腹で支払わなければならない。
そんな中、かるたクイーンであり主人公のライバル・若宮詩暢(しのぶ)は、史上初のかるたプロを目指し、YouTubeやインスタグラムを活用してかるたの普及に努める。その姿は、作者・末次さんが「かるたへの恩返し」に奮闘する姿にも重なる。
「現実とリンクさせようと思って描いたわけではありません。でも、詩暢のがむしゃらな頑張りを、その世界の中の人として見るうちに、彼女を支援したいという大人が現実にいてもいいんじゃないかと思ったんです」
現在、NPO活動への寄付などができる「Syncable」や、ネットショップ「STORES」で『ちはやふる』グッズを購入することで、「ちはやふる基金」への寄付ができる。「なるべく手間のかからない方法で」と、今後はメルカリやメディアプラットフォームのnoteなどでもかるたを支援できる仕組みを整える予定だ。
今後は、海外に住む人も簡単にグッズが購入できる方法を探していきたいと末次さんはいう。例えば、『ちはやふる』の大きなポスターデータをグッズとして提供することなどを考えているそうだ。
「賞金100万円」レベルの大会を増やしたい
「第1回ちはやふる小倉山杯」の会場となる、京都・嵯峨嵐山文華館の大広間。
撮影:西山里緒
「第1回ちはやふる小倉山杯」の賞金総額は200万円。かるた大会の賞金としては異例の規模だ。
末次さんは、賞金のある大会を設立する意義についてこう語る。
「かるたのボランティアの方からも『いまはバイトの方を取ってしまうこともある。せめて手当が8000円くらいもらえたら、大好きなかるたの手伝いなんだから、全然がんばれるのに』などの声も聞きます」
「『ちはやふる小倉山杯』の半分くらいの規模でもいいので、賞金の出る大会を複数作っていきたいと考えています」
2020年の寄付集めの目標は1000万円だ。全国高等学校かるた選手権大会を運営する上で、足りない分などに充てていくという。「これから、協賛してくださる企業も増やしていきたい。自分で営業をしないといけないかも」と、末次さんは笑う。
「海賊版対策」に取り組む赤松健さんに背中を押された
自らの意見を積極的に発信する漫画家も、増えてきている。
撮影:吉川慧
漫画家が自らの名前を前面に押し出して、基金を立ち上げることは極めてまれだ。末次さん自身にも、葛藤はあったという。
「私自身、どうしても『漫画家は漫画だけ描いていればいい』という思いがありました」
一方で、漫画家がその影響力を使って社会や政治に自ら関わるケースも増えてきている。
その筆頭が『ラブひな』や『魔法先生ネギま!』で知られる赤松健さんだ。赤松さんは日本漫画家協会常務理事として、漫画の海賊版サイト対策に長年取り組んでおり、文化庁にも積極的にロビイングをしている。
末次さんも、その活動に背中を押されたひとりだった。
「(赤松先生は)新人漫画家はもちろん、ベテランでもなかなかできない政治・法律へのアプローチをしてくださっている。自分に関わることなのに、私は『赤松先生、がんばって……』と思うだけで、なかなか具体的な行動はできないでいました」
イラストエッセイストの犬山紙子さんが、2018年に児童虐待防止を目指してSNS上で展開した「#こどものいのちはこどものもの」キャンペーンにも影響を受けた。日ごとに「自分も、別の領域でできることがあるのでは」という思いが膨らんでいった。
多くの人を巻き込んで、課題を解決したい —— だからこそ、作品の印税などから資金を拠出するだけでなく、基金を作り、その活動を通じて広く寄付を募る方法をあえて採った。
「柔ちゃん」を生んだ漫画
作品の聖地でもある、滋賀・近江勧学館には、ファンからのメッセージが多く寄せられている。
撮影:西山里緒
「漫画家としての覚悟」。末次さんは設立の決め手を噛みしめるようにいう。
その原点には、漫画が読者の人生に与えるインパクトの大きさを感じた、末次さん自身の実体験がある。その作品が、1986年から1993年にかけて連載された、浦沢直樹さんによる柔道漫画『YAWARA!』だ。
「当時、柔道の強い女の子は『柔ちゃん』と呼ばれ、細くても小さくても、柔道を始めたいと思う女の子が増えました。主人公がオリンピックを目指す、という夢の具体的な道筋を見せてくれていたので、『自分にもできるかもしれない』と、多くの少女の背中を押したと思います」
その後、柔ちゃんのニックネームで親しまれた女子柔道の田村亮子(谷亮子)選手は、2000年のシドニーオリンピックで金メダルに輝いた。
「連載が終わっても、キャラクターが生き続ける。なにかの代名詞となれる漫画を描けることは、漫画家の憧れです」と末次さん。
同じように『ちはやふる』も、漫画を通じて日本に競技かるたブームを巻き起こした。連載開始以降、かるた人口は右肩上がりを続け、2020年現在は100万人を超えるといわれる。
「ぜひ、子どもたちがかるたに触れる機会を増やしていきたい。子どもが出場する試合から(基金で)支援していければ、と思っています」
直近1年間の好成績選手8名が一堂に会する「ちはやふる小倉山杯」は、競技かるた史の歴史的な1ページになりそうだ。
(文・西山里緒)