1984年、福井市生まれ。文化服装学院を卒業。路上で絵を描き始めたのを機にアーティストに。2017年ガーナのスラムを訪ねたことをきっかけに、スラムのゴミを生かしたアートの制作活動を始める。
撮影:福田秀世
ガーナのスラムの体験を元に作品を制作している現代アーティスト・長坂真護(35)は10年ほど、売れない時代が続いた。
真護は、福井市で育った。幼いころから、花や風景といった身の回りの対象をスケッチするのが好きだった。絵画教室に通ったわけでも、美術の専門教育を受けたわけでもない。まったくの独学だ。
サッカーや水泳など、さまざまな習い事を試してみたが、長続きしない。けれど、絵を描くことだけはやめなかった。
高田賢三、山本耀司といった世界的なファッションデザイナーを輩出した名門の文化服装学院に進学するために上京した際も、デザイナーになりたいというより、上京したい思いが先に立った。それでも学生向けのデザインコンテストで、入選を重ねた。
留学費用を稼ぐためホストへ
都内のスタジオが制作場所。今はとにかく「量産」することを目指している。
撮影:福田秀世
卒業後にロンドンに留学できる、学内のコンテストでも最終審査に残った。就職活動をせず、制作に打ち込んできたが、最後に選ばれたのは同級生だった。
悔しくて、福井の母に電話した。
「オレには才能がある。ロンドンに留学させてくれ」
無理を承知で母に泣きついたが、返答は厳しかった。
「3年で、伸びたのはあんたの鼻だけだね」
留学の費用を、手っ取り早く自分で稼ぐために、真護は新宿・歌舞伎町のホストクラブで働くことにした。
10時間以上の勤務中、ずっと皿洗いが続く。先輩ホストと一緒に女性客の接待をしても、タイミングよく酌をすることも、気の利いた会話をすることもできない。ただ座っているだけ。先輩には、「おまえは置物か」と罵倒された。
真護を指名してくれて、高額のシャンパンやワインのボトルを入れてくれる客も現れたが、月末の支払いが近づくと、100万円近いツケを残したまま、いなくなった。
ツケを残して「飛んだ」客の支払いは、ホスト個人が責任を負う。20代になったばかりの真護にとって、100万円は1億円にも思えるような大きな金額だった。
専門学校時代の友人たちに頼み込んで金を借り、クレジットカードのキャッシングと合わせ、飛んだ客の支払いを済ませた。
苛烈なナンバーワン競争から起業
2019年12月に銀座のギャラリーで開いた個展。ガーナのゴミを使った作品が中心だった。
撮影:福田秀世
街で女性たちに声をかけ、店に来てもらうことを覚えた。
「何がなんでも、ナンバーワンになりたいんだ。応援して」
ホストになって7カ月で初めてナンバーワンになり、1年トップを維持した。その1年の年収は3000万円に達した。誕生日の月には、800万円の給料を受け取ったという。
だが、ホストの世界は苛烈な競争だ。競争相手のホストは、なじみの客に金を貯めてもらい、誕生月にまとめて店で金を落としてもらう。その繰り返しに、真護自身もすり減っていった。
アパレルの分野で起業することを思い立ち、3000万円の資本金で会社を立ち上げた。「自分は、何をやっても成功できる人間だ」と思っていた。
自らのブランドをつくり、営業やPRの担当者を雇ったが、思うように売り上げが上がらない。1年ほどで、資本金は底をついた。手元に残ったのは、1000万円ほどの負債と大量の在庫。得意先に負債の減額を頼み、在庫を投げ売りしながら、路上で絵を描き始めた。
「向かう方向がわからないようだった」
ガーナをテーマとする前は、主に女性を描いていた。
撮影:福田秀世
このとき24歳。専門学校を卒業して以降の10年間について、真護はこう振り返る。
「以前の自分自身も、自分の作品も好きじゃない」
女性たちの家や漫画喫茶で寝起きし、金がなくなると福井の実家に戻り、部屋で絵を描いた。
当時の真護が主な題材としていたのは、女性たちだった。
クラブイベントや野外フェスなどさまざまな場所でライブペインティングを披露し、個展も開き続けた。
写真家の福田秀世(61)は10年ほど前、路上で絵を描き始めて間もないころの真護と出会った。宇多田ヒカルのデビュー作「Automatic」(1998年)のジャケットの撮影を手がけるなど、ファッション、音楽の分野で長く第一線にいる。
撮影:福田秀世
レコード会社の重役から、歌手や画家を目指す若者として真護を紹介されたという。このとき福田は、真護のポートレートも撮影した。
「絵が好きで、女性に興味があって、美人画を描いていたが、どこに向かえばいいのかわからないようだった」
福田には、当時の真護がこう映った。
真護からは、個展を開くたびに連絡があった。福田は個展を訪れるたびに、少しずつ真護の作品に深みが増していると感じていた。
福田は、6年前に真護が東京・日本橋で開いた個展が転機だったと考えている。当時はまだ美人画が中心だったが、質が一変し、なにより真護の目の光が別人のように強くなっていた。少しずつ支援者も現れ、真護をめぐる歯車が回り始めた。
福田はこのころから、真護がつくるすべての作品を撮影し続けている。いずれ作品が人々の手に渡り、世界中で流通するようになったら、こうした記録が生きてくると考えるからだ。
(敬称略・明日に続く)
(文・小島寛明、写真・福田秀世)
小島寛明:上智大学外国語学部ポルトガル語学科卒。2000年に朝日新聞社に入社、社会部記者を経て、2012年退社。同年より開発コンサルティング会社に勤務し、モザンビークやラテンアメリカ、東北の被災地などで国際協力分野の技術協力プロジェクトや調査に従事。2017年6月よりBusiness Insider Japanなどに執筆。取材テーマは「テクノロジーと社会」「アフリカと日本」「東北」など。著書に『仮想通貨の新ルール』(Business Insider Japanとの共著)。