東急東横店が営業終了。85年の歴史は、渋谷をどう変えたのか。

85年の歴史に幕を下ろす東急東横店は、渋谷の街を見守ってきたランドマークだった。

85年の歴史に幕を下ろす東急百貨店渋谷駅・東横店は、渋谷の街を見守ってきたランドマークだった。

撮影:吉川慧

いま、一つのデパートの歴史が幕を下ろそうとしている。3月31日、85年間にわたって渋谷のランドマークだった東急百貨店渋谷駅・東横店(以下、東横店)が営業終了を迎えた。

太平洋戦争、戦後の復興、高度経済成長、そしてバブル——。戦争、好景気、不況、歴史の狭間の中で東横店は「渋谷」という街の成長を見守ってきた。その閉館は奇しくも新型コロナウイルスによる世界的なパンデミックという、歴史が動く最中となった。

ターミナル型百貨店の先駆けとして経済史にも大きな足跡を残した老舗デパートの歩みと、これからの渋谷の未来について考えてみたい。

実業家・五島慶太と「田舎」だった渋谷

五島慶太

五島慶太

東京横浜電鉄沿革史(1943年発行) / Wikimedia[Public domain]

東横店、そして渋谷という街の歴史を語る上で欠かせない人物がいる。

今日の東急グループの礎を築いた大正・昭和期の実業家・五島慶太(1882〜1959)。阪急電鉄、宝塚歌劇団などを創設した小林一三と共に「西の小林、東の五島」と並び称される“鉄道王”だ。

玉川電気鉄道、開業当時の渋谷駅(1911年)

玉川電気鉄道、開業当時の渋谷駅(1911年)

提供:東急株式会社

いまでこそ日本有数の繁華街となった渋谷だが、かつては田畑に囲まれた片田舎だった。渋谷駅は明治期の1885年、日本鉄道の「品川線」(現在の山手線)の駅として生まれた。

当時の駅舎は現在のJR埼京線のホームのあたり。区史によると、当初は単線で運行本数は1日3往復程度。北関東で生産された生糸や絹を横浜港へと運ぶ列車がメインで、駅舎は小さな木造。駅員6人のこじんまりとした駅だったという。

やがて東京が都市として発展すると、郊外と都心を結ぶ鉄道の結節点として渋谷が注目されるようになり、鉄道会社はこぞって進出を図った。

東京横浜電鉄・渋谷線、開通直後の渋谷駅ホーム(1927年)

東京横浜電鉄・渋谷線、開通直後の渋谷駅ホーム(1927年)

提供:東急株式会社

明治から昭和にかけて、玉川電気鉄道(現在の田園都市線)、東京市電(後の都電)のほか、五島が手掛けた「東京横浜電鉄」も1927年に渋谷駅を開業。帝都電鉄渋谷線(現在の京王井の頭線)も乗り入れ、渋谷駅は30万人近い乗客が利用する一大ターミナルとなった。

ターミナル「渋谷」と東横百貨店

開店直後の東横百貨店と東急渋谷駅(1934年11月)

開店直後の東横百貨店と東急渋谷駅(1934年11月)

提供:東急株式会社

ただ、渋谷には他のターミナルと比べて課題もあった。乗客の滞在時間の短さだ。かつて五島はこんな話をしていたという。

「渋谷はターミナルではあるが、通過駅にすぎない。渋谷の滞在時間はわずか5分で、池袋・新宿の15分、銀座の45分に比べて短か過ぎる」

すでに繁華街として賑わっていた銀座や新宿などと比べると、渋谷は郊外と都心を結ぶ乗換駅としての側面が強かった。

「人の動きがお金を生む」という経済の原則を考えれば、これを放っておくのは惜しい。それに、渋谷に買い物や娯楽を楽しめる施設を作れば沿線の利用客にも喜んでもらえ、ひいては渋谷という街の発展にもつながるのではないか。

東横線の渋谷駅乗り入れとともに設置した「東横食堂」が人気だったことも、渋谷にはサービス消費の需要があると考えた。

そこで五島が打って出たのが、百貨店ビジネスだ。1934年11月、渋谷駅に「東横百貨店」をオープン。開店にあたっては、小林一三が率いていた大阪・梅田の阪急百貨店に範をとった。

モットーは「便利よく、良品廉価、誠実第一」。呉服屋がルーツの三越や伊勢丹とは差別化を図り、日用品や食料品などの品揃えを充実させた。沿線住民は銀座や日本橋まで遠出せずとも渋谷で買い物を済ませることができた。

この「駅ビル」スタイルの先駆けとなった東横百貨店こそ、現在の東横店だ。

百貨店事業の業績好調もあり、五島は周辺の鉄道会社を次々と買収し、東横線と同じく渋谷に乗り入れていた玉川電気鉄道を合併。「玉電ビル」は東横百貨店の西館となった。

地下鉄銀座線の渋谷駅と車両基地(1955年)

地下鉄銀座線の渋谷駅と車両基地(1955年)

Orlando/Three Lions/Getty Images)

さらに五島は「三越」の買収を画策する。これは失敗に終わるが、日本橋・銀座方面への進出を狙って地下鉄事業にも進出した。

高台の表参道方面と谷地である渋谷の高低差を解消するため、駅は玉電ビルの3階につくられた。これが現在、東横店3階と直結する東京メトロ銀座線・渋谷駅だ。

五島は鉄道事業を主軸に、鉄道沿線に住宅地を開発。慶應義塾をはじめ多くの学校誘致にも力を入れた。

こうして沿線の人口は増え、渋谷を起点に郊外と都心の「人の流れ」が生まれ、百貨店事業で利益を生み出すことにも成功した。

「人の動き」と「お金の動き」を創出する鉄道会社のビジネスモデルを確立し、渋谷という街がターミナルとしての成長を遂げる上で、東横百貨店は欠かせない存在となった。

太平洋戦争で甚大な被害、「大東急」も再編成へ

太平洋戦争で東京は焼け野原になった。

太平洋戦争で東京は焼け野原になった。

Keystone/Getty Images

しかし、そんな東横百貨店にも戦争の影が近づいてきた。

日中戦争の激化で店舗の拡張工事も思うようにならなかった。1941年に太平洋戦争へ突入すると、「ぜいたくは敵だ」のスローガンの下、高級品を扱う百貨店は逆風に晒された。やがて衣・食に関わるものは配給制となった。

家族や友人と華やかな百貨店でショッピングや食事を楽しむ——そんな景色を渋谷でみることは、もはや叶わかった。

1945年5月、東横百貨店は米軍機の空襲で内部が全焼する。かろうじて建物は残ったが、もはや営業は続けられなくなった。

その3カ月後、日本は敗戦を迎える。ようやく訪れた平和だったが、五島慶太にはさらなる試練の時が訪れた。戦時中、東條英機内閣の一員だった五島は公職追放の対象となってしまった。

「東急」という会社もまた試練の時を迎えていた。戦前、東急は目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄のほか、現在の京浜急行、小田急、京王を擁する「大東急」と呼ばれる一大コンツェルンを形成していた。

ところが、戦後はGHQの方針を受けて「大東急」は再編成に動く。小田急、京浜急行、京王、そして百貨店部門が分離され、東急百貨店は単独の法人として独立することになった。

戦後の復興「渋谷を文化の中心に」

1950年代の東横百貨店。左下にはビル内に入る銀座線の線路が見える。

1950年代の東横百貨店。左下にはビル内に入る銀座線の線路が見える。

日本政府「写真公報(1959年7月1日号)」/Wikimedia

焼け野原になった渋谷で、東横百貨店は再スタートを切った。

1950年に全館で営業を再開すると、51年には各地の名店を集めた「東横のれん街」をオープン。これはデパ地下グルメの先駆けとなった。

1950年代から売り場面積も増床。戦後復興の波に乗り、1955年には三越の売上額を抜いた月もあった。

1960年頃の渋谷駅。ドーム型の屋根が東急文化会館、向かいには駅に隣接した東横百貨店が見える。

1960年頃の渋谷駅。ドーム型の屋根が東急文化会館、向かいには駅に隣接した東横百貨店が見える。

政治新聞社「首都東京の展望」/Wikimedia/ Public domain

五島も公職追放が解かれると東急電鉄の会長に就任。渋谷を文化の中心として発展させることに尽力する。

1956年12月、東口前に「東急文化会館」がオープン。地上8階地下1階、延床面積は約3万平方メートルを誇り、日本最大級のプラネタリウムや4つの映画館のほか飲食店も入る「文化の殿堂」だった。建物はル・コルビュジェの弟子だった坂倉準三氏が設計した。

東横百貨店西館と渋谷駅ハチ公口の風景(1959年)

東横百貨店西館と渋谷駅ハチ公口の風景(1959年)

提供:東急株式会社

後に東横店西館となる「東急会館」も異彩を放った。5代目柳家小さんや立川談志といった有名噺家の落語会が毎月開かれたほか、美輪明宏の「黒蜥蜴」が上映されるなど、新劇の拠点として愛された。

西武・PARCOの進出と「109」のオープン

1964年の東京オリンピックを契機に、NHKが内幸町から移転。西武百貨店、PARCOも渋谷に進出。人の流れは渋谷駅周辺から公園通りへも広がった。

1964年の東京オリンピックを契機に、NHKが内幸町から移転。西武百貨店、PARCOも渋谷に進出。人の流れは渋谷駅周辺から公園通りへも広がった。

撮影:吉川慧

東急文化会館の成功を見届けた五島は1959年8月14日に死去。やがて渋谷の街は高度経済成長期にさしかかり、景色も大きく変わっていく。

1964年の東京オリンピックは渋谷のターニングポイントと言えるかもしれない。五輪をきっかけにNHKが内幸町から渋谷に移転。西武百貨店、PARCOも渋谷に進出し、人の流れは渋谷駅周辺から公園通りへも広がった。

「ファッションコミュニティ109(現:SHIBUYA109)」。昭和、平成を通して若者文化の象徴となった。

「ファッションコミュニティ109(現:SHIBUYA109)」。昭和、平成を通して若者文化の象徴となった。

撮影:吉川慧

1979年には東急も道玄坂と本店通りの三角地帯に「ファッションコミュニティ109(現SHIBUYA109)」を展開。今に至るまで、多くの若者が渋谷に集まるようになり、若者文化の象徴となった。

渋谷は「100年に一度」の再開発へ

高度経済成長の渋谷を見届けた東急文化会館は2003年6月に閉館し、2012年4月には新たに「渋谷ヒカリエ」がオープンした。

高度経済成長の渋谷を見届けた東急文化会館は2003年6月に閉館し、2012年4月には新たに「渋谷ヒカリエ」がオープンした。

撮影:吉川慧

昭和から平成に変わると、渋谷は新陳代謝の時代を迎える。渋谷駅周辺では2000年代から再開発が本格化し、「100年に一度」と言われる都市改造が始まった。

駅周辺には1964年の東京オリンピック前後に作られた施設も多く、老朽化による脆弱性が指摘され、古い建物の建て替えが進んだ。

高度経済成長の渋谷を見届けた東急文化会館は2003年6月に閉館し、2012年4月には新たに「渋谷ヒカリエ」がオープン。オフィスや飲食店のほか劇場「東急シアターオーブ」が併設され、新たな文化の起点となっている。

さらに2000年代に入り、「ビジネスの街」としての側面も持つようになる。2000年前後、「渋谷ビットバレー」として多くのIT起業家たちが集まり、第1次ITブームの「聖地」となった渋谷。その後渋谷ヒカリエ開業以降は、大手IT企業も集まった。

渋谷ヒカリエにはDeNAやLINEが入居(LINEはその後、新宿区に移転)、その後開業した渋谷ストリームにはGoogle(一度六本木ヒルズに移ったが、戻ってきた)が居を構え、再び「聖地」としての顔を持つようになった。

新たなランドマークは「渋谷スクランブルスクエア」

渋谷の街で頭上を見上げれば、高層ビルが居並ぶ。(左から渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア、渋谷ヒカリエ)

渋谷の街で頭上を見上げれば、高層ビルが居並ぶ。(左から渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア、渋谷ヒカリエ)

撮影:吉川慧

2020年現在、令和を迎えた渋谷駅前を歩く。頭上を見渡せば真新しいビルが並び、駅そのものにも大改造が加えられていることがわかる。

現在JR、東京メトロ、東急、京王の4社9路線が乗り入れ、1日平均約330万人が利用する渋谷駅。これまで各鉄道会社が開発と増築を重ねた結果、乗り換えの動線が複雑になっていた。

今回の再開発では、2013年に、かまぼこ型の屋根で親しまれた東横線の地上ホームが消え、東横線は地下に潜った。また、事業者の枠を超えた改造にも取り組んだ。案内誘導サインも統一し、五島慶太の都心進出の夢を物語る銀座線ホームも表参道寄りに移設された。

東急百貨店・南館。後ろにはスクランブルスクエアが渋谷の街を見下ろすように立っている。

東急百貨店・南館。後ろにはスクランブルスクエアが渋谷の街を見下ろすように立っている。

撮影:吉川慧

令和の渋谷で新たに駅周辺のランドマークとなったのが、2019年にオープンした超高層ビル「渋谷スクランブルスクエア」だ。地上47階、高さ約230m。東京を一望できる展望施設はミュージックビデオやCM撮影にも使われ、連日多くの人が訪れる渋谷の新名所となっている。

東横店の西館・南館は、イベントスペース「渋谷エキスポ」として再利用された後に取り壊される。跡地には「渋谷スクランブルスクエア」の別棟ができる。完成は2027年度予定だ。

地下の食料品売場「東急フードショー」は地上フロアの営業終了後も営業を続ける。「沿線の食を支える」という百貨店開業以来の使命はこれからも続く。

街は生き物だ。終わりがあれば、始まりもある。

渋谷スクランブルスクエアと東急百貨店東横店。渋谷のランドマークも、いよいよ世代交代の時が来た。

渋谷スクランブルスクエアと東横店。渋谷のランドマークも、いよいよ世代交代の時が来た。

撮影:吉川慧

街の景色が変わる時、私たちは思わず郷愁に駆られる。85年にわたって街の発展の礎となってきた東横店が無くなることは、「東急」という老舗企業と「渋谷」という街にとって、一つの区切りとなる。

しかし、新たな人の動きを生み出すことで街の発展を目指す再開発計画には、「人の動き」を創出し、渋谷をターミナルとして発展させた五島慶太と東横百貨店のDNAが生き続けることだろう。

渋谷の未来の姿は、東横店なき後に広がる渋谷スクランブルスクエアのキャッチコピーがヒントになるかもしれない。

「混じり合い、生み出され、世界へ」。ゆくゆくは原宿、表参道、青山など渋谷周辺の街を「点(街)」ではなく「面(エリア)」で回遊性を高められるような街づくりを目指している。平地が少ない街の回遊性を高められるか、これが再開発の試金石となりそうだ。

街は生き物だ。終わりがあれば、始まりもある。東横店の営業終了は、渋谷にとって次の100年の始発駅となる。そのスタート地点は、人類とパンデミックの闘いという激動の時代で幕を開けた。

100年後の渋谷は、どんな姿になっているだろうか。

(文・吉川慧)

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