「タマオ、湾岸のタワーマンションを買ったらしいよ」
学生時代の友人の集まりで、そんな話を聞いた。外資のコンサル会社に勤めているタマオは同じ30歳だというのに、すでに年収が4桁に乗ったという。30歳を過ぎてから、職種、業界によって収入に大きな差が出てくるとは知っていたが、こうもまざまざと現実を突きつけられるとシマオも心穏やかではない。
「上を見れば切りがないし、幸せはお金じゃない」と思いながらも、どこかで友人を羨ましく思うシマオ。特にマンションがほしいわけでも、何か高いものがほしいわけでもない。
「なぜ僕はお金がほしいと思ってしまうんだろう」
シマオはその答えが知りたくて、再び佐藤優さんの元を尋ねた。
資本主義では豊かさをお金に換算できる
シマオ:佐藤さん、今日は素朴な悩みを聞いていただきたくて、また来ちゃいました。あの……人生の豊かさって何でしょうか?
佐藤さん:豊かさ?
シマオ:はい。僕はあまり物欲がある方じゃないんです。趣味といえば将棋だけだし、服だってこだわりがない。でもやっぱり、友人が自分より稼いでいると、いいなあと自然と思ってしまうんですよね。
佐藤さん:現在、そういう人は多いですよね。
シマオ:じゃあ、お金で何がしたんだろう……と考えると、それは「豊かさ」がほしいんじゃないかって思って。
佐藤さん:「豊かさ」ですか。
シマオ:はい。でも自分の中で「豊かさ」とはなんだろうって疑問が出てきちゃって。
佐藤さん:疑問が出てくるというのは、シマオ君が今「豊かだ」と感じていないということですか?
シマオ:いや、ある程度豊かではあると思うんです。でもなんというか、この僕の知っている「豊かさ」は本当の「豊かさ」なのかな、って思って。もっと頑張ったら、もっと他の「豊かさ」があるんじゃないかって思うんです。
佐藤さん:なるほど。「豊かさ」とは何か……。まず社会という大きな枠で考えてみましょうか。
シマオ:はい。
「豊かさとは何か?」。その概念は時代によって大きく変わる。
佐藤さん:「豊かさ」の定義は、私が生きているこの何十年でも、かなり形を変えてきました。「豊かさ」とは社会的、個人的と多面的に解釈されるものではありますが、資本主義社会においては、ある程度、お金に換算されてきました。
シマオ:そうですよね。どんなきれい事を並べても、経済的に豊かであれば何でも買えるし。
佐藤さん:はい。資本主義というシステムの中では、金銭によって「欲望」を容易に購入することができます。
シマオ:欲望を買う?
佐藤さん:物質的な商品はもちろんのこと、資本主義においては性的欲求の解消も「サービス」として買うことができます。いわゆる風俗産業です。また女性であっても、ホストクラブなどで「男性に優しくしてほしい」というような欲望は買えます。
シマオ:まあ、そうですね……。
佐藤さん:ソ連崩壊後のモスクワでは、殺人でさえも簡単にお金で依頼できたんですから。たしか数十万円から200万円くらいかな。私も「サトーが始末したい人がいるならいつでも言ってくれ」と言われたことがあります。もちろん、そういう依頼は断りますがね。
シマオ:映画の世界……。
佐藤さん:そんな資本主義社会ですが、豊かさとお金の関係は、経済の変化とともに変わってきました。日本の現代史で言うと転換点はバブルでした。
シマオ:バブルか。よく聞きますが、正直全然イメージができないんですよね。
バブルは「豊かさ」を身近にした
佐藤さん:バブル経済時代の日本では、円高もあって海外からいろいろなものが入ってくるようになったんです。一番分かりやすいのが「食」です。
シマオ:食事が豊かになったということですか?
佐藤さん:そうです。シマオ君は友達や彼女と何かを食べに行く時、どうやって選びますか?
シマオ:和食、中華にイタリアン、それにビストロとか。その時の気分と予算で選びます。食べログとかで口コミを見たりして。
佐藤さん:バブルより前は、そんなに選択肢はありませんでした。今でこそ、サイゼリヤに行けばパスタでもピザでもいろんな種類があるけれど、かつてはスパゲッティといえば、ナポリタンかミートソースくらいしかなかったんですよ。
現代のように、あらゆるものを安く食べられるようになったのは、バブルの影響なんです。好景気により、日本は海外からあらゆる文化を取り入れられるようになった。衣食住、すべての分野において、著しく豊かになったんです。
シマオ:すごい変革期だったんですね。
佐藤さん:はい。それこそ明治維新にも匹敵する大変革とも言えると思います。 日本の土地や株は本来の価値からかけ離れた価格にまで上昇し、人々はそれらを買い漁った。 でもその後、バブルは崩壊した。
シマオ:それで景気が悪くなったんですよね? 僕たちミレニアル世代はもう景気がいい時を知らないから、 まったく実感がないのですが。
佐藤さん:そうでしょうね。シマオ君のご両親の世代はみんな覚えているでしょう。バブル崩壊後は、日本経済は落ち込み、世界的に見ても物価の上昇率は鈍くなった。それが現代も続いているんです。
シマオ:佐藤さんは、この経済低迷がこれからも続くと思いますか?
佐藤さん:はい。この日本の経済低迷が止まらないのには、構造的要因があります。それは、製造業の拠点が中国や東南アジア諸国に移転し、低賃金労働による結果、商品の価格が安くなっているということ。 その低賃金競争に巻き込まれ、日本人勤労者の賃金も上がりづらいのです。
日本の経済低迷が「ニート」を生んだ
シマオ:低賃金と言われてはいますが、正直、賃金が高かった時代を知らないので「低い」という実感がありませんでした。
佐藤さん: 経済が低成長の時代に生まれ育ったみなさんにとって、経済低迷はもはや空気のような存在ですよね。この状況は今後も変わらないと覚悟していく必要がありますよ。
日本の経済低迷はこれからもしばらく変わらない。豊かさをお金に変えることで、成長していた時代はもう終わったのか。
シマオ:これからも……。たしかに、今、アメリカとか海外に行くと本当に物価が高く感じます。アジア諸国だって、僕が学生の頃はめちゃくちゃ物が安く感じられたのに、今は逆に東南アジアの人たちが「日本安い!」って言っていろいろ買いに来ますよね。
佐藤さん:はい。ダイソー、UNIQLOなど、日本には世界にも誇れる「激安」店ばかりなんです。バブル崩壊後の経済低迷のおかげで、安くていいものが溢れているのが今の日本です。 つまり少しのお金で「豊かさ」が手に入るということなんですよ。
シマオ:それって努力しなくても「豊か」になれる、ということにもなりますよね。
佐藤さん:はい。「ニート」など「無気力」と見なされる若者を生んだ原因は、産業のグローバル化によって、競争に勝利した層とそうでない層とがはっきりと分かれてしまったからだと私は思います。勝利できなかった層にとって、将来の展望は非常に見えにくくなった。
シマオ:目指すところが見えなくなったから、行動を起こせないということですね。
佐藤さん:現時点では、親世代、祖父母世代からの富の蓄積で、ニートが可能になっていますが、今後20年以内にそれも難しくなってきます。格差が拡大すると、現状、多くの日本人が享受している表面的な「豊かさ」も維持できなくなると思います。
シマオ:表面的な豊かさ……。
佐藤さん:その意味で、現在の「豊かさ」には期限があると認識しておいた方がいいと思います。
シマオ:僕たちがその有限の「豊かさ」から抜け出すためには、もっとお金を稼がなくてはいけないということですか?
佐藤さん:いやいや、そうは言っていませんよ。今度は「お金の価値」に関してもう少し話しましょうか。
※本連載の第6回は、3月11日(水)を予定しています。
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的な言論活動を展開している。
(構成・高田秀樹、撮影・竹井俊晴、イラスト・iziz、編集・松田祐子)