リンクアンドモチベーション元取締役の麻野耕司さんは、4月1日に新会社「People Tech Studios(ピーブル・テック・スタジオ)」を立ち上げた。
撮影:今村拓馬
新型コロナウイルスによるパンデミックで世界中が想定外の危機に陥り、東京オリンピック・パラリンピックも延期が決定した2020年3月末。4月1日に新たな分野で起業する、麻野耕司さんを訪ねた。
麻野さんは、組織コンサルティングで知られるリンクアンドモチベーション取締役を2019年末に退任。当時最年少で執行役員に就任し、「リンモチの宝」とまで言われた人物の突然の退社は、社内外に衝撃を与えた。
なぜ新卒から17年間も勤め、心血を注いだ仕事を離れたのか。そしてなぜ今、この未曾有の危機の中でも、新しい会社を作ろうと歩を進めるのか。
事前情報なしで始まったインタビュー
「仕事も組織も社員もみんな好きでしたね。けれどこれからやろうとするビジネスは外でやった方がいいと考えました。違うテーマ、違うアプローチで挑戦したかった」
東京・汐留の浜離宮そばのオフィスビル最上階の部屋からは、東京湾岸の高層ビル群の一方に、桜の咲き乱れる庭園が見渡せる。
東京の「西海岸」とも表されるスタートアップ集積地の渋谷界隈と、対照的に東京の「東海岸」とも呼ばれる、伝統的な大企業や金融業の集まる丸の内界隈。その中間地点に探したというコワーキングオフィスの見晴らしのいい一角が、麻野さん率いる7人の創業チームのスタート地点だ。
2019年12月、退社と起業準備の公表以降、麻野さんは事業内容について「テクノロジーで人の可能性を最大化する」とSNS上で表した以外、一切の具体的な情報を明かしていない。
実はこの日のインタビューも、事前に何の情報ももたらされないまま臨む、異例のケースだった。
一番尊敬する人はエジソン。好きな起業家は本田宗一郎だという。コンサルタント時代からもプロダクト志向だったという。
「起業を決めてから、思った以上にHR(人事)コンサルのイメージが自分には強いんだなと実感しました。けれど僕が一番尊敬する人はエジソン。好きな起業家は本田宗一郎です。実はプロダクト(製品)志向が強い人間です」
たしかに前職で麻野さんが立ち上げ、6000社近くの実施実績をもつ組織改善ツールの「モチベーションクラウド」も、組織の状態を定量化・可視化してPDCAを回すというプロダクトだ。
「後世に実績を残した発明家たちのように、世界を変えたいという思いがあります。それには、まずは僕がどんなことをやろうとしているのか。お話する必要がありますよね」
そこで初めて麻野さんは、手元のマックブックを開いた。
会社設立趣意書の1ページ目、新会社名は「People Tech Studios(ピープル・テック・スタジオ)」とあった。
原点にあるのはLikeボタンの衝撃
新会社は持ち株会社の傘下に複数の事業会社が並ぶ、スタジオ形式にこだわった。
「テクノロジーが人の可能性を最大限にすると考えるようになったきっかけは10年前、自分の率いる組織が崩壊しかかっていた時でした」
もともとシャイで感謝や賞賛の意を伝えるのが苦手だった。メンバーの心は離れ、毎月人が離職し、チームは危機に瀕していた。そんな時、会社が社内SNSツールを導入。それを機に20人のチーム全員に日報をつけてもらい、毎日目を通すことにした。
「例えどんなしょうもないことが書いてあったとしても、見た後にLike(いいね)ボタンを押すようにしました。2年間1万Likeは押したと思うのですが。それだけでチームの雰囲気がすごく変わったんです。チームは(僕が)『見ててくれている』『分かってくれている』と感じるようになり、辞める人がほとんどいなくなった。その時にLikeボタンはすごいなと」
Like(いいね)ボタンは、現在はセールスフォースCOOで、カリスマエンジニアのブレット・テイラー氏がFacebook時代に開発したとされる。
「こんな遠く離れた場所にいる僕の心の中にある愛情を、ボタン一つで取り出して、誰かに届けるみたいなことをやっている。僕もそういう発明をしたいと、強烈に思いました」
1日8時間を占めるワークがこれから激変する
1日を3つに分けた時、8時間を占めてきたワーク分野は、これからもっとも変貌を遂げるかもしれない。
そこからずっと持ち続けた実感が、このPeople Tech Studiosのミッションになっている。
ミッション:テクノロジーで人の可能性を解放する
そしてそのミッションが向かう到達地点のビジョンがこれだ。
ビジョン:働く最高の1日を発明する〜仕事をもっと楽に、もっと楽しく
「20世紀にホンダやソニーのような企業はテクノロジーで製品を作り、人々に物質的な豊かさを実現してきました。21世紀はテクノロジーで精神の豊かさを働き手に届ける時代。そして1日24時間を睡眠、ワーク、余暇で8時間ずつ分けたら、これまでホンダやソニーのような企業は余暇の部分を充実させてきたと思います。僕は1日8時間をも占めるワークの部分を変えたい」
これらを前提に、麻野さんの新会社People Tech Studiosが掲げる事業領域は出社から退社までの「Work Experience(ワークエクスピリエンス)」の改善だ。
日本でここ数年、国をあげて盛り上がった働き方改革は、どうしても時間の長短の議論になりがちだ。
「本当の問題は生産性です。出社してから退社するまでの社員の体験をより良いものにする。同じ働き方で時間だけ短縮したら、単純にパフォーマンスの総和は落ちます。ソフトウェアの力で日本の労働生産性を2倍にすることが、具体的に目指す形です」
会社のスキームは、持ち株会社であるPeople Tech Studios傘下に、いくつもの事業会社を設立するスタジオ型にこだわった。
「理由は、一つの会社でやろうとすると、会社全体の利益創出のために、新規事業や新規プロダクトの投資が阻まれるということが起こりがち。プロダクトごとに事業会社を立ち上げ、将来的には8事業の立ち上げを見込んでいます」
日本の組織の弱点は知り尽くしている
17年間の組織コンサルの経験の蓄積から、日本組織や企業社会の弱点は知り尽くしている。
具体的な事業の種は、すでにいくつも頭の中にある。17年間の組織コンサルの経験の蓄積から、日本組織や企業社会の弱点は知り尽くしているからだ。
詳細リリースは「まだ先」としながらも、一つだけ種明かしをしてもらうと、最初の事業会社KnowledgeWork(ナレッジワーク)が送り出すプロダクトのテーマは「社内のナレッジの共有」だという。社員の持っている経験やノウハウが共有されないまま、属人化していることが日本の企業では多々ある。
「20年前にもナレッジ・マネージメントは日本企業で流行りましたが、うまく根付かなかった。現代ならUI、UXを快適にしテクノロジーを使うことで、知識や経験のギャップを埋めて、社内ナレッジの共有を円滑にするツールを創り出すことができます」
ビジネスモデルはB(企業)toBかつインターネット上でサービス提供するSaaS(ソフトウエア・アズ・ア・サービス)で、特に大企業をターゲットするという。
「日本の企業はデジタル・トランスフォーメーション(DX=デジタル化)の遅れが大きな課題。例えば新型コロナウイルスをきっかけに、Zoomが浸透し始めて、往復の移動時間分が短縮されました。こうした変化がいくつも重なることで、労働生産性2倍は実現できる」
まずは最初の事業会社ナレッジワークCEOに麻野さん自身が着任し、ナレッジのプロダクトでIPOを目指す。その後、それぞれの事業会社に別々にCEOを立てる形で、ワークエクスピリエンス×SaaSのノウハウを横展開しながら、各事業を進めていく考えだ。
新型コロナ危機でリモートでの創業
「今、起きようとしている不況は、深さも長さも想定以上のものになろうとしている」。アフターコロナの世界へ新たな働き方を届けることはもはや宿命だ。
しかしなぜワークエクスぺリエンスの改善は、これまでの経験値あるコンサルティング分野ではなく、SaaSのプロダクトなのか。その理由を、麻野さんはこう話す
「コンサルティングは、そもそもコンサルを雇うことのできる限られた企業や、選ばれし人しか助けることができない。例え僕が(手塚治虫作品の天才外科医の)ブラック・ジャックのようなコンサルタントだったとしても、助けられる人の数は限られるでしょう。でも、ペニシリンを発明すれば、広くあまねく世界に届けられる。ワーク分野での“ペニシリン”を作って、世界を変えたいのです」
そうしてスタートを切った2020年春現在、世界は新型コロナウイルスによるパンデミックで根底から揺さぶられている。ひとしきり話し終えた麻野さんに、奇しくもこのタイミングでの起業をどう考えるか聞いた。
「不況と好況は常に繰り返します。起業する前から(当初予定時期の)東京五輪後に不況は起こると覚悟していました。なのでプロダクトも『あったらいいな』ではなく『なくてはならないもの」という、不況時期に強いものを織り込んでいる。しかし今、起きようとしている不況は、深さも長さも想定以上のものになろうとしています」
資金調達をすでに終え、ここから数カ月はプロダクト作りに専念する環境は確保している。そんな中でも、刻一刻と世界の様相は変わりつつある。
「これからは、相当の期間人々が外出を抑えるといった、恒久的なアフターコロナの世界を生きることになるかもしれません。僕たちの創業も、リモートワークでのスタートです。こんな今だからこそ、テクノロジーで人の働き方を変え、人と人とをつなぎ、その可能性を最大化するプロダクトを生み出して行く必要があると、これまで以上に確信しています」
世界を巻き込んだかつてない危機により、アフターコロナで働き方は大きく変貌を遂げるだろう。奇しくも危機のさなかでの起業となった麻野さん率いるチームは今、宿命的にアフターコロナに航路をとり、漕ぎ出したばかりだ。
(文・滝川麻衣子、写真・今村拓馬)