1976年生まれ。慶應義塾大学SFC卒業後、リクルート入社。「雪マジ!19」キャンペーンなどで頭角を現す。2016年にWAmazingを起業。
撮影:伊藤圭
WAmazing のCEO、加藤史子(44)は神奈川県横須賀市に生まれ育った。大学進学では受験した大学すべてに合格したうえで、母の勧めるICU(国際基督教大学)を蹴って、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に。これを機に実家を出た。
小5のとき、文化祭の出し物を決める話し合いで自分のアイデアが通ったのが、はじめの一歩だった。以後、横須賀の公立中、県立横須賀高ともに文化祭の実行委員に名を連ねたお祭り好き。公立中は神奈川県下有数の「学校崩壊」校だった。
運輸省(現在の国土交通省)の技術官僚の父と専業主婦の母の一人っ子。「堅いうちの子」だったためヤンキーカルチャーに身を染めることはなかったが、「ワル」の男子とも気が合った。
家を出たのには理由がある。両親は香川県高松市の高校の同級生同士だ。
父は70歳を超えた今も海外向けODAに関わり世界を飛び回る仕事熱心なマッドサイエンティストタイプ。母は団塊世代でありながら東京の女子大を卒業した才媛。
母は、バイタリティがあり本当は仕事を持ち社会とつながりたい人だった。あり余るエネルギーは一人娘に向かい、加藤は息苦しさも感じていた。
男女格差に気づかせた教授の言葉
慶應SFCは、学際教育をキーワードに始まった。
慶應義塾大学ホームページより
慶應SFCは入学時、創設5年目。キャンパスはまだ完全には整っておらず、教員にも学生にもベンチャーマインドが満ちていた。
入学時、スピーチに立った教授は、女子学生比率が4割のSFCが慶應保守派と対立したというSFC創設の秘話を披露した。それは、保守派が次のような理由でSFCに批判的だという話だ。
〈女子は卒業後に家庭に入り財布の紐を締めるため母校に寄付しない。男子は企業に残り続けるので出世すると母校に寄付する。つまり、女子学生が増えると慶應の財源である寄付金が減り、学校経営は打撃を受ける。女子学生比率の高いSFCはけしからん〉
高校まで社会は男女平等だと教えられていた加藤に、ジェンダーバイアスに満ちた社会を生きるには、社会のアルゴリズムを知りハックすることが大切だと目覚めさせる話だった。
給料に見合った働きをしているか
リクルート時代、30代は2人の子育てをしながら自分のルールで働いた。
加藤史子さん提供
毎日がお祭りを仕込んでいるような学生時代を過ごし、1998年、リクルートへ。
新入社員研修の2日目、朝から机に突っ伏して寝ていた加藤に、体調が悪いのかと確認した人事担当者は、そうではないとわかると、「学生のうちは金を払って寝てもかまわない。だが社会人になったら寝ているその時間も会社は金を払っている」と静かに諭した。この出来事がきっかけで、給料に見合った働きをしているか、常に考える習慣がついた。
リクルートの事業は旅行、ブライダル、不動産など、幅広い。自ずとクライアントの特徴を反映して事業部ごとに独特のカラーがあるという。
加藤がこんなふうに喩えてくれた。
〈じゃらんは地方の公立高校、ゼクシィは都会の女子高、ホットペッパーは軍隊。〉
加藤の明るく伸びやかなエネルギーは、公立高校や軍隊に合っていたらしい。
三軒茶屋で女友達とルームシェアし、モーレツに働き、遅くまで飲み、若い毎日は充実していた。25歳でマンションも買った。
成果への重圧と産後キャリアの不安
社員からは「カロさん」と呼ばれる。
撮影:伊藤圭
結婚したのはこの年だ。紙媒体からネットへの移行期だった2000年、じゃらんnetの立ち上げで成果を上げた。28歳のときには若手社員20人を集めた幹部育成研修を首席で修了した。研修を主宰した幹部社員は、現在のリクルートホールディングス社長、峰岸真澄だ。
研修後、送り込まれた峰岸の古巣の部署で、成果を出さなくてはと思い込み重圧を感じた。
プライベートでは、子どものことが頭にちらつき始めていた。そろそろ欲しいという思いがある半面、子どもを産んだら大組織内の競争から降りることになるのではないかとの不安から、気持ちが揺れてもいた。
朝寝坊だった加藤が眠れず朝早く目が覚めてしまうようになった。うつ病の初期症状とされる早朝覚醒だ。心療内科を受診すると、適応障害によるうつ病と診断され、1カ月休職し、1年ほど通院する。
在宅勤務1号、オウンルールで戦う
鎌倉と東京の往復時間は貴重な仕事の時間だった(写真はイメージです)。
Hit1912 / Shutterstock.com
このときの経験を、起業後にインタビューで加藤はこう振り返っている。
「うつ病になってみて、心身の健全さを失ってまでやるほどの価値は仕事にはないことを学びました。『これを超えたら死ぬ』という限界ラインが自分でつかめるようになったと思います」
うつ病から寛解したあと、31歳で長女を出産して職場に復帰する際、加藤は働くルールをつくった。ただし、加藤史子オウンルールだ。
当時、加藤は鎌倉に住んでいた。うつ病を機に、仕事とプライベートのスイッチを切り替えるため、東京まで電車で1時間半かかる鎌倉を選んで引っ越した。
保育園のお迎えは18時。母は16時半に東京駅近くの会社を出なくてはならない。
「加藤らしさ」が表れるのはここからだ。
社内にいると突然相談を受けたり会議に出たりと「他者との時間」が多く、ひとりの時間を持ちにくい。電車での移動時間を、企画書を練り資料を読み込む「考える時間」に充てようと決めた。
在宅勤務取得第1号となり、週1回の在宅勤務日も「考える」時間にすることができた。出社すると、周囲の同僚と思考をもとに議論をする。「家」「移動中」「会社」の3つの場所で質の異なる仕事をし、それらをかけ合わせると、アウトプットは質量ともに加速した。
課題の解決は認知行動療法を参考に
例えば夜、赤ちゃんと一緒に寝てしまうか、「夜10時からの第2部」をがんばるか。子育てをしながらの仕事は、思い通りには進められない。
寝れば、翌朝、体はスッキリするけれど、やり残した仕事を思い気持ちが落ち込む。その落ち込みの原因を加藤はこう整理して対処した。
山のような仕事をすべて深夜2時までがんばって片づけてしまうのではなく、夜の仕事はあと1時間とし必要性の高いものを選び出して「これだけはやってしまおう」と決める。そうすれば、長く起きている必要なく、仕事を前へ進めることもできる。そして何より「できなかった」「進められなかった」と翌朝に沈む度合いを軽くできる。
具体的に課題を解決する手法には、うつ病のカウンセリングで経験した認知行動療法が生かされている。漠然とした不安は人の心を追い詰めるが、不安の原因となっている課題を1つひとつ明らかにすると対処法が見えてくる。その過程で心の状態はかなり落ち着く。
2010年4月に次女を出産すると、生後4カ月で職場復帰した。鎌倉の保育園には預けられず、次女はリクルートの企業内保育所に入所した。
平日のうち3日は16時半に次女をベビーカーに乗せて東京駅から鎌倉に帰る。途中、乗り換えの戸塚駅でパソコンを広げているのを旧友に見つけられたこともあった。1日は在宅勤務、そしてもう1日夫が早く帰宅する日は、加藤は時間制限なく仕事をした。
撮影:伊藤圭
思うように時間を使える男性社員からすると、考えられない働き方だっただろう。
「加藤は仕事人生を降りた」という周囲の視線をかわし、不安を課題に置き換え、ネガティブをポジティブに反転させる思考で加藤は結果を出していく。加藤にとって1位以外は「死」を意味する。もちろん、燃料は「悔しさ」だ。
2007年に観光立国推進基本法が施行された。加藤が長女を出産した年だ。
もう同期の男性社員と伍して働くことはできないだろうと悟った加藤は、観光による地域活性なら、短期的には結果が出ないが中長期的に社会に資する仕事ができるのではないかと考え、前線とされたネットの事業開発職からじゃらんリサーチセンターに希望異動。第1子産休から復職する。
観光庁が発足したのは直後の2008年10月だ。
「雪マジ!19」ゴンドラは、10年目の今もスキー場で見ることができる。
加藤史子さん提供
「雪マジ!19」は、次女を出産した翌年、2011年の冬からスタートした。賛同する全国のスキー場のリフトを19歳に限定して無料にするプロジェクトだ。
スキー場の来場者数は、1990年代前半のスキーブームをピークに、減少に歯止めがかからなくなっていた。
そこで加藤は「自分で消費行動を決める19歳という年齢」「若いうちに体験するほどその後長く定着する」「無料というインパクト」をキーワードに業界に提案。
東日本大震災直後、希望を失いかけていたスキー場、周辺の飲食店や宿泊施設など現場の実業の人たちが賛同し、実現した。
加藤はというと、構想は何カ月も前に整えられていたものの、業界の賛同を得る自信が持てずにためらっていた。だが、3月11日の震災と続く福島第一原発の事故と衝撃が続くなか、現場の人たちの絶望を思うと、やるなら今だ、と判断した。
結果、予想を上回る共鳴が集まり、実施に踏み切った。初年度の会員登録者数は5万人、雪山訪問人数のべ12万8000人を記録した。
「雪マジ!19」モデルは、その後ゴルフ(ゴルマジ!)、Jリーグ(Jマジ)など、他の業種でも展開しながら、2020年で9年になる。
2019年10月、北海道倶知安町での「G20観光大臣会合の官民セッション」でプレゼン。
加藤史子さん提供
日本各地の観光地に通った30代、スキー場、旅館、飲食店など、実業の人たちの土地への思いや課題について、現場で見て対話し、知見を深め、観光産業が好きだという思いを育んだ。
観光産業への考え方を、加藤流の思いとロジックで集約すると、こうなる。
〈アジアの中で先に成熟した日本が先輩としての円熟さと多少の知見を、若くて元気で成長の希望あふれる諸外国に平和的に提供できる。
それにより、アジアのこれからの成長の恩恵を日本も得ることができる。国と国ではなく人と人とが個人でつながれる。平和じゃないと成立しなくて、かつ、自然の恵み(温泉、雪、海、山、風、太陽)に心から感謝できる。
まだ見ぬ文化、暮らしを見聞きしたいという人々の根源的な私的欲求にこたえるおおらかで伸びやかな市場——〉
独立を決心するまで1年ほど悩んだ。
目指すプラットフォームをつくるために必要なカネとヒトを集めるのに、大組織でチャレンジするのか、起業して資金調達をするのか。起業した方がヒトとカネを短時間で集められるという結論に達し、18年3カ月年勤めたリクルートを退職して起業したのが39歳、2016年7月だった。
起業から3年半、仕事とプライベートで劇的な変化を迎えることになる。
(敬称略・明日に続く)
(文・三宅玲子、写真・伊藤圭)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ『BillionBeats』運営。近著『真夜中の陽だまり——ルポ・夜間保育園』で社会に求められる「子育ての防波堤」を取材。