「お金だけが豊かさの象徴ではない」。そう思いつつも、高給取りの友だちの話が気になるシマオ。そんなシマオに佐藤優さんは「資本主義では豊かさをお金に換算できる」と言う。しかし、高度成長期以降、豊かさをお金に変えてきた結果、現代の日本はその表面的な豊かささえも維持できなくなっているらしい。では今、シマオが目指すべき豊かさとは何か。佐藤さんは話を続ける。
豊かさを中から見るか、外から見るか
シマオ:佐藤さんの話を聞くと、豊かさをお金に換算したことにより、ある程度、経済的豊かさは手に入ったけれど、目指すべき目標が見えづらくなってしまったように感じます。
佐藤さん:健全な上昇志向は問題ないですよ。ただ「一億総上昇志向」ではない時代になっていると思います。
シマオ:お金にガツガツしていた時代は終わったと?
佐藤さん:いや、お金で買える最低限の豊かさは必要です。ただ自分が不幸にならない程度に稼ぐことができたら、それ以上お金を稼ぐことを目指す時代ではないのではないのだという意味です。
シマオ:たしかに。僕も美味しいもの食べたいなーって思ったりもしますが、コンビニの弁当で満足しちゃいますね。フレンチに行くためにもっと稼ごう!とは思わない。そう考えると、お金はなくても豊かな暮らしは手に入るってことかな。
佐藤さん:お金がなくてもそれなりの暮らしができる ということ自体はいいことです。ここで大切なのは「豊かさ」は中から見るか、外から見るかで変わってくるということ。
シマオ:中から見るか、外から見るか?
佐藤さん:まず「豊かさ」を中から見るということはどういうことか。相対的貧困、いわゆる格差の問題を考えてみてください。
シマオ:相対的貧困?
佐藤さん:相対的貧困とは、世帯の収入がその国の平均収入の半分に満たないということ。現代の日本には明日の食べ物にも困っているという絶対的貧困者は、ごく限られた人たちだけだと思います。一方、相対的貧困者は増えています。
シマオ:平均所得に満たない人が多くなってきている?
佐藤さん:はい。でもそういう人たちでも、たまにファミレスに行ったり、旅行に行ったりすることはできる。そしてそれを「豊か」だと思えている。 相対的貧困とされている人は、自分たちが格差の下にいるという意識もなくなってきているんです。
「一億総中流」の意識は現代の格差社会でも色濃く残っていると佐藤さんは言う。
シマオ:貧困とされている中にいても、そこそこの生活ができてしまうと、上を見なくなる。
佐藤さん:そういう傾向が高いと思います。かつて日本は「一億総中流」などと言われていました。国民全員が「自分は中の中。真ん中の生活レベルにいる」と思っていたんです。だから一緒に上に行こう、となっていた。
でも、今はその中流の人が少なくなって、上流と下流の格差がすごく広がっている。もう10年以上前から格差社会に突入してしまっているんです。しかし、ほとんどの人の意識は「自分は中流にいる」というまま止まっているのです。
シマオ:……現代では、少ないお金でもある一定の生活レベルを保てるようになった。しかし、それが格差を見えにくくし、見えない間に埋められないほどの溝となっている、ということですね。
佐藤さん:はい。みんな中流だった時は、総じて上を目指せた。しかし今、下から上に這い上がることは大変難しいんです。
お金に換算すると豊かさは永遠に手に入らない
シマオ:今の話を聞くと、どの層の人たちでもそれぞれが感じる豊かさというのは、手に入りやすくなったということですよね?
佐藤さん:はい。ダイソーの商品に質の高さを求めないですよね? ドトールなら約200円、スターバックスなら300円、そしてマクドナルドやコンビニなら100円でコーヒーが飲める。じゃあ、ホテルのラウンジで1300円のコーヒーを飲みたいかといえば、必ずしもそんなことはないわけです。
つまり経済的な上昇を諦めてしまえば、楽に「豊か」に生きることができるんです。
シマオ:自分の身の丈に合った豊かさで満足して、目線を上げないことで「豊か」になるということか……。何か、ちょっと人生を諦めてしまっているようにも聞こえますが。
バブル期には金持ちの象徴だった外車も、もはや富を表すものではなくなっている。
佐藤さん:シマオ君、あなたは、「プロレタリアート」という言葉を知っていますか?
シマオ:え……いえ、ちょっと分かりません。
佐藤さん:資本家であるブルジョワジーの対語、労働者階級という意味です。この「プロレタリアート」という言葉は、もともと古代ローマの国勢調査の財産区分で、「子どもしか持っていない人」、すなわち「他に富を生み出す手段を持っていない人」という意味なんです。
シマオ:子どもしか持っていない?
佐藤さん:しかし、マルクスは異なった概念でこの言葉を使いました。マルクスは、十分な土地、預金、株などの資産がなく、自分が働くことだけで賃金を得る人々を「プロレタリアート」と規定しました。
この意味で言うと、工場労働者だけでなく、現代で言う事務職や営業職などのビジネスパーソンもプロレタリアートと言えるのです。
シマオ:へえ……。
佐藤さん:労働以外の稼ぎを特に必要としない、階級のアップを求めない「プロレタリアート」で自分はいいんだと思ってしまえば、それなりに豊かに暮らせる土壌が今の日本にはあるんです。
シマオ:プロレタリアートにはプロレタリアートの豊かさがある……。
佐藤さん:一方で上昇志向を持つ人も多くいますよね。それはそれで健全だと思います。ただ、上に行ったからといって豊かさは手に入るでしょうか?
シマオ:入らない?
佐藤さん:例えば年収200万円の人が300万円になったら、見える景色が違ってきます。500万円の人が700万円になると、生活にかなり変化が生まれます。しかし、50億円の人が100億円になっても、そんなに変わりません。
世帯年収で言うと、1500万円を超えるとその先は、5000万円にならないと生活は大きく変わらないと思います。
シマオ:次のステージに行くためには、年収が高くなるほど、どんどん大変になるということか。
佐藤:はい。だからもしシマオ君が「豊かさ」をお金に換算するのなら、頑張ってお金を稼いで稼いで稼いでも、永遠にそれは手に入らない。その「豊かさ」には天井がないから。
今まで総体的だった日本の「豊かさ」はより部分的、個人的になっているのです。
求めるのは幸福より安楽
シマオ:以前、佐藤さんは「人生、いつも幸せだ」と言ってましたね。逮捕、勾留されていた時も、その思いは変わらなかったと……。
佐藤さん:そうですね。拘置所にいる時間で、読みたい本を読むことができる。ある種の充実感を覚えることもありました。
シマオ:タフですね……!
佐藤さん:私だけでなく、人間は環境順応性が高いんですよ。考え方の基準があるとすれば、「まわりと比べて自分がどの位置にいるのかではなく、自分の置かれた環境においていかに安楽に暮らせるか」。
シマオ:安楽? 安楽って何ですか?
佐藤さん:大川周明という右翼の思想家が書いた『安楽の門』という本があります。大川は、「幸福という言葉の意味は漠然として捉えがたい」から、幸福よりも安楽と言ったほうがよいと書いています。その本の章タイトルがおもしろくて、第1章は「人間は獄中でも安楽に暮らせる」。
シマオ:おお。何か迫力が違いますね……!
佐藤さん:そして第2章は「人間は精神病院でも安楽に暮らせる」です。
シマオ:……(すごい世界だ)。
佐藤さん:私も獄中では安楽に過ごすことができました。まあ、あれは特殊な経験ですけどね。幸福というのはものすごく抽象的概念なんです。抽象的概念は曖昧で、その時代の社会的背景に影響を受けやすい。
ですので、幸福という言葉を使うと、ついお金がある暮らしを思い浮かべてしまうんです。
シマオ:安楽と聞くと、たしかにちょっと楽そうですよね(笑)。
佐藤さん:例えば同じ居酒屋でも、豊かさを感じられるところと、そうでないところがありますよね。新橋近くによくあるけれど、同僚の悪口とか、会社への不満しか聞こえてこない店。そこに行きたいと思う?
シマオ:仕事のつきあいでも、できれば行きたくありません。
佐藤さん:逆に、最近、チェーン店の居酒屋、和民に行くと、家族連れが多いことに気づきます。居酒屋というより、ファミレスに近いような和気藹々とした雰囲気。これは愚痴を言い合いながら飲むよりも、圧倒的に豊かです。
シマオ:たしかに。
佐藤さん:豊かさは何かというと、それは趣味の問題と一緒なんです。犬が好きな人と猫が好きな人で、どちらがいいということはありません。自分の人生でどっちを選ぶか、ということです。
シマオ:もちろん猫ですよね! しかし、それって理由がないものだもんなあ。
佐藤さん:そうです。そこに正しいも間違いもないのです。お金がない人にある人が「なぜ働かない! もっといい暮らしをするために働かないのは怠惰だ!」といっても意味がないのです。
※本連載の第7回は、3月18日(水)を予定しています。
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的な言論活動を展開している
(構成・高田秀樹、撮影・竹井俊晴、イラスト・iziz、編集・松田祐子)