1975年熊本県生まれ。外資系金融機関を経て、独立。2014年、シタテルを設立。2年後に東京にも拠点を設ける。
撮影:伊藤圭
河野秀和(45)は最初からアパレル産業に興味を抱いていたわけではない。
もともと外資系の金融機関で働いた後に、熊本で独立してリスクマネジメントやファイナンシャルプランニングに関する事業を開始。あらゆる業種のクライアントに接しながら、企業の課題解決ばかりを考える日々だった。
特に興味を持ったのが「企業の存続や事業の継続」についてだったという。
「地方の中小企業では、どんな業種でも後継者(事業承継)問題があり、技術をいかに継承するかという悩みを抱えていました。そこで、テクノロジーによって地方の企業の仕事を拡張できないかと考えたんです」
当時37歳。地元・熊本にあるセレクトショップのオーナーと話をしていて、アパレル業界の構造上の問題を知る。
まず、素材の調達から企画、縫製、加工、配送などすべての工程が複数の業者に分かれており、川下にいるセレクトショップが川上の情報を知ることは容易ではないということ。大量生産が前提の産業であるため、少量必要な数だけ衣服が欲しくてもコストが上がり、そもそも発注できないケースが多いということ。
だから、良いものを適正価格で提供したくても、小さなセレクトショップでは大量に在庫を抱えられない。結局は売れる定番商品を多めに仕入れると、ラインナップも均一化してしまう。こうした現実が古くから変わらずに存在していることに疑問を抱いたのだった。
「当初はなぜ数十枚の衣服を作ることができないのか理解できませんでした。しかも、アパレル業界の構造的な問題で、同じ街に手の空いている工場(閑散期)があるにもかかわらず、生産の発注ができないと言うのです。この構造に違和感を拭えなかった」
アナログな取引とデータがないという課題
創業時代、熊本市内の雑居ビルから始まった。
提供:シタテル
河野の実家では祖母が衣服を作るアトリエを開いていて、衣服を作るという行為には親しみがあった。すぐに産業構造をリサーチし、いくつかの熊本の縫製工場に飛び込みで相談をした。
「数はいらない。少量でいいので、ショップやブランドのために服を作ってくれないか」
本来業界的には無謀とも思える依頼を、ある工場長が快諾してくれた。あとでわかったのは、アクションを起こしたタイミングが良かったということ。大量生産を前提にした発注が来る隙間時間で、ちょうど手が空いている「閑散期」だった。
話を聞けば、ロット数(注文量)が依頼元によってさまざまな上に、大抵が紙やエクセルベースで生産管理シートを作るという極めてアナログな方法のために効率化が図れないことがわかった。
衣服産業は「春夏」と「秋冬」という2つのシーズンに大きく二分されているから、需要は季節によって大きく変動し、隙間時間は必ず存在する。生産管理をデータ化し、需要にマッチさせればいいのではないか。事業化を決めた瞬間だった。
「課題感は大きく2つありました。1つがコミュニケーション。当時は電話とファックスによる取引(コミュニケーション)が主流のために事故が発生したり、効率が悪くなっていた。これはITで解決できると確信が持てました。
もう1つは、そもそも工場の定性・定量的な情報が『データ化』されていないということ。工場の規模や品質、得意とするジャンルなどをデータベースにすることで、最適な仕事を提供できると思いました」
河野はさっそくプラットフォームのプロトタイプをチームで作り上げ、実証を始めた。しかし、これまでまったく変わらなかったレガシーな業界が、なぜ門外漢の意見をこうもすんなりと取り入れてくれたのだろうか。
河野はこう振り返る。
「工場としても業界が不景気になる中で、どうにか仕事をとりたいという思いは強かったようです。基本的に工場は労働集約型なので、稼働率を上げて生産を安定させる必要があります。
一方で、1つの大手企業の下請けとして稼働率100%を目指すのも、実はリスクがある。元請けの企業に何かあった時に共倒れする危険がありますから。工場としては分散的かつ継続的に仕事の入る状況が必要だったんです」
撮影:伊藤圭
当時競合するサービスがなかったこともあるが、うまくいった背景には、河野という人物の人柄も大きく影響している気がする。落ち着いていて攻撃的ではない半面、心の奥底に情熱を持っているようなタイプ。話していると、すぐ引き込まれる不思議な力を河野は持っている。
その頃、ファスト・ファッションによる大量消費が盛り上がる一方で、国内ではクラウドファンディングサービスが次々と生まれ、インターネット通販を前提にした小さなブランドが勃興し始めていた。工場のニーズは確実にあるが、受け入れる態勢は柔軟に変えていく必要があった。
だからこそ、工場が計画的に仕事を受注し、収益モデルも多角化する仕組みを作った。ただ仕事を待っているのではなく、仕事獲得のためにアピールできる機会を創出したのだ。
「当初からサステナブルな業界構造を目指したというよりも、それぞれの工場が適した仕事を受けられるようにしたかった。趣味嗜好が細分化され、大量生産品が一気に売れる時代ではありません。生産の最適化によって必要な衣服が必要なタイミングで作れるようになれば、結果としてアパレルの構造はサステナブルに近づきます」
こうして、アパレル業界の構造を最適化する河野の挑戦が熊本の小さな街から始まった。
(敬称略・明日に続く)
(文・角田貴広、撮影・伊藤圭)
角田貴広:編集者・ライター。1991年、大阪府生まれ。東京大学医学部健康総合科学科卒業、同大学院医学部医学系研究科中退。ファッション業界紙「WWDジャパン」でのウェブメディア運営やプランニング、編集・記者を経て、フリーランスに。メディアでの執筆をはじめ、ホテルベンチャーの企画・戦略、IT企業のオウンドメディア運営、プロダクト企画など、メディア以外の広義の編集に関わる。