中国・湖北省政府は3月24日に、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、1月23日から実施していた同省武漢市の封鎖措置を4月8日に解除すると発表した。
中国では3月26日現在、患者数が5000人を切り、1日当たりの新たな感染者数も100人以下の状態になってきている(その多くは海外からの帰国者や入国した外国人とされる)。中でもウイルスの発生源とされる武漢市では、3月18日以降、新規感染者数ゼロの日がほとんどで、発生しても1人か2人という状態にまで沈静化している。
その武漢で、封鎖措置が始まった1月下旬から、武漢市民の気持ちなど現地の情報を毎日、日記形式でネットに発信し続けた1人の作家がいる。方方さん(65)。3月24日に最終回を迎えるまで、彼女の日記は国内外で1億人もの人たちに読まれ続けた。
方方さんが3月24日、ネットに投稿した日記にはこうある。
「3月24日 武漢封鎖62日目。私の記録は60篇となり、これが最終回となる。最終回が、武漢開城の発表のタイミングと重なったのは、記念すべきこと」
最終回を受けて、ネット上には惜しむ声と感謝の声があふれた。
武漢市にある華中師範大学文学部の戴建業教授は25日、まったく面識のない方方さんの日記についてネット上でこうコメントした。
「日記は武漢(という都市)が新型コロナと戦う際に見たこと、感じたことをそのまま書いた。新型コロナに対する情報隠蔽を直視し、封鎖後の人々の努力も肯定的に伝えた。
家族を失う心を突く痛みや、数多くの患者が病気を診てもらえない絶望。初動の遅れによって生じた高い死亡率に対する憂慮、徐々に新規患者が出てこなくなる喜びと今後の生活に対する展望や希望を表現した」
この他にもネットには、毎日の人気連続テレビドラマの終了を惜しむかのような声があふれた。
政府礼賛の記事ばかり書くメディア記者
2月上旬、武漢には感染者のための医療施設が突貫工事でつくられたが、今その臨時病院も解体が進んでいる。
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方方さんは幼いころから武漢で暮らし、文化大革命(1966〜76年)の最中に高校を卒業、武漢でモノ運びの肉体労働者になった。1978年に大学が10年ぶりに再開する中、名門・武漢大学文学部に入り、卒業後は湖北省のテレビ局でプロデューサーを務め、テレビドラマの脚本も書いた。1989年に作家に転身、2007年に湖北作家協会の主席となった。母親方の祖父は日本の慶応大学を卒業しているという。
代表作の『万箭穿心』は、武漢出身の女性・李宝莉の波乱万丈の人生についての物語で、のちにテレビドラマにもなっている。
湖北作家協会主席という公職にある方方さんは、新型コロナウイルスに関して、何を書いていいのか、何を書いてはいけないのか、おそらく誰よりも心得ている。
北京から派遣された数百人の記者たちは、現地の実態より、政府の政策を賞賛する記事ばかり書いているが、ではなぜ武漢ではわずか数週間で5万人近い人が感染したのか。情報の隠蔽に関する責任の追及や、貧弱な医療環境、新型肺炎の診断を待っている間にどんどん死んでいく市民の実態などは、政府系メディアの記事にはほとんど書かれていない。
極めて不自由な環境で公開された日記
封鎖された武漢の様子。外出できず、食料も配送されてくるのを待たなければならないという徹底ぶりだった。
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方方さんは執筆中の小説をいったん中断して、日記を新浪ブログに掲載するようになった。
「1月25日(春節、1月1日) 私はまだつぶやくことができるだろうか。若者の罵詈雑言に対して反対の言葉を述べるだけで、私のブログは閉鎖される。誰に意見を言えばいいのだろうか」
この日記も新浪ネットからはすぐに削除され、のちに「財新ネット」に転載され掲載された。
削除されたのはこれだけではなかった。2月7日から2月23日の間には公開すらされず、3月に入ってからも日記を公開できない日が続いた。
3月5日早朝、こんなつぶやきがやっと削除されずに公開できた。
「野菜を買ったことを記録したら削除されないことを知っている。次はここ数日にどんな野菜を買ったかを記録して、武漢人の生活を垣間見せることにしよう」
何をつぶやいてこれほど削除につぐ削除を招いたのだろうか。
3月9日、方方さんは削除されていた2月15日の日記を再び新浪ブログに掲載した。
その日は、看護師の柳帆さんが感染して死亡したことを書いている。方方さんが、医者から聞いた看護師の名前は「柳凡」だった。中国語では「帆」と「凡」は同じ発音だ。
武漢市の警察当局は、「柳帆」という人物の死亡事実はあっても、同じ発音の「柳凡」という人物の死亡の事実はない、デマを広げたとして、「柳凡さん死亡」をネットでつぶやいた人を拘束。幸い、方方さんは日記削除だけで済んだ。
3月9日に再公開した日記には、正しい「柳帆」という名前を使った。
2月15日の日記を繰り返して読んだが、名前以外にタブーは見当たらない。果たして名前のミスだけだけが、削除理由なのか。おそらく武漢市当局は、病院内で看護師も感染して死亡したことを公にしたくないのだろう。
じつは、この柳帆さんの実弟で湖北映画撮影所の美術担当の監督の常凱さんも同じ2月14日に亡くなっている。
著名な監督で、死ぬ直前に遺書を残している。感染した父が治療を受けられず死亡したこと、その後、母も同様に亡くなったこと。両親に孝を尽くした自分も同じく感染し、まったく治療を受けられずに死を迎えようとしているという内容だった。
著名人でさえ一家全員がこんな形で亡くなっていく、という事例が、この時点で広まってしまうことを、武漢市や中国政府は恐れたのではないだろうか。
御用学者、御用新聞への批判
コロナウイルス感染者を隔離していた福建省のホテルが、3月7日に突然崩壊した。
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3月8日の日記では、雑誌『財新』の記事も取り上げている。
その内容は、武漢市では新型肺炎の情報を隠蔽しようとしたのは誰か、というもの。「ヒトヒト感染はない」と話したウイルスの専門家、武漢市副市長の責任について追及している。
このような追及は、中国の政府系メディアではほとんど見られない。たとえ地方政府の役人の責任追及であっても勇気がいることだ。
この日に方方さんはもう一つの事件を記録している。
3月7日、71人の隔離者が滞在していた福建省のホテルが突然倒壊した。中国の一部のメディアはその事件報道で死亡という言葉を避けたが、方方さんはきちんと「10人が死亡」と書いた。
「その中には湖北人も少なくなかった。彼らはウイルスからは逃げたが、危険な施設からは逃げ出せなかった」
ずっと新型肺炎の情報隠蔽に協力してきた武漢の地元新聞の『長江日報』は、司法解剖のための市民の献体を称賛しているが、その背後にある家族の気持ちに寄り添うことはしない。
さらに日本からの支援物資に書かれた「山川異域、風月同天(=場所は離れていても、私たちはつながっている)」に対して、「風月同天より武漢は頑張ればいい。アウシュビッツの後には詩はなくなっている」と、わけの分からない記事を出した。
それに対して方方さんは、
「長江日報に感謝する。あなたたちはうっぷんを溜めている人々に批判するチャンスを提供してくれている」(2月13日。削除されてから3月7日に再度、掲載された)
と当時、ほぼ全中国から顰蹙(ひんしゅく)を買っていた長江日報に最大の皮肉を送った。
3月10日には、矛先を武漢中心病院に向けた。この病院では、数人の医師が亡くなっている。医療の専門知識のない天下り官僚の病院責任者などを厳しく追及している。
ハンドルネーム慎説さんは3月上旬、こうつぶやいている。
「方方さんの日記には特別なシーンはなく、人を泣かせるような立派な行動を賞賛しているわけではない。しかし、このウイルスに関心を持つ多くの人々は、現地の真実を伝えていると確信している。提灯記事を書くために派遣された300人のマスコミ関係者に声を失わせ、中国のすべての物書きに恥をかかせている」
ネットでは無意味の日記削除
前出の戴教授は、方方さんの日記をこう見ている。
「武漢の閉鎖以降、武漢人が毎日まずしていることは方方日記を読むことです。武漢、中国は歴史上ないほどの大惨禍に遭遇しているにもかかわらず、テレビも新聞も何も報道しない。すでにみんなこの世にテレビや新聞があることすら忘れています。皆、方方日記だけを読んでいます」(2月24日戴氏のブログより、現在削除)。
新型コロナウイルスの感染が爆発的に広がっていた武漢の日常を記録し、ときには武漢市政府や病院の責任を追及することは、中国では許されることではない。新浪ネットでもテンセント(騰訊)の公衆号(パブリック・アカウント)でも、今でも方方日記は掲載されたり削除されたりを繰り返している。
一方、経営者や大学教師などが読んでいる有料の財新ネットは、方方日記を毎日掲載している。新浪ネットとテンセントで方方日記を読めなくなった人たちは、財新ネットへアクセスして読み、それを転送する。
中国のメディアやネット企業はいつになったら、視線を一般市民に向けるのだろうか。その答えが出るまで、これからも方方日記はさらに広く読まれていくだろう。
方方さんは最終回の日記にこう書いている。
「日記は今日が最後になるけれど、今後何も書かないということではない。武漢の悲惨な日々を身をもって経験した者として、責任追及は続けていく」
陳言:在北京ジャーナリスト。1982年南京大学卒。経済新聞に勤務後、1989年から2003年まで日本でジャーナリズム、経済学を学び、2003年に中国に帰国。経済雑誌の主筆を務めた後、2010年からフリージャーナリストに。2019年から日本語月刊誌『人民中国』副編集長。