1982年生まれ。慶應大学SFC在学中にPR会社ビルコムの創業に参画。同大学ビジネススクールを経て、2017年フリーランス協会設立、代表理事に就任。
撮影:伊藤圭
平田麻莉(37)がフリーランス協会を立ち上げたのは、フリー仲間との「ランチ会」がきっかけだ。
経済産業省は2016年10月、フリーランスの研究会を立ち上げた。しかし委員らは人材会社の幹部や学識者で、当事者はいなかった。
同年11月のランチ会で「当事者の声を届けるには、組織が必要」という仲間の声に押された平田は、徹夜で設立趣意書を書き上げる。2カ月後の2017年1月、早くも協会が設立されるという素早さだった。
平田自身も当時、社会の仕組みが万事「会社員」中心に動いていることを、実感させられていた。
例えば多くの自治体で、フルタイム勤務の正社員は保育園入園の優先順位が上がり、フリーランスは「居宅内労働」扱いで順位が大幅に下がる。平田の第2子も当時1歳だったが、早生まれという事情もあって、預け先は見つからなかった。
平田は「フリーランスはそういうもの」と疑問にも思わず、甘んじて受け入れていた。「カンガルーワーク」と名付け、抱っこ紐で長女を抱いて取材や講演をこなした。
この時、平田は30年以上も前に、同じ働き方をしていた女性がいたことを思い出す。
「カンガルーワークの『元祖』は、母だったんです」
「専業主婦」のはずの母が持つ多彩な姿
「母が雇用という枠にも、お金にもとらわれずに働く姿を見て育ったことが、私のキャリアに大きな影響を与えたと思います」
と、平田は振り返る。
バレリーナだった母親は結婚後、転勤族の父親に同行しながら、バレエの講師やフリーアナウンサー、絵の講師などさまざまな仕事をした。長女の平田の手を引き赤ん坊の弟を抱えて、当時住んでいた福岡と、大阪や東京を行き来していた時期もある。絵の勉強のためオランダに留学したり、海外出張に行ったりもした。
一方でPTAやボランティア、イベントの企画運営など、無報酬の地域活動にも熱心だった。父親も非常に協力的で、
「母が外出する時は、喜んで送り迎えしていました」(平田)
母親はいつも、子どもたちに寂しさを感じさせないよう、いろいろな工夫を凝らしてくれたという。
出張に行く時には「ここでつながっているからね」と言いながら、平田の小指の爪にマニキュアを塗ってくれた。母親が出先で何をしているか分かるよう、心が浮き立つような楽しい予定表を書いてくれたこともあった。家にいる時は洋服やおやつを手作りし、たくさんの話をして、
「一緒に過ごす時間の密度を高めてくれました」(平田)
当時、女性の働き方は「勤め人」と「主婦」のほぼ二択。このため平田は成人してからも長い間、母親を専業主婦だと思い込んでいた。協会を設立した時、友人に「麻莉の家は、ママもフリーランスだもんね」と言われて、初めてそう気づいた。
自分が寂しさを感じずに済んだからこそ、平田は今、子どもたちに負い目を感じることなく仕事に行くことができる。2人の子どもたちも玄関先で「フリーランスきょうかいのおしごと、がんばってね!」と、笑って手を振ってくれるという。
そして母親は今、出張などをこなす平田の子育てをサポートしてくれている。
撮影:伊藤圭
平田はこう話す。
「人生のさまざまな段階で、他人のため、社会のために働くのが当たり前だと、『洗脳』されてきた」
母親はたびたび「ご先祖様」について話した。明治維新後、都から逃げてきた松下村塾の同志たちを匿った門下生や、無医村に派遣された医師……。ひとしきり話した後、決まってこう付け加えた。
「ご先祖様は志高く生きた。あなたも世の中に何を残すのか考えなさい」
小中高を過ごしたカトリック系の学校でも、「命をどのように使うか」という教えを受けた。聖書を読み、「誰もが備わった能力を他人のために使う義務がある。『自分なんて大した存在じゃない』と、能力を出し惜しみするのは罪だ」とも教えられた。
平田はカトリックの教えを通じて、
「自分が『善き者』であれば、神も悪いようにはしない」
という信念も持っている。だからこそ「善い行いをする」のは、平田にとって幸福な人生を生きるための、重要なミッションなのだ。
成り行き任せで決めた就職先
平田が大きな影響を受けたというゼミの担当教官だった加藤(左から2人目)。公のために働く意識を植えつけられた。
平田麻莉さん提供
平田は慶應義塾大学SFCに入学し、母親と並ぶ人生のロールモデルと出会う。元大蔵官僚で非営利のシンクタンク「構想日本」を設立し代表を務める加藤秀樹だ。
ゼミの担当教官だった加藤は当たり前を疑い、本質を見極めることの重要性を繰り返し語った。また彼曰く、「高級カルチャーセンター」である慶應大で、何不自由なく学べる学生には、学んだことを社会へ還元する責任があるとも強調した。
平田は、母親と加藤に共通する「ステレオタイプな上下関係や権力構造に左右されず、すべての人に尊敬と好奇心を持ってフラットに接する」生き方を、人生の目標に掲げる。
また加藤は、たびたび「好きなようにキャリアをデザインできるというのは幻想にすぎず、人生は成り行き」と話し、今あることを受け止め、ベストを尽くすことを説いた。平田はこの考えにも共感する。
「私の生き方も、まさに成り行き任せですから」
人生を左右する「偶然の出来事」は、すぐにやってきた。
創業に向けて動き出していたPR会社「ビルコム」との出合いだ。平田は大学3年生の時、先輩にビルコム創業者の太田滋(43)を紹介され、「この会社に入る」と直感で決めた。
(敬称略、明日に続く)
(文・有馬知子、写真・伊藤圭)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。