1987年、奈良県生まれ。小学校5年生から3年半、不登校を経験。国立詫間電波高専で人工知能を学んだのち、早稲田大学創造理工学部へ。2011年、分身ロボットOriHime完成。翌年オリィ研究所設立。
撮影:竹井俊晴
吉藤オリィこと吉藤健太朗(32)は、早稲田大学でコミュ障克服の「修行」により人と人とのコミュニケーションの本質を知った。研究活動では、在学中に立ち上げた「オリィ研究室」で、コミュニケーションロボット「OriHime(オリヒメ)」のプロトタイプを完成させていく。
その後、ロボットのコンセプトを広める中でもたらされたのが、番田雄太というかけがえのない親友との出会いだ。吉藤は「人こそが人を癒やす」と肌身で感じたという。
吉藤は、2018年秋から不定期に開催されてきた公開実験「分身ロボットカフェ」の実現に執念を燃やしてきた。カフェを取材する中で私が忘れられないのは、重度障がい者や外出が困難な人たちが、働くことを心の底から喜び合う姿だ。
例えばバックヤードでは、店員を務める「パイロット」たちが勤務時間前に朝礼を行う。店にいるスタッフはロボット越しに「今日は体調大丈夫?」「行ってらっしゃい!」などと声をかける。自宅のPCを通じてオリヒメに接続するパイロットたちは、マイクを通じて、「今日も元気です!」と応える。
仕事上がりには、パイロット同士がお互いのロボット(身長が120センチある「OriHime-D」)の片手を上げる操作をし合って、ロボット同士で「ハイタッチ」までしていた。
「働くすべての時間が心躍る経験」
分身ロボットカフェで接客デビューしたら「人生、変わった」と話すパイロットも。生まれつきの難病で、一般的なカフェにも訪れた経験がなかったという。
オリィ研究所提供
島根県に住む三好史子(25)は、初めての接客業に初めこそ緊張したものの、「働くすべての時間が、心躍るような経験です」と語る。
三好は脊髄性筋萎縮症(SMA)II型という神経の筋疾患を有しており、日常生活全般に介助が必要なため外出が困難。それまではシール貼りなどの内職しか経験したことがなかった。
「オリィさん(吉藤)のすごいところは、目線がいつも、私たち障がい者と同じところにあると感じられるところ。福祉の職場で働くと、スタッフと障がいのある人という区別ができて、『働かせてもらっている』という気分になりがちなんです。
でも、オリヒメの職場で働いてると、『私』として見てもらえて、居心地がよくて。あー、一般の会社でいう職場の同僚って、こんな感じなんだなーって」
まさに三好が味わうのは、もう一つの身体、「分身」を使った新しい働き方ならではの充足感だ。吉藤に、オリヒメで働く職場づくりのために工夫したことは?と尋ねてみた。
「実は僕らは、実験カフェの本番前から、“職場感”を高めるための工夫はいろいろしていて。スタッフとパイロット全員のFacebookグループをつくって、僕がアイスブレイキングを織り交ぜてファシリテートをするなかでみんなで自己紹介をし合う、とか。
でも結局は、皆が働くなかで同僚意識が生まれたんだと思う。だって、オリヒメでパイロット同士がハイタッチするなんていう使い方、僕らは想定していたわけじゃないですから(笑)」
「寝たきりチャレンジャー」からのメール
親友の番田雄太(右)と。オリヒメの改良版ができた時、いつも真っ先に使うユーザーは番田だった、
オリィ研究所提供
分身ロボット使って働く。新しいワークスタイルを体現するにあたり、貴重なアドバイザーの役割を果たしたのが、先述した親友の番田だ。
番田は4歳の時に交通事故に遭い、頸髄損傷に。盛岡市の自宅で20年以上も寝たきりで過ごしていた。
出会いは2013年12月、吉藤の元に届いた番田からの1通のメールがきっかけだった。
当時吉藤は、「OriHime mini」を開発して2012年に起業したところ。病気が重度だったり、距離が遠かったりして身体を運べない人が、本当にその場に行っているような感覚を味わえるようにする“心の車いす”としての「分身ロボット」を世に広めようとしていたところだった。
心の通い合う友人との出会いを望んでいた番田は、吉藤らの活動に共感し、果敢にもアクセスしてきた。あごにペンマウスを装着してパソコンを操作し、吉藤に出会うまでに6000人にメールを送ってきたという。
「心が自由なら、どこへでも行ける」
吉藤は懐かしそうに目を細めて番田の思い出を語った。
「僕が驚いたのはね、番田が何事にも『諦めない』姿勢を貫いていたこと。やりたいことがあったら、どんな手段を使ってでも諦めなければ実現すると。だからこそ、僕は今でもあいつを尊敬していて。
諦める態度って、実は学校に行くから身についちゃうんじゃないかなと僕は思う。番田は小さい頃に事故に遭って、学校に通えなかった。他人にありがとうと言いなさい、みたいなマナーとしての我慢を教え込まれていない分、心がのびやかだったんだと思いますね」
知り合ってからだいぶ経ってからだが、番田はよく、吉藤にこう話していた。
「心が自由なら、どこへでも行けて、なんでもできる」
最初に番田からメールをもらった時、吉藤はFacebookを見て彼が寝たきりで暮らしているという事情を知った。すぐに盛岡の自宅に会いにいった。交流を重ね、オリヒメを通じて「オリィ研究所」の秘書を務める契約社員として働いてもらうことにした。
番田と意気投合した吉藤は、彼に何でも相談していた。番田は親友であり、最も身近なユーザーでもあった。番田のアドバイスの中に、「オリヒメに腕があった方が良い」という意見もあった。先行して開発していた簡易タイプの「OriHime mini」には、首を動かす身振りと音声しか表現手段がなかった。音だけでなく手の素振りが加わったことで、見る人が読み取れる情報の幅が広がった。
撮影:竹井俊晴
分身ロボットカフェの実現は、番田の存在抜きに語れないと吉藤は言う。120センチの「身」のある「OriHime-D」は、番田との何気ないやりとりから着想した。
吉藤「番田のOriHime miniを持ち歩いて、『こちらが秘書の番田です』って紹介して回っていると、どっちが秘書だか分からなくなるね。たまにはコーヒーぐらい淹れてくれよ(笑)」
番田「え、僕は役に立ちたいし、むしろ淹れたいんだよ! じゃあ、そういう体をつくってくれよ」
分身ロボットカフェの実現に向けても、番田との会話がヒントになった。
「2016年頃から番田と、『寝たきりカフェやろうぜ』って話していた。実際のカフェは遠隔で操作することになったんだけど、最初、番田と話していた時に、彼は『現場に行ってオリヒメで接客したい』と言っていた。目の前の人と会話しながら自分が接客をする側になれると。
彼はもう一つの望みがあって、大好きな唐揚げが目の前にあったら、自分でオリヒメを操作してついでに『つまみ食い』もできると(笑)」
いつも世話される側に回らざるを得なかった番田には、深い孤独があった。「誰かに必要とされる存在になりたい」「誰かを助ける側に回りたい」という強い思いがあった。
「僕は、切実なニーズがあってこそ、発明が生まれると思っていて。番田も含む『誰か』と一緒だからこそ僕は視点をもらえるし、ものがつくれるんです」
あの時生き延びる選択をしたからこそ
その関係が突然終わったのは2017年9月。番田の死によってだった。出会ってから約3年間、番田は遠隔で吉藤の秘書を務め上げた。心を通じ合わせていた番田の死によるショックが大きく、吉藤はしばらくの間、心の空白を埋められないでいた。
今はこう思っている。
「かつて僕が不登校の時に、死んでしまいたいと思った瞬間は何度もあった。でもそのまま生涯を終えていたら、番田があごで自分にメールを送ってくることもなかったわけで……。自分が生き延びた世界線と、あのとき死んでしまった世界線があったとして、結果的に僕は生き延びる選択をした。
じゃあ、僕が生き延びた価値、僕らが出会った価値は何かといえば、僕や番田が苦しんだ孤独という問題を、少しでも解消できる糸口をこの世に残していくということじゃないかと。僕にとって、これ以上にチャレンジングな野望はないと思う」
(敬称略・明日に続く)
(文・古川雅子、写真・竹井俊晴)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。