1967年福岡県生まれ。バイクで放浪の旅を経て、軽井沢の広告会社に入社。その後、星野佳路氏に誘われ、ヤッホーブルーイングに入社。2008年、同社社長に就任。
撮影:竹井俊晴
ネット販売が好調となり、井手は上機嫌だった。注文件数が伸びるたび、「増産よろしく!」「キャンペーンの対応お願いします!」と社内に声をかけて回り、張り切っていた。
ところが、返ってくる反応は鈍かった。むしろ「残業が増えてやってられない」「井手さんだけパソコンの前でラクして、こっちは大変なんだよ」と不満が噴出した。
社内の足並みが揃っていない。なぜか、と考えたら思い当たることがあった。
井手が日々体感しているような「お客さんとのダイレクトなコミュニケーション」を他の社員は体験できているわけじゃない。何のために目の前の仕事をやるのか。その思いを共有しない限り、これ以上の成長は見込めない。
今、何より優先すべきはチームワークを高めることだ!
井手は外から積極的に学び取り、スポンジのように吸収する。
まずは自身が楽天主催のチームビルディング講座に参加し、「初対面のメンバーでも数カ月間で信頼関係を築くことができた」と効果を実感。フラフープを使ったグループワークなどを通じ、一致団結するまでにたどる混乱や規範形成のプロセス、異なる強みを尊重し合う組織づくりの方法について学んだ。
さらに、学び取ったメソッドをフルに活かそうと、2009年から業務時間内で社内研修を行うことを決めた。研修を主催した楽天関係者も、「受けてよかったと感想を言う人はたくさんいるが、本当に社内でそのまま導入した人は初めてです」と驚いたという。
3カ月研修への社内からの反発
「働きがいのある会社」と認知されるヤッホーだが、社内断絶の危機もあった。
撮影:竹井俊晴
しかしながら、結実するまでには辛抱の日々だった。
「ただでさえ忙しいのに、研修ですか? そんなの意味あるんですか?」「チームビルディング? 遊びだったらプライベートでやってくださいよ」
と社内の風当たりはますます強くなった。
「20人くらいだった社員のうち7人を研修に引っ張るんですから、現場は悲鳴を上げるのが当然ですよね。
でも、耐えました。『今は大変だけれど、10年後、20年後の成長のためには今やらないといけない大事なことなんだ。どうか理解してほしい』と言い続けました。僕も余裕がなくてキツい言い方になってしまったり、当時の仲間には迷惑をかけたと思います」
3カ月間の研修を年1回、希望者のみを募って実施。1年、2年経ち、売り上げの伸びが見られなかったが、井手は耐えた。星野から言われていた「1円でも増収増益を達成する」というラインさえ乗り越えればいいと、自分に言い聞かせていた。
撮影:竹井俊晴
変化の兆しは3年目に現れた。
横浜港大さん橋ホールで開催される「ビアフェス」に例年通り出店した際、現地に行った井手の目に飛び込んできたのは、見たことのない大行列。会場の端まで到達して折り返すほどの行列の先には、笑顔で「よなよなエール」を注ぐヤッホーの社員たちがいた。
他の店舗と明らかに違う人気の理由は、おもてなし。ただビールを売るだけでなく、お客さんを楽しませようと、原料のホップの香りを嗅げる仕掛けをつくったり、「チェキ」で記念写真を撮って渡したり。列に並ぶ人が退屈しないようにと、ビールの製造工程を紹介するオリジナルムービーを流すスクリーンまで用意されていた。
そのすべてに関して、井手は何も指示していなかった。
「スタッフが自発的にお客さんを楽しませようとしている。そして、スタッフもみんな笑っている。後日、社内で報告しながら感涙するスタッフもいて……。ああ、“ビールを中心にしたエンターテインメント”が始まった!と希望をつかめました」
その頃からヤッホーの売り上げは急伸。ファンイベント「よなよなエールの超宴」などが話題になるたび、企業文化に共感して入社する社員が増え、ますます「お客さんを喜ばせることに喜びを感じる文化」の純度が高まっていく。
「顧客満足度を高めるほどに従業員満足度も上がる。無限の好循環スパイラルに入った感覚があります。ここ数年、僕から売り上げの話はしなくなりました」
南極隊員出発へのサプライズ
社長として、井手はいわゆる“ホウレンソウ(報告・連絡・相談)”を一切求めない。「お客さんのためになると思うアイデアがあれば、勝手にやっていい」と伝えている。実際に起きたことは、定期的に各チームから送られてくる情報共有メールで社員と同時に知るのだが、そこでは井手も驚くエピソードがわんさと溢れるという。
例えばこんな話だ。
年間定期購入を契約していたAさんから「途中解約をしたい」という電話がかかってきた。特典付きの契約なので通常は受けられない相談だったが、事情を聞くと「南極基地の隊員に選ばれて、しばらく日本に帰ってこられないので」という。
「それは仕方がないですね。では解約しますので、帰国後にまた思い出していただけたらお願いします。南極でのお仕事、頑張ってください! ちなみにいつ成田をご出発されるんですか?」
そうして聞き出した出発日に、ヤッホー社員がサプライズを準備。成田空港まで先回りし、「お気を付けていってらっしゃいませ!」と旗を振りながらAさんを送り出したのだ。
餞別のビールを受け取りながら、Aさんは大喜び。後日、御礼のメールと共に、南極の氷の上に置かれた「よなよなエール」の写真が送られてきた。
ビールメーカーとしてノーベル平和賞を
2010年に初めて開催したファンとの交流会は恵比寿のビアパブで。40人規模からのスタートだった。
ヤッホーブルーイング提供
徹底したサービス精神に「アマゾンが屈した」と評されるアメリカのネット靴販売、ザッポスと比較されることもある同社の顧客対応。その集大成とも言えるイベント「よなよなエールの超宴(ちょううたげ)」は、それ自体の開催は「数千万円の赤字」なのだと井手は苦笑いする。
「開催直後に売り上げがギュンと上がるわけでもありません。でも着実にまっすぐに、僕たちが目指したい世界観や夢を伝える場になっている」
井手が描く夢。それはビールを通じて人と人とが笑顔を交わす時間を増やし、世界平和に貢献すること。
「何十年後になるか分からないけれど、ビールメーカーとして初めてノーベル平和賞を獲れたら素敵だなと、社内では本気で言っているんですよ」
地方発のクラフトビールメーカーがこれだけ元気に成長していることは、各地の中小企業にとっての希望にもなっている。
「ライバルは?」と聞くと、「同業者はみな仲間だと思っています」という返事が返ってきた。
「大手も他のクラフトビールメーカーも、持ち味やできることは違う。追いつけ追い越せではなく、それぞれが強みを発揮すれば、日本のビール文化はもっと面白くなる。一緒に盛り上げていきたいです」
世界一、平和主義なビール屋さん。今の井手には、そんな肩書きがしっくり来る。
(敬称略、明日に続く)
(文・宮本恵理子、写真・竹井俊晴)
宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。