オトバンク提供
新型コロナウイルスによる肺炎の脅威が日本ではあまり実感されていなかった1月26日、IT企業のGMOインターネットと、オーディオブック配信のオトバンクが全社テレワークへの切り替えを発表した。
陰では「過剰反応ではないか」「上手な広報戦略」との声もあったが、JR東日本、電通など、大企業の従業員が次々に感染する中、2社の早期の決断は適切だったことが立証された形だ。
だが、オトバンクの久保田裕也社長は4年間の試行錯誤の経験から、「感染リスクを防止するためのテレワークという考え方だと、うまくいかない恐れがある」と警告する。
満員電車を降りたら飛び蹴り
オトバンクは2016年、満員電車での通勤を禁止した。
Matej Kastelic
「テレワーク導入の原点は、4年前に朝8時台に乗った地下鉄で見た光景です」
久保田社長は、2016年10月に社内で「満員電車禁止令」を導入したきっかけを振り返った。
ラッシュアワーの銀座線。ぎゅうぎゅう詰めの電車を降りたら、今度は人込みで通路をふさがれた。その時、スーツ姿の男性が突然、前の人に飛び蹴りをした。
「あの男性はストレスで何かが爆発したのかもしれないし、もともとおかしな人かもしれない。でも、仕事を始める前にそんな環境にさらされるのは、従業員には悪影響しかないと思いました」
人の理性が失われる瞬間を目撃した久保田社長は動揺が止まらず、「満員電車に社員を絶対に乗せたくない」と強く思った。その体験が、以前から進めていた勤務制度の見直しをさらに加速させることになった。
オトバンクはそれまでも、従業員が柔軟な働き方ができるようにフレックス制度を実施していた。子育て中の従業員のためだけでなく、将来的には近親者を介護する従業員も出てくるだろう。国籍、性別も問わず、能力とやる気のある人が、フルタイムかつ無理をせず働ける環境をつくりたかったからだ。
だが、フレックス制度はコアタイム(午前10時から午後3時)には出社を求めており、自宅が遠い社員はラッシュアワーに引っかかってしまう。
当時、会社ではエンジニア部門がテレワークを試験導入し、情報統制やインフラ面などの問題の洗い出しと改善も進めていた。
機が熟したと判断した久保田社長はフレックス制度のコアタイムを廃止。満員電車での出勤を禁止するとともに、テレワークを全社に広げることにした。
「測定できないリスクは最大限警戒すべき」
久保田社長は、「危ないからテレワークという考えでは不十分」と考えている。
「新型肺炎のリスクに対し早い段階で対処できたのは、この満員電車禁止令以降の数年間の蓄積があったからです。これまでの取り組みを延長するだけで済みましたから」(久保田社長)
1月下旬、オーストラリアに出張していた久保田社長は、現地で中国人とやり取りする中で、事態の深刻さを感じ取った。新型肺炎の患者が爆発的に増加した武漢市が、春節休み前日に封鎖され。
ほんの一週間までは「武漢市で限定的に起きている感染症」と思われていたいた新型肺炎の感染者が他都市に飛び火し、まさに中国全土に広がり始めていた。オーストラリアにいながらも、そこで会う中国人の切迫感に際し、日本も対岸の火事ではいられないと感じた。
「当時、日本では感染者はほとんどいませんでしたが、新型肺炎のリスクの大きさはその時点で測定できないと感じました。測定できないリスクに対しては、ベストシナリオを考える必要はなく、最大限の警戒であたるべきです。それで役員に相談した上で、すぐに全スタッフに自分の危機感を共有しました」
結果、それまでの「満員電車禁止」「各自の判断で出社」を、1月27日以降「午前7時から午前10時まで全従業員が電車通勤回避」「不要な出社を控え、基本的に在宅勤務を実施」に切り替えた。
同社はオーディオブックを制作しており、従業員は収録のために社内のスタジオを使うこともある。もし午前中に作業をしたいなら、朝のラッシュを避けて7時前に出社し、その日は午後3時までに退社するよう求めた。
非常時モードに切り替えて1カ月、新型肺炎は収束するどころか拡大期に入ってしまった。久保田社長も今はオンラインで大半の業務をこなしている。
「危ないからテレワーク」では不十分
オトバンクは1月下旬、受け付けにサージカルマスクと消毒液を設置した。
日本政府も2月中旬以降、時差出勤やテレワークを呼びかけるようになった。感染者が出た企業はやむなく即時テレワークに切り替え、また、東京オリンピックを想定してテレワークを準備していた企業も、導入を前倒ししている。
しかし久保田社長は、「危ないから、テレワークに切り替えるという考え方では、うまくいかないのではないか」と話す。
オトバンクが満員電車での出社を禁止し、全社でテレワークを導入した最大の目的は、「従業員の生産性向上」であり、疲弊させないためだった。
新型肺炎のリスクに対し、「テレワーク推奨」から「原則テレワーク」に切り替えたのも、従業員の健康を守ることで生産性を高めることが本来の目的だという。
だが、ITリテラシーが高く、従業員70人と小回りのきくオトバンクでも、実際にはテレワークが浸透するまでに、小さなハードルがいくつもあった。
情報共有とトップの強い発信がかぎ
日本も感染者が増え、非常時モードに入った。
REUTERS/Kevin Buckland
久保田社長にとって、満員電車禁止とリモートワーク推奨はセットの取り組みだったが、「満員電車に乗らない時差出勤はすんなり受け入れられたのに対し、テレワークへの抵抗感はありました」。
会社に行くことが当たり前になっている従業員の意識を変えるために、同社は主に2つのことに取り組んだ。
まず、情報共有を徹底すること。会社に来なくてもだれでも平等に情報にアクセスできるよう、オンライン上にライブラリを作った。
次に、ITを日常的に使う従業員がエバンジェリスト(新しい技術や制度の普及啓発を行う人)の役割を担い、オフラインでの交流が定着している従業員をウェブ会議に誘うなどして、心理的抵抗感を下げて行った。
そうやって、全社テレワークに対し社内の違和感がなくなるまで1~2年かかったという。
感染症という予期せぬ事態に直面し、多くの企業が助走なしにテレワークに入っている。ハードの環境整備だけではなく、組織の設計やカルチャーの醸成が求められる点は、今後徐々に認識されていくだろう。
久保田社長は、自身の経験から「テレワークでコミュニケーションの形が変わるので、トップはこれまで以上に強く、組織に対する考え方を発信していく必要があります」と強調した。
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。現在、Business Insider Japanなどに寄稿。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。