撮影:伊藤圭
アーティスト、音楽プロデューサーとしてミリオンセラーを何度も世に送り出し、日本のエンタメの一時代を築いてきたつんく♂(51)。その人生は、波乱に満ちている。
2015年には喉頭がんの治療のため、声帯を全摘出したことを公表した。
「不安は、いつも不安。正直、今でもちゃんと声の出せない自分に『イラッ』とするし、『なんでやねん』とも思う。投げやりになりたくもなる。でも……」
この5年の間にも、アーティストのサウンドプロデュースや大阪・関西万博の特別アドバイザーの就任など、精力的な活動を続けてきた。「仕事人」つんく♂に、働き続けることの意味と、第2の人生の歩み方を聞いた。
がん手術から、止まった5年
あの人生の岐路からの5年間は、どこか時が止まっている —— つんく♂は、そう語り出す。
きっかけは、2014年のバレンタインの時期だった。99%大丈夫と診断されながらも一向に声の調子が良くならず、生体検査の結果、がんが見つかった。
半年の放射線治療の後、10月に担当医より完全寛解を告げられるも声の不調が続くため再診。がんが残っていたことが判明した。
そうして声帯全摘出手術を受け、何より大切にしてきた声を失った。
撮影:伊藤圭
「最初は、歌詞を書いたり曲を書いたりとか、“何かを考えること”それだけはこなせても、10年後、20年後のことは考えられなかった」
何よりつらかったのは食事だった。無理に食べようとすると、縫ったばかりの傷口が裂けてしまう。おかゆ一膳を、30分かけて流し込んだ。
「赤ちゃんのごはんとか、おじいちゃんの介護のような感じ。頭は普通に考えられるのに食べられないから、すっごいイライラしました」
写真:Getty Images / Clive Rose
2015年の4月、母校・近畿大学の入学式での祝辞で声帯の摘出を発表した。そこから少しずつ「先のことが考えられるようになってきた」。今でも桜の季節になるごとに、あれから1年、あれから2年、と思い出す。
「周りにいる人たちは『だいぶ経ちましたね』なのかもわからないけど、感覚としてはついこないだ。子どもは成長しているのに自分だけは、あれから時間が止まっちゃってる。べちゃーって時間を濾したような、不思議な感覚」
「戦力外通告!?」そしてハワイへ
撮影:伊藤圭
病気療養のため、作曲やプロデュースの仕事もセーブせざるを得なくなった。
「責任感もあったし、自分の築き上げてきたものを取られたくない意識もあった。でも病気には勝てず、ぽんぽんと肩を叩かれた感覚で、『よく頑張ってきたよ。後はこっちでやるからしっかり養生して』って。術後ベッドの上だった僕は『はい、お願いします』というのが精一杯だった。それはどうしようもないし、やっぱり社会人というか、組織の経営者からしたら賢明な判断でしょうし、それは社会の縮図でもあって……」
2014年には、モーニング娘。のデビューからずっと続けてきたハロー!プロジェクトの総合プロデューサーを退任、そのニュースは大きく報じられた。「ついこないだのよう」だとは言え、仕事上も大きな変化のあった5年間だ。
激動の5年間の中で、つんく♂を支えたのが、妻と3人の子どもたちだった。
2016年には家族でハワイに移住し、生活のリズムは大きく変わった。そうした生活の一部を、インスタグラムなどに投稿することもある。
毎日5時半には起床して子どもたちを学校に送り、家事に洗車、習い事の送り迎え、そして子どもが出演するミュージカルの舞台の裏方作業まで、妻と2人で手分けする毎日。「現場での生きた英語も、今なお勉強中。子育てしてるつもりが、50歳にして初めての経験ばかり」だという。
双子の長男と長女は、現在11歳。思春期に差し掛かる子どもとの距離の取り方に悩むこともあるといい、こんなエピソードを話す。
撮影:伊藤圭
「最近、何か家に届いてるなと思って見たら、子どもらが誕生日プレゼントで交換し合ったギフトカードを使って、ネット通販で自分で買った帽子だったんです。コードを自分で入力して。その時は(勝手に買ったことを)怒らなかった……。ああ、これも時代だな、まあこういうこともできなきゃなって思ったから」
反抗期に差し掛かっているという子どもたちに、自分の姿を重ねる。
「自分が小学6年生くらいのときって、親にバレないようにお年玉で大人向けの空気銃を勝手に購入したり、悪知恵ばっかり働かせてた。結局、仕舞うところもないから、見つかってめっちゃ怒られて……。自分も年齢にしてはひねてた方だったから、彼らの気持ちもよく分かるんですよね」
そうして「子どもの成長に、こっちが追いつかないとな」と、呟く。「ずっと子どもでいてほしい気持ちもあるけど、いつまでも子ども扱いしてたらダメだなと」
ヒットの法則は「半歩先」を狙うこと
2月、都内で行われた「YOSHIKO先生ハロプロ振付20周年記念 team445 ダミーFes.」にサプライズ登場したつんく♂。会場からは歓声が上がった。
撮影:伊藤圭
毎年100曲は作っていたという作曲数は3分の1ほどに減ったが、代わりに「つんく♂さんにしかできない仕事」というオファーが舞い込んでいる。毎年務める近畿大学入学式のプロデュースのほか、「子どもたちとその両親に向けた」絵本を執筆することも発表した。
若手の育成にも積極的だ。
「ずっと若手の意識で来たけど、世間的には大御所のような立場になっちゃったのかな、という感じはして。ありがたいことですけどね。未来に向けて、プロデューサーを育てることにも力を入れていきたいかな」
2020年に入ってから、オンラインサロンを始めた。当初は期間限定の予定だったが、3月に入ってから延長を発表。なぜこのタイミングで?と尋ねると、「この業界、『半歩先』でちょうどええ。早くやり過ぎると結果が得られない」からだと笑う。
「(2011年からTOKYO MXで放映していた)『つんつべ♂』も、(2012年からYouTubeで配信していた)『つんく♂TV』というネット番組も、今考えると早すぎたように思う。でも、感性が乗ってる時は、1歩も2歩も先のことまで見えてしまうんですよね」
つんく♂オンラインサロンのFacebook生配信の様子。
撮影:西山里緒
そんなつんく♂のオンラインサロン開設を後押ししたのが、『けものフレンズ』などで知られるアニメプロデューサーの福原慶匡氏や、2ちゃんねる元管理人の西村博之氏だった。
サロンはFacebookグループを活用し、つんく♂自身が「AKB48グループについてどう思う?」などと投げかけ、積極的にファンと交流する。さらにエンタメ業界を横断して、さまざまなクリエイターがコメントしたり、生配信のゲストとしても参加する。
サロンメンバーだけが見ることのできる、つんく♂によるFacebook配信。内容は完全オフレコだ。
画像:つんく♂エンタメ♪サロン〜絶対言うたらあかんでぇ♫〜 Facebookページ
「日本に住んでいた時は『いいね!』する時間もないくらい、忙しかった。今はハワイと日本で時差もあるし(有料コミュニティということもあり)投げっぱなしじゃなくて行ったり来たりが成り立ってるかな。でも、まだどんなサロンにするかは決めている最中」
「みんなの気持ちがつかめてるかな、と思ったりはするけど、あまり気にしすぎず、色々試していきたい。特に大阪万博については、こまめにコミュニケーションを取っていくと思う」
アリアナ・グランデからも影響
アメリカのポップスター、アリアナ・グランデ。
写真:Getty Images / Rich Polk
アメリカでの生活は、自身の創作活動にも影響を与えた。
子どもを学校へ送っていく車内で、ラジオから流れてくるアメリカのヒットナンバーを自然に聴き、思春期の娘が反応している曲をチェックする。
テイラー・スウィフト、ジャスティン・ビーバー、ビリー・アイリッシュ……。子どもが興味を示すアメリカのポップスターから、音楽的な気づきを得ることも多い。
撮影:伊藤圭
ヒットメーカーとなる以前のつんく♂にとって、CDショップは「何聴こうかな」「このジャケットええな」というワクワクをもたらしてくれる場所だった。多忙を極める生活の中で、新しい音楽に出会う時間はいつしか「作業」に変わっていた、と振り返る。
「流行りの音楽も『ガッサー!』と買いあさって、飛ばして飛ばして聴いて。『このイントロの感じは応用できるな』とかね……。『肥やしの時間』がなくなってた」
ハワイでもう一度、あたらしい音楽に出合うことの新鮮さを味わっている。特に印象に残った曲は?と聞くと、アリアナ・グランデの『7rings』を挙げた。
「ワルツの曲なのに、途中で急にテンポがパッと変わって16ビートになる。そしてまた戻る……おもしろいなと。子どもに、これなんやろ?って聞いたら(当然という感じで)『アリアナだよ』って、いつも教えてくれるんです」
万博の特別アドバイザーに。地元・大阪への思い
撮影:伊藤圭
2025年に開催される大阪・関西万博(正式名称「2025年日本国際博覧会」)の特別アドバイザーにも就任した。「意外とエネルギーがいる仕事」と笑いつつ、「大阪としてどのようなエンタメが提供できるか」に真剣に向き合っている。
大阪の塩干乾物屋の息子として生まれ育ち、大阪出身のバンド「シャ乱Q」のボーカルとしてデビューしたつんく♂。地元・大阪への思いは人一倍、強い。
「昔は『経済の都』だったけど、戦後は東京の周り、横浜や千葉や埼玉の方が勢いはあったかも。大阪はダイハツ工業や松下電器(現パナソニック)など、素晴らしい企業を生み出した歴史もあるし、IT特区のようなものができていても良かったのかもしれない。日本全体の活性という観点からいうと、地方に機能が分散していた方がリスクも回避できるしね」
大阪で塩干乾物屋を営む家庭に育ったつんく♂。大阪をどう発信していくかを考える日々だ。
写真:Getty Images / SammyVision
「でもアメリカから見ると、東京も大阪も近いんですよ。めちゃめちゃ頑張れば福岡から京都を通って仙台ぐらいまで新幹線で1日で回って楽しめるぐらいの距離感じゃないですか」
大阪・関西万博の特別アドバイザーという大役も、今まで培ってきたプロデューサーとしての経験が活きている。現在は、食・IT・教育など専門家たちのアイデアをまとめ、市長や府知事に分かりやすく「通訳」することが主としての仕事だ。
「見ないフリ」してる幸せ
撮影:西山里緒
「不安は不安」 —— 。
がんには治療後、5年を経過して再発しなければ治癒したと見なす「5年生存率」という概念がある(公的医療情報はこちらから)。2019年の10月で手術からは5年が過ぎたが、つんく♂は今でも「緊張感の中で生きている」と率直に言う。
「毎日、不安の中で生きてます。普段食べ物に気を使っているつもりでも、人間なので時折ハメも外したくなる。そうすることで一時の幸せをもらいますが、翌日には自己嫌悪におちいります」
撮影:伊藤圭
一方で、それが「人間の弱さと同時に、人間らしさ」だともいう。
そうした人生観は、自らが書く歌詞にも反映されている。2020年1月にリリースしたモーニング娘。の新曲「KOKORO & KARADA」には「幸せなのに 見ないフリしているかも」という歌詞がある。
誰にだって「もっとこうなりたい」「なぜ自分だけ不幸なのか」「あの人はいいなあ」、そう思う時がある、けれどもそれは自分の幸せを「見ないフリしてるだけ」 —— 。そんな意味を歌詞に込めた。
撮影:伊藤圭
今、つんく♂はもう一度、まっさらな状態で「アイドルをプロデュースしたい」と考えている。すでにコンセプトは決めた。「ひとつはSPEEDのような、11〜13歳ぐらいの3年後が楽しみな若いグループ」「もうひとつは15〜16歳くらいの、歌える大人なグループ」。
誰かおれへんかな?と語る時、つんく♂の目は輝きを増す。そこには、エンタメを生み出すことが楽しくてたまらないというひとりのクリエイターの素顔がある。CDが売れなくなったと言われる今、「歌手」をどう憧れの職業にしていくか —— 。つんく♂の第二の人生は、歩みを止めることなく、まだまだ続く。
(取材・構成、西山里緒)
※本記事は、Business Insider Japan編集部とLINE NEWSの共同企画です。 フルバージョンの記事はLINE NEWSでご覧いただけます。