キガリ虐殺記念館でガイドを務めるクロード・ムガベさん。ジェノサイドが起きたとき、8歳だった。
撮影:小島寛明
1994年、東アフリカのルワンダで起きたジェノサイド(大虐殺)で、80万人を超える人々が殺された。
虐殺を実行したのは、それまで同じ地域で暮らしてきた隣人たちだった。主として多数派フツ族により少数派ツチ族の殺りくが行われた。
現代史に深い傷を残したジェノサイドから26年が過ぎたいま、被害者と加害者たちは同じ地域での暮らしを再開している。
2020年2月〜3月、日本の若者たちの起業家精神を育む神戸市の研修プログラムで現地を訪れた筆者は、当事者たちの話を聞いた。ジェノサイドが発生する以前はともに、普通の村の住民だった。
普通の人たちを、ジェノサイドの加害者と被害者に分けたものはなんだったのか。和解の途はあるのか。
多数派フツ族と少数派ツチ族
ルワンダは東アフリカにある内陸国だ。タンザニア、コンゴ民主共和国、ウガンダ、ブルンジに囲まれている。
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人口約1200万人(2018年)のルワンダは「千の丘の国」と称されるほど、国土のほとんどが起伏に富んでいる。その丘のひとつにあるキガリ虐殺記念館には、25万人を超える犠牲者が眠る。
「26年前、ぼくの父も殺されました。ぼく自身が、ジェノサイドの生存者(Survivor)のひとりです」
クロード・ムガベさん(34)は7年前から、記念館でガイドを務めている。
クロードさんは26年前、8歳だった。当時、クロードさんの一家はツチの身分証を持っていた。
ベルギーの植民地だった1932年、ルワンダに人々を区別する制度が取り入れられた。
1932年当時の推計で人口の約84%(国連の報告書による)を占めていたフツ族(国連の報告書による)は鼻の幅が広く、農民が多いとされる。
ツチ族は人口の約15%で背が高くてやせ型、牛を育てている人が多かったとされる。この他に トゥワ族 (約1%)もいる。
同じ言葉を話す人たちを分断し、 フツ、ツチ、トゥワのいずれに属するかを明記した身分証明書も持たせたこの制度には、統治を容易にする意図があった。
26年前の4月、虐殺がはじまった
キガリ虐殺記念館には、犠牲になった人々の写真が飾られている。
撮影:小島寛明
一家は1994年春、キガリから車で1時間半ほどのところにある、現在のルワンダの東部州で暮らしていた。
父と母に長男のクロードさん、妹2人に弟1人の6人家族。さらに母は3人目の男の子を妊娠し、大きなお腹を抱えていた。
クロードさんは、母が厳しく子どもたちをしつけていた代わりに、父は優しかったことを記憶している。会計士だった父は、よく近所の人たちと地元の穀類でつくったビールを一緒に飲んでいた。
4月6日夜、当時のルワンダのハビャリマナ大統領と、隣国ブルンジの大統領が乗った航空機が、キガリ国際空港の上空で撃墜された。
この事件が、虐殺の直接の引き金になったとされる。
翌日、クロードさん一家が暮らす地域でも虐殺が始まった。
現地語のラジオが繰り返す「ゴキブリを殺せ」
東部州の村にある教会の内部。ジェノサイド後に再建された。この教会に逃げこんだ人たちも殺害された。
撮影:小島寛明
最初に狙われたのは、教師や企業経営者、地域の要人たちだった。現地語のラジオは「ゴキブリを殺せ」と繰り返していた。
父は、家族とは別れて1人で逃げた。全員がまとまって行動すると、1人も生き残れないおそれがあったからだ。
母とクロードさんたちは、茂みの中に逃れた。
4月のルワンダは雨季だ。じっと息を潜めて茂みの中を歩き回っていると、時折、強い雨が降ってくる。母は当時、妊娠7カ月だった。
村の教会に逃げ込んだ2番目の妹は、山刀で首を切られた。4歳だった。
妹と同じように、攻撃の対象とされた人たちの多くが教会に助けを求めたが、ルワンダの多くの教会が殺りくの現場になった。
父は、自宅で殺害された。
路上で攻撃者のグループに会った父は金を払い、路上でなく自宅で自分を殺すよう依頼したという。死後、遺体を家族に見つけてもらうよう願ったのだろうか。
5日ほど茂みをさまよった後、クロードさんたちと一緒にいた母は、逃亡をやめることにした。
村の周辺には、キガリや他都市を逃れ、難民化した人々が少しずつ増えていた。
自宅にとどまった飼い犬
農具をはじめ、身近な道具がジェノサイドの武器として使われた。キガリ虐殺記念館で撮影。
撮影:小島寛明
ルワンダ全体をみると、ジェノサイドは4月以降の100日間ほど続いたが、クロードさんが暮らしていた地域では、ほぼ1週間ほどで殺りくは収まったという。
家族が自宅に戻ることができたのは、それから数カ月が過ぎてのことだった。
自宅は完全に破壊されていた。飼い犬のルガンディカは、家にとどまり他の動物から父の遺体を守っていた。
一連のジェノサイドを通じて、クロードさんの親類では60人以上の人が亡くなったという。
殺されたのは、ツチ族の人々だけではなかった。多数派にあたるフツの人々の中でも、隣人を殺すことに異を唱えた人は殺された。
ジェノサイドからしばらくたって、母は、クロードさんにこう話した。
「お父さんがどれだけ私たちを支えてくれて、どんなに恵まれていたか分かる? 生きていくためにも、今度はあなたが一生懸命働くのよ」
「今度、特別なお客さんが来るの」
東部州の村にある教会内には、イミゴンゴと呼ばれる牛の糞でつくる伝統的な手法で制作された宗教画が飾られている
撮影:小島寛明
十数年の歳月が過ぎた。クロードさんは20代になっていた。
ある日、母は子どもたちには「今度、特別なお客さんが来るの」と言った。
特別な客とは、父を殺した隣人のことだった。
ルワンダ大虐殺の後、男は裁判を受け、15年近く懲役刑を受けていたが、刑期を終え、コミュニティに戻っていた。
クロードさんは頭に血がのぼるのを感じたが、母は「彼を受け入れてあげなさい」と言った。
2日後、訪れてきたのは、近くに住む男だった。男は、70歳を過ぎていた。クロードさんが男の顔を見ると、男は顔を隠した。
男は家族の前でこう話した。
「お父さんがこの家で殺された時、私はここに来た1人でした。一緒にビールを飲んだこともあったが、私はお父さんを殺しました。きょうここに来たのは、謝罪のためです」
男は、数年前に亡くなっている。
「隣人を殺すのは難しいことではなかった」
東部州に住む男性の自宅。周囲にはトマト、イモなどが植えられていた。
撮影:小島寛明
キガリ市内でクロードさんから詳しい話を聞いた2日後、東部州に向かった。加害者側の話を聞くためだった。
クロードさんと同じ村に住む男性(65)が取材に応じた。
男性は幹線道路に近い、周囲を畑に囲まれた小さな家で暮らしている。男性を訪れたとき、かまどのある裏庭では妻が家事をしていた。
26年前、男性は39歳だった。
虐殺が起きた日、男性は攻撃者のグループに加わった。マチェーテと呼ばれる山刀や棍棒でツチ族の人々を殺した。
男性は4月7日以降の4〜5日間で、5人を殺したと話している。「政府の後押しを受けていたので、私にとって隣人を殺すのは難しいことではありませんでした」と話す。
ラジオではツチ族への攻撃を呼びかける政府要人のスピーチが繰り返され、ツチ族への憎しみを歌詞にした女性歌手の歌も流れていた。
「やつらを殺せ。心配することはない。抵抗するやつらがいれば、兵を送る」
ラジオで流れていたこんな言葉に、男性は駆り立てられたという。
読み書きはできず、子どもの頃から畑仕事
男性の自宅の内部。ポスターには、「神なくして、平和なし」と書かれている。
撮影:小島寛明
その後男性は逮捕され、裁判にかけられた。当局の聴取にも応じ、加害者を特定する作業にも協力を重ねた。
裁判といっても、裁判所に被告人が出廷するものではない。ルワンダ大虐殺後の秩序回復の過程では、ガチャチャと呼ばれる、ある種の民衆裁判が取り入れられた。
ガチャチャでは地域の要人が裁判官を務める。地域で起きた事件は、地域で裁くという考え方だ。
後に、刑期を終えた加害者がコミュニティに戻ってくることを考慮して、裁きよりも和解を重視した制度とも言われる。
現実にあまりにも多くの人がジェノサイドに加わったため、通常の司法手続では処理しきれないという事情もあったと考えられている。英BBCは2012年6月、ルワンダ全体で「200万人近い」被告人がいたと報じている。
ガチャチャで男性が言い渡された刑は懲役12年。裁判が終結するまでの勾留期間も考慮され、裁判後に収監されたのは4年ほどだったという。
刑期を終えた加害者たちがコミュニティに戻った後、ルワンダ政府は「謝罪」と「許し」を奨励した。
男性は出所後、郡の幹部、コミュニティのリーダーたちを回った。月に1度、ルワンダ中の地域で会議が開かれるが、こうした会議の場でも、男性は、自らが実行した行為を説明し、許しを求めた。
「地域に戻ってきてから、私はクリスチャンになることを決めました。そのことが、自分自身を表現する力をくれたのです」
男性はジェノサイドの前も今も、農家として生計を立てている。学校には行かず、10歳を過ぎたころには、畑仕事を始めた。
現地語を話すが、公用語の英語やフランス語は話すことができない。読み書きはできず、収監中に、自分の名前の書き方を学んだ。
「ジェノサイドを追悼する人々の姿を見ると、いまも必ず後悔が押し寄せてくる」
男性は数年前、地方政府の補助で家を建てた。新しい家には電気が通っていて、室内にはキリストのポスターが貼られていた。
ジェノサイドからの「生存者の特権」
キガリ市内にある追悼施設で、ジェノサイドについて説明するクロード・ムガベさん。
撮影:小島寛明
政府の奨学金を受けて大学を卒業した前出のクロードさんは、キガリ虐殺記念館でガイドの仕事に就いた。
仕事は記念館を訪れた人たちを案内し、ルワンダの歴史やジェノサイドの経緯、クロードさん自身の体験を話すことだ。
ジェノサイドに加わった人の多くは、読み書きを知らなかった。当時、ツチへのヘイトを煽り立てるラジオの放送が、虐殺行為を助長したと考えられている。
クロードさんは「当時の政府にとって、教育を受ける機会のなかった人たちを操るのは簡単だったのだろう。だからこそ歴史を学ぶこと、教育は大切だ」と思う。
1994年以降のルワンダは、年平均8%程度の高成長率を維持し、「アフリカの奇跡」とも形容される。政府は「ICT立国」を掲げ、外国投資を受け入れるためビジネス環境の整備に力を入れる。
女性の社会進出でも、国会議員の過半数を女性が占めるなど、先進的な取り組みで知られるようになった。
ルワンダ各地には、殺りくの現場になった教会など、さまざまな追悼施設が残されている。そこでは、クロードさんのようなジェノサイドの生存者たちが、案内役を務めている。
クロードさんが案内する人の中には、各国政府の高官や国連の平和維持活動に参加する軍人たちもいる。
「ぼくが経験したことや痛みを話すことを通じて、人々を結びつけることができる。それは、ジェノサイドを生き残った者の特権なのかもしれない」
(文と写真・小島寛明、取材協力:神戸市)