世界的なパンデミック(大流行)に発展した新型コロナウイルス。
「学校が臨時休校になり、予備校や塾も講義を休みにしているところが多い。そこで、オンラインで生放送の集団授業をやろうということになりました」
そう話すのは、オンライン家庭教師サービス「メガスタディ」を運営するバンザン取締役の横山弘毅さん。
バンザン取締役の横山さんへの取材もビデオ会議システムを使って行った。
撮影:三ツ村崇志
メガスタディは、もともと1対1でのオンライン家庭教師サービスを提供している。
新型コロナウイルスの流行を受けて、4月から高校3年生、高校2年生、高校1年生に進学する学生を対象に、英語と数学のプロ講師によるオンライン生放送での集団授業を無料提供することになった。
塾業界では、このように各社独自のオンライン化の取り組みが行なわれている。
100人規模のオンライン生放送授業、体験してみた
ホワイトボードと講師が映るディスプレイ。右側には、参加している生徒たちのコメントが並んでいる。
撮影:三ツ村崇志
筆者も、学生の1人として英語の授業に参加した。
授業の配信には、ビデオ会議システム「Zoom(ズーム)」を活用。
運営から配布されたZoomのURLを使ってログインすると、講師とホワイトボードだけの「教室」があらわれた。
複数人でビデオ会議システムを利用すると、通常は画面横に会議に参加している人の画像が表示される。ただ、今回のオンライン授業では、100人を超える生徒が同時にログインするという事情もあり、生徒・講師側ともに参加者の顔を表示させない方式で行なわれた。
授業では、チャット機能を使って先生とのコミュニケーションが可能。参加者全員の音声を接続してしまうと、ハウリングなどの問題が生じてしまうため、先生と生徒との間で音声でのやりとりはできないシステムとした。
筆者が参加した授業では使用されなかったが、Zoomには「手を挙げる」という機能もあり、場合によっては授業中に生徒を指名して問題を解かせることも可能だと思われる。
また、講師側には複数のカメラが導入されており、メインのカメラではホワイトボードでの解説を映す一方、手元を映すカメラに切り替えて生徒に配布された問題を一緒に回答することも。手元カメラはかなり画質が良く、スムーズに授業が行なわれていると感じた。
手元のテキストを映して解説を行う。右上には先生が映るメイン画面も小さく表示されている。
撮影:三ツ村崇志
大人数授業の生放送。メリットとデメリット
「オンライン授業を生放送で実施する環境を講師側で管理するのは難しいため、授業を行う際には先生のほかにも、通信環境などのテクニカルな部分で運営に関わる人が必要です。実際、今回は配信やシステムをサポートするスタッフを配置して臨みました」(横山さん)
と、オンラインで生放送の授業を行う上で特有の事情もある。
なお、筆者は講義を自宅で視聴。
自宅の回線はごく一般的な光回線のマンションタイプ。無線ルーターを介してインターネットに接続したパソコンで視聴していた。
事前に「100人以上の申込みがある」と聞いていたため、動画のタイムラグや音声の飛びなどが生じるのではないかと予想していたものの、動画、音声ともに終始乱れることなく1時間の講義を視聴することができた。
横山さんは「スマートフォンやタブレットでも通信環境さえ整っていれば視聴できます」と、特別な通信環境を整備する必要性はないと話す。
一方で、筆者が受けた高校1年生に向けた1回目の授業では、講師と生徒とのコミュニケーションが十分とは言い難いと感じる場面も。例えば、問題を解説するペースは基本的に講師次第、生徒側の理解と講師側のペースが噛み合っていない場合、一方的に置いていかれる生徒もいるのではないか。
こういったことは、リアルの1対多数の授業でも必然的に生じる問題ではある。ただし、全体をすぐに見渡せるリアルの教室と比較して、情報が限られたオンライン環境で授業を行う際には、より注意しなければならない点なのかもしれない。
講師に求められるYouTuber力
授業中にアンケート機能を使って質問などを行うこともできる。リアルの授業で手を挙げるのは嫌だという生徒でも、ボタン1つで簡単に反応できそうだ。
画像:授業画面のスクリーンショット
コミュニケーションに課題はあったものの、当然、オンラインならではの機能を使ったコミュニケーションの新たな形が生まれる気配も。
「アンケート機能を使った練習問題の回答」や「チャット機能を使った先生への気軽な質問」などは、講師・生徒それぞれ使い方に慣れていけば、有効なコミュニケーションツールになりそうだ。事実、2回目以降の授業や新中学1年生の授業では、講師と生徒との間での双方向性が増したという。
また、ビデオ授業とリアルの授業では、講師に必要とされる能力も変わって行きそうだ。今回筆者が授業を受けた英語の杉山一志先生は、授業も分かりやすく、声のトーン設定や話術も巧みだった。
生放送での授業とはいえ、生徒側はディスプレイ越しに授業を見ることになる。自宅で受講していながら、塾という「勉強する場」に来ていることを実感してもらうためには、通常の授業に比べて生徒を引きつける話術や授業展開、あるいはテクノロジーを用いた工夫が必要になることが予想される。講師には、ある意味YouTuber的な能力が求められそうだ。
子どもが思わず自習してしまう、「ZOOM自学室」という不思議な空間
ホスト役の講師は、このように生徒の自学を見守っている。何かあれば声をかけたり、他の先生と個別にやりとりできるビデオ会議を設定したりといった対応が求められる。オンライン教育を行う上では、先生以外にこういったシステムの管理者が必須なのかもしれない。(一部画像を編集しています)
撮影:三ツ村崇志
Zoomによる新たな「自習空間」も生まれている。
ホスト役の講師の画面には、複数の児童・生徒の顔が並んでいる。しかし、講師は授業を行うわけではなく、生徒たちが黙々と自習に取り組むようすを見守っているだけだ。生徒側の音声は基本的にミュートになっているため、互いの音声が入り乱れた雑然とした状態にはならない。
生徒は分からない問題があると、マイクをオンにしてホスト役の講師に質問をする。
するとホスト役の講師は、Zoomの「ブレークアウトセッション機能」を使って、質問に対応できる先生と生徒の個別ビデオ会議を設定。1対1の指導で疑問点を解消する。問題が解決すれば、生徒はもとの“自習室”に戻る。
これは、花まるグループが運営する塾の一つ、スクールFC・西郡学習道場が新型コロナ対策として実施した「ZOOM自学室」の風景だ。
株式会社こうゆうの取締役、スクールFC代表の松島伸浩さん。ZOOM自学室を始めるにあたって、何ができるのか有料版も含めて徹底的に調べたという。
撮影:三ツ村崇志
花まるグループを運営する株式会社こうゆうの取締役であり、スクールFC代表の松島伸浩さんは、オンライン自習室について次のように話す。
「志望校に合格するとか、成績が伸びるということだけではなく、大人になってからも使える学習法を身に着けてもらいたいと思い、授業内でも自習時間を設けたり、自学室を設置したりしていました。もともとはオンラインサービスはやっていなかったのですが、今回の休校措置で塾に来ることができなくなりましたので、色々と調べて取り組みました」
オンラインでの自習室という取り組み対して、親からの評判は上々だという。
というのも、学校が臨時休校になった上、外に出歩くことさえ控えるよう求められている中、ずっと家にいるとどうしても子どもの生活が乱れてしまうという声は多い。オンライン自習室を活用して、午前10時から12時までの時間にオンライン自習室で勉強をする、といった生活リズムをつくることに成功している生徒もいる。
また、親が子どもにいくら「勉強しなさい」と言ったところで、1人で自習に集中できる子どもはそれほど多くはない。その点、オンライン自習室にログインしておけば、少なくとも講師が生徒を見てくれる上、周りが勉強している様子も見えるため、子どもも危機感からか能動的に自習が続く。
オンライン自習室のようす。数十人の生徒がオンライン上で各々自習に取り組んでいる(画像を一部編集しています)。
撮影:三ツ村崇志
答えの無い時代を生きるための「手本」を
スクールFC・西郡学習道場では、校舎別のZoom自学室を3月13日まで運用。1日あたり全校で200人〜250人程度の生徒が利用したという。なお、16日以降は通常の授業の再開にともない、自習室を全校で2つに統合して運用を続ける方針だ。授業に出ることに対してリスクを感じている生徒に対して、選択肢を残しておくためだという。
自習室という塾の特徴をうまくオンラインで再現した西郡学習道場ではあるが、松島さんは「実際にサービスを使った生徒はまだ一部です。ご家庭の方針や親がビデオ会議システムに慣れていないなど、中には家庭環境によってビデオ会議システムを試す上での壁もあると思います」と、あくまで限定的であることも理解している。
「今の子どもたちは、答えのない時代を生きていくことになる。実際、今の時代もすでにそうなりつつある。今回の新型コロナウイルスの流行のような混乱の機会に、大人がどうやって乗り越えていくのかを子どもたちにしっかり見せないといけないなと思います。すべての方が完璧に満足するサービスを行うことは難しいですが、いろんな選択肢があることは提示していきたいです」(松島さん)
突然の自粛要請に、最適な対応を行うことは難しい。だからこそ、できる範囲でよりベターな回答を探すことが求められている。新型コロナウイルスのパンデミックを契機に、ひょっとするとオンライン教育の最適化が一気に進んでいくのかも知れない。
(文・三ツ村崇志)