1987年、奈良県生まれ。小学校5年生から3年半、不登校を経験。国立詫間電波高専で人工知能を学んだのち、早稲田大学創造理工学部へ。2011年、分身ロボットOriHime完成。翌年オリィ研究所設立。
撮影:竹井俊晴
人と人とのコミュニケーションを支援して、人類の孤独を解消したい——。
そんな思いから、オリィ研究所代表の吉藤オリィこと吉藤健太朗(32)は自分の“分身”として人をつなぐコミュニケーションロボット「OriHime(オリヒメ)」を開発した。かつて自身が3年半味わった“生き地獄のような孤独”は、「もう、誰にも味わわせたくない」という。
幼い頃から自由研究や工作、絵を描くことが大好きだった。
オリィ研究所提供
奈良県の小さな町で育った小学校時代。吉藤は、オモチャも自前で作る「工作好きなキャラ」として通っていた。級友は皆、「今度はこいつ、何を作るんだ?」と関心を寄せた。
それが、小5にもなると、教室に1人ポツン。学校で孤立するようになっていた。相変わらず工作ばかりしている吉藤は級友と話が合わず、仲間外れにされることが多くなった。その頃、体調不良による入院をきっかけに学校を休みがちになり、ますます学校に行きづらくなった。
家の中にも“先生”がいた
オリィ研究所のオリヒメたち。
撮影:竹井俊晴
親や担任の先生は自分を引っ張り出そうとし、無理やりにでも学校に連れて行こうとする。自宅でパジャマのままの吉藤を連れ出そうとした先生もいた。行ったら行ったで、級友には「ずる休みだ」「仮病だ」と揶揄される……。
そんな負のスパイラルに陥り、吉藤は小学5年から中学2年にかけて、不登校になった。
特殊な事情もあった。
父親は吉藤が通う中学校の先生で、「家にも“先生”がいた」のだ。父親は熱心な先生ということもあり、息子を車で送ったこともあった。吉藤はなんとか学校に行けたとしてもすぐに体調を崩し、保健室へ駆け込んでしまう。すると、“吉藤先生”が保健室に現れ、「教室に戻りなさい!」。
狭いコミュニティで、学校に行かない子がいれば、「あそこの子は」と後ろ指を指されることもあっただろう。
一方で、地域ではボーイスカウトの隊長も務めていた父親に連れられ、不登校の時にもキャンプには出かけていた。
「父親は『野人(やじん)』なんですよ。『キャンプファイヤーの神』と呼ばれていたぐらいですから。キャンプ場って、不登校であるというステータスは明かさなくてよくて、普通にそこに集まった一員として扱われる。僕は単純に『ロープの結び目を作るのがうまいやつ』ってことで、そこにいられた」
だが、ボーイスカウトに参加している級友からは、「おまえ、学校は休んでいるのに、ボーイスカウトだけは出てるのか?」という言葉の矢も飛んできた。結局のところ、学校にも、家にも、そして地域にも、居場所がない状態は続いた。
「自分がそこにいていい」理由を問い続けた
撮影:竹井俊晴
「例えば、家で居間に自分がいることなんて、別に理由がなくてもよさそうだけど、実は『家族である』という理由がある。だから、自分がいてもいい場所には、何かしら理由がいるんだろうなと。当時から、私はものすごく自分に問い続けてきたんですよ。自分が『そこにいていい理由』は何か?って」
自室でベッドに寝転んだまま天井ばかりを眺める日々は、“生き地獄”だった。早く時間が過ぎてほしいのに、時計の秒針のカチッカチッという音だけが、やけに耳に響いた。
「人目を避け続けたら、日本語までうまく話せなくなっていました。自分はダメな人間だと思い込んでいたし、社会のお荷物なんじゃないかとさえ思っていた。死んでしまいたいと思った。自分でも危ないなと分かるから、バルコニーに近付かないようにしていた。
だから思うんです。これから生まれてくる子どもたちには、同じ経験を絶対してほしくないと」
吉藤は言う。孤独の定義とは、「世の中の誰からも必要とされていないと、その人自身が感じている状態」だと。
創作おりがみで養った「3次元の目」
どこでもサッと取り出せるよう、吉藤はいつも着用している「黒い白衣」の大きいポケットに折り紙を忍ばせている。
撮影:竹井俊晴
学校に行けなかった間、唯一夢中になれたことがあった。吉藤オリジナルの「創作折り紙」だ。
興に入ると、1日15時間は折っていた。吉藤の場合は机の上ではなく「空中で折る」。紙を折って、また折って、無数の升目を作り出し、「3次元の目」で個々の升目を立体の構造物へと折り上げていく。精巧な薔薇の花びらも、羽をつけた天使も数分で完成させてしまう。
この折り紙こそが、今にもつながる創作の原点だ。19歳の時には、折り紙文化を普及する団体として、「奈良文化折紙会」を設立している。
「僕のワクワクのもとは、何もないところから自分のつくりたいものを生み出すこと。折り紙の本を見てその通りに折るなら、退屈ですぐに飽きたと思う。ましてやプラモデルなんかは、苦痛でたまらない。工程表があって、その通りにつくるって、『我慢弱い僕』が一番苦手としてきたものだから(笑)」
中1の時、吉藤に転機が訪れた。折り紙作りに没頭する息子の姿を見た母親が、「手先が器用なら向いているのでは?」とロボットコンテストに応募したのだ。子どもが出場する、虫型ロボットを手づくりする競技大会で、吉藤は初出場にもかかわらず優勝。
この時感じた手応えから、「もっとロボットについて学びたい!」という意欲が湧いた。
養護学校での気づきから車椅子
大阪で開かれた「ロボフェスタ関西2001」は、吉藤が「師匠」と呼ぶ久保田憲司との出会いにつながった。
オリィ研究所提供
競技大会の1年後、大阪で開催されたロボットの祭典に出かけていた吉藤は、ユニークなロボットに目を留めた。自分より大きな体をしていて、補助輪付きの一輪車を漕いでいた。調べると、開発をしたチームの顧問を務めているのが、地元の工業高校の先生だと分かった。
今では吉藤が「師匠」と呼ぶ、久保田憲司だ。当時、奈良県立王寺工業高校の教員をしていた。
「この先生に弟子入りして、朝から晩までものづくりがしたい!」
目標を定めるや、吉藤は意を決して猛勉強を始めた。しばらくは折り紙も「封印」。目標ができたことで、少しずつ学校にも行けるようになった。
引きこもりを脱したきっかけをつくってくれた人物としても、その後進学した高校で生きる指針を与えてくれた恩人としても、「師匠なくしては語れない」というぐらいに影響を受けた存在だ。
高校入学直後、吉藤の“特技”を知った久保田から、「おまえ、養護学校でボランティアしてこい」と声をかけられた。その時の交流から、「車いすにはイノベーションが足りない」という視点が生まれた。
そこで16歳で開発したのが、傾いた場所でも安全なようにと水平制御機構をつけた「電脳車椅子」。この発明がきっかけで日本最大の科学コンテスト「JSEC(Japan Science & Engineering Challenge)」に挑戦し、「まさかの優勝」を勝ち取った。その実績が、世界大会「ISEF(国際学生科学技術フェア)」への出場へとつながっていく——。
世界大会への切符を手にした「JSEC」の表彰式(2004年11月7日、日本科学未来館)。
オリィ研究所提供
「こんな展開、僕自身だって想像もしていなかった。毎日天井だけ眺める経験は、もう二度としたくない。だけど、あの経験があったからこそ今は、自分だからできることがあるって、最高だなと思っている自分がいる」
人を助け、癒すことができるのは「人」である。そんな実感こそが、後の「分身ロボット」の発明に結びついていく。
(敬称略・明日に続く)
(文・古川雅子、写真・竹井俊晴)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。