1967年福岡県生まれ。バイクで放浪の旅を経て、軽井沢の広告会社に入社。その後、星野佳路氏に誘われ、ヤッホーブルーイングに入社。2008年、同社社長に就任。
撮影:竹井俊晴
ヤッホーブルーイング社長の井手直行(52)は昔から「好きなこと」を追い求め、居場所を探してきた。本人の言葉を借りると、「行き当たりばったりの旅のような20代」を過ごしてきたらしい。
子どもの頃からオーディオ機器を触わるのが好きで、国立久留米高専電気工学科へ進学。卒業後は「音楽が好きだから」という理由で、大手オーディオメーカーにエンジニアとして就職した。
仕事は面白かったが、配属がパソコン周辺機器を扱う部門だったため、求めていたイメージとは少し違った。5年ほど働くと、環境アセスメント系の会社に転職。バイクのツーリングが趣味だったことから、「自然に関わる仕事のほうが楽しめるのかも」と考えたためだった。
数カ月の自分探しの旅の先にも
会社を辞め、“自分探し”のためにバイクで旅をした。
ヤッホーブルーイング提供
しかし、実際に働いてみるとうまくいかず、7カ月後にはまた辞めた。すぐに次の職場を探す気になれなかった井手は、“バイク放浪の旅”へ出る。
「いわゆる自分探しの旅です。東北から北海道へ、下道をずっと走りながら『本当にやりたい仕事、見つからないかなぁ』と地平線を追いかけていました」
山中の空き地や川べりに1人分のテントを張って寝泊まりし、魚を釣って焼いて食べる。防波堤で寝ていると、「兄ちゃん、こんなとこで何やってんだ?」と夜中に漁師に起こされたこともあった。
その日暮らしの気楽な生活は苦ではなかった。行く先々で人の優しさにも触れた。しかし、肝心の“自分探しの答え”は、数カ月間バイクを走らせても見つからなかった。
「今考えると、見つかりっこないんですよね。出会った人と話をして『こういう仕事もいいなぁ』と気が向いたところで、自分に合うとは限らないし。お金も尽き、いよいよどうしようかと考えた時に、一つだけ見えてきたこと。それが『自然と人が好き』という僕の志向でした」
星野佳路からのビール造りへの誘い
軽井沢の広告代理店で働いていた20代後半の頃。
ヤッホーブルーイング提供
自然豊かな環境に暮らしながら働こうと、北海道か信州かに絞って職を探すことを決意。26歳という年齢に焦りもあった。たまたま募集を見つけたのが、軽井沢のタウン誌を発行している広告会社の営業職。未経験の仕事だったが、「人懐っこいところが営業向き」と採用された。
やっと天職をつかんだかとも思ったが、3年経つ頃には再び離職。誰に対しても率直に意見する井手は、時にオーナーとぶつかることもあり、最後は「クビ」を言い渡されるも同然で会社を去ることになったのだった。
ところが、逆に「率直に意見するところがいい」と、井手に声をかけてきた人物がいた。
広告会社時代の得意客の1人だった老舗旅館の若社長。眼鏡をかけ、穏やかな人当たりだが、芯は強い。代替わりするや一気に業績を伸ばし、地方の観光業を活性化する新世代リーダーとしてメディアでも注目されるようになっていた。
その人物こそ、井手をクラフトビールの世界に引き込んだ張本人。今や世界的ブランドとなった「星のや」を率いる星野佳路(星野リゾート代表)だった。
留学先のアメリカで出合った華やかな香りのエールビールを、日本の醸造所でつくりたい。日本のビール業界に新風を吹かせ、もっと豊かな文化を発信しよう。井手さん、僕と一緒にやってくれないか——。
情熱的な夢語りに引き込まれ、井手は入社を決めた。といっても、当初の動機は単純で、星野やビールへの興味、そして「家から近いから」というノリに近いものだった。
ブームからの急落、スキー場で手売りの日々
ホップの香りを生かした個性的なクラフトビールを展開する。
撮影:竹井俊晴
井手を熱いリーダーに変えたのは、その後10年で経験することになる挫折と復活の物語だ。
井手が営業担当としてヤッホーに入社した1997年は、「地ビールブーム」の追い風が吹いていた。入社してほどなく発売された「よなよなエール」は面白いくらい売れた。営業しなくても、商店や卸会社からどんどん注文が入ってくる。
井手は当時の“勘違い”を恥じている。
「完全に天狗になっていました。30歳そこそこの若造なのに、お客さんに『そちらに納品できる分はもう残ってませんよ』なんて偉そうに言ってたんですよ」
その数年後にブームが去ると、状況は一変。売り上げは急落して、立場が逆転した。
「必死に営業に行っても、『あの時の井手さんの冷たい態度、忘れていないよ』と返される始末。コマーシャルを打ったり、キャンペーンを企画したり、考えつく限りのことはやってみました。でも、売れない。絶望していました」
赤字が続くと会社の雰囲気が日に日に悪くなり、退職者も続出した。とにかく1本でも多く売ろうと、冬のスキー場に隣接した温泉の出入り口に立ち、震えながら「ビール、いかがですかぁ」と手売りしたこともあった。「お兄さん、頭に雪積もっているよ……」と哀れみ半分で買ってくれる客の背中に、明るい未来は見えなかった。
一方、社長の星野は本業のリゾート再生事業で忙しく、ビール事業は井手をはじめとする現場の指揮者に任せていた。井手は何かあるたび星野に電話をかけ、助言を仰いでいたが、星野から弱気な言葉が出ることは一度もなかった。いよいよ倒産の文字がちらついてきた頃、井手はとうとう泣きついた。
星野にとって、ビール事業は所詮“傍流のビジネス”なのだろう。現場がどれだけ疲弊しているのか、その深刻さを理解してくれ。そんな気持ちもあったかもしれない。
「社長、こんなにうまくいかず、皆が辞めていく事業なんて続ける意味、あるんでしょうか……? できることはすべてやりました。僕はもう何をしたらいいか分かりません。ただただ途方に暮れています」
創業当時のヤッホーブルーイング。当時から残る最古参社員の福岡篤史さんによると、「面倒見の良さはずっと変わらない」。前列右端には、当時社長だった星野佳路氏の姿も。
ヤッホーブルーイング提供
星野からはこんな言葉が返ってきた。
「でもさ、本当にすべてをやり尽くしたのかなぁ」
まだそんなことを言うのかと耳を凝らすと、星野は続けた。
「とことんやってみようよ。それでもダメだったら、会社を畳んで、湯川で一緒に釣りでもしながらのんびり暮らそう」
湯川とは、星野リゾートの敷地内を流れる川のことだ。釣りを一切やらない星野が、井手の好きな趣味に付き合うと言い、「潰れたら隠居しよう」とまで……。その言葉の重みに井手は震えが止まらなかった。
「『この人はまだ諦めていない。本気なんだ』と気づきました。僕はそこまでの覚悟を持っていなかった。この素晴らしい経営者を引退させるようなことがあってはならない。まだやれることはあるはずだ、と前を向き直しました」
(敬称略、明日に続く)
(文・宮本恵理子、写真・竹井俊晴)
宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。