1975年熊本県生まれ。外資系金融機関を経て、独立。2014年、シタテルを設立。2年後に東京にも拠点を設ける。
撮影:伊藤圭
熊本の工場への飛び込み営業を経て「sitateru」というサービスを作り上げた河野秀和(45)だが、聞いてみると最初は2つの事業を走らせていて、どう事業を拡大させていくか悩んでいたという。
「実はsitateruはB案だったんです。課題感から衣服産業で何か事業展開したいとは考えていましたが、最初は衣服のカスタマイズ事業をメインで考えていたんです。当時アメリカでカスタマイゼーションという概念が生まれ、盛り上がり始めた頃。中古衣料をカスタマイズしてリメイクする消費者向けのサービスを検討していました」
実際にピッチをすれば、この事業は投資家からも好評を得た。
一方で河野は、日本国内で人々がウェブ上でアイテムのカスタマイズをして、購買に至るという文化を醸成するには多大な時間がかかると感じた。
sitateruとカスタマイズの2つの事業を拡大していくには資金がかかりすぎる。実際、私財を元にした資金も尽きようとしていた。当時一緒に事業を検討していた、信頼のおける会計士からは「事業をどちらかに絞るべきだ」という助言も受けた。
「悩んだ末、難しい方を選ぼうと決めた」
シリコンバレーでの視察は、河野が2つの事業を1つに絞るきっかけにもなった。
提供:河野秀和
このタイミングで、あるキャピタリストから事業案をブラッシュアップするためにシリコンバレーやサンフランシスコへの視察に招待された。日本のスタートアップ4社の起業家とともに、ピッチや意見交換などをしながら現地を行脚したが、頭の中は事業のことでいっぱいだった。
「アメリカへ行く前は完全にA案のカスタマイズ推し。市場の大きさから考えると、BtoBを狙うsitateruの方が可能性が大きいのですが、圧倒的に難易度は高い。消費者市場を作り上げるというA案に対して、B案のsitateruではアパレル産業の川上から川下まですべてのポイント・事業者に対して思考を張り巡らせる必要があります。悩んだ末に、私は難しい方を選ぼうと決めました」
人生の時間を費やすのなら、課題は大きい方がいい。それが出した答えだった。当時を振り返りながら「あの頃、すごく生きている感じがした」と呟く。
「資金的にもどうにもならないタイミングで、未来が決まる決断。深く思考し、苦悩することで、生きている心地がしました」
もう一つ、決断の根底にあったのが、「より解像度の高い人が事業をやるべきだ」という彼の哲学だったという。
「これまで衣服に関する事業者の『課題』の情報整理とインプットは数年をかけてやってきた。それらを生かして、自分の感じた『課題』を解決する必要があると感じたんです」
2013年にアメリカを訪れ、翌年3月にシタテルを創業。思い切った選択のように見えるが、実はその後半年は、選ばなかったA案に対してはずっと未練を感じていたという。
「当時のプレゼン資料を見ると、まだA案の計画もうっすらと残してありましたから」
と河野は笑う。
迷いが見える河野に、リブセンス代表・村上太一氏ら投資家は、改めて「事業内容を絞って、投資を受けて、今事業を加速すべきだ」と助言。
sitateruに一本化することを決め、2014年夏にシードラウンドの出資を受けて事業を本格化、その年末には初期バージョンをローンチした。
自ら工場に出向き叱られる日々
撮影:伊藤圭
河野は創業期の忘れられないエピソードを一つ教えてくれた。
河野に共感し、協力を申し出てくれた工場は多数あったが、実際に衣服生産の工程に入ると、河野や当時のアルバイトは専門知識がまだ乏しく、品質にプライドを持つ工場からは「もう少し専門知識がないと話にならん」と一蹴されることがたびたびあった。
必死に付いてきているメンバーのモチベーションを保つためにも、河野が直々に工場へ出向いて叱られ、帰ってきてそのアドバイスを咀嚼してメンバーらに優しくポジティブに教える日々が続いた。つらかったか?と聞くと、「いやいや。いつだって『次こそうまくやりますから』というスタンスでしたよ」と河野。
「この頃から、仕組みはもちろんのこと、最適なコミュニケーションを取ることを大事にしようと思い直しました。この時工場の方々に鍛えていただいたおかげで、規模が拡大しても信頼を保てるプラットフォームに近づいたんじゃないかと思います」
こうした経験をもとに、生まれたのがsitateru独自のコミュニケーションツールだった。
当時のアパレル産業のアナログなコミュニケーションに、IT業界を中心に広がっていたカジュアルなコミュニケーションツールなどを取り入れることで、円滑にやりとりが進むだけでなく、取引のログが残ることでクレームの原因究明などを可能にした。
直感力で決めた事業内容と2拠点
2019年に移転した熊本本社では「滞留しない空間」をテーマに「ドアのない」空間を実現。
提供:シタテル
しかし、事業が成長するにつれて、どうしても工場との連携は自動化され、人間味は希薄になる。同時に会社組織が大きくなることで、少人数でやっていた頃には存在しなかった組織経営という課題が立ちはだかった。「現在、乗り越えるべき壁は?」と河野に聞くと、「組織デザイン」と答える。
「ひと・しくみ・テクノロジーで衣服の価値を変える」をミッションに作り上げたサービスも、気がつけば、ともに働く仲間はすで70人を超えた。創業3年後には東京にも支社を作り、現在は熊本と東京の2拠点で事業を展開する。熊本に20人、東京に50人、河野自身も2拠点を行き来する。
もうこれまでのように創業時の思いだけで全員が同じ方向を目指せる規模ではない。役割が分担され、組織体制も定期的に変えていく必要がある。河野は自分の役割をこう認識している。
「プロの演奏家を指揮する指揮者のような仕事です。サプライチェーンの改革と言っている時点で社員が一定数必要になることは想定していましたが、実際にこの規模になると『設計すること』が増えるので大変です。
ただ、ここでもテクノロジーができることは多い。人と技術でやるべき部分を分けて、ハイブリッドで最適な状態を目指し、全体のバランスを整えるのが私の大事な仕事だと思います」
熊本と東京という2拠点生活は、物理的に組織の結びつきに影響を与えてしまう気がする。なぜ、今もこの体制を続けるのだろうか。河野は少し考えてこう答える。
「コミュニケーション上の問題も起きやすいですし、まとめたほうが効率はいい。
だけど、2拠点は維持したい。地方には地方の良さがあるし、地元からの応援もありがたいことに増えてきました。Uターン、Iターン就職を考えるエンジニアも増えています。
都市部を経由しない“グローバル”な視点も必要ですし、何より場所に依存しないサービスを掲げ始めた事業なので」
河野と話していると、合理性を追求する姿勢の裏に鋭い直感力のようなものを感じる。現在の事業に一本化することを決めたのも、現在の2拠点生活も合理的とは言えない。
だが、そもそも非合理的で人間同士のつながりがモノを言うアパレル産業が、合理化を図ったがゆえの「業界萎縮」という問題に直面している。すべてが合理的なロジックだけでは各工場の強みは生かせず、事業の差異化が難しくなる。
河野の持つ直感力が、やはり経営者としての素質を示している気がしてならない。
(敬称略・明日に続く)
(文・角田貴広、写真・伊藤圭)
角田貴広:編集者・ライター。1991年、大阪府生まれ。東京大学医学部健康総合科学科卒業、同大学院医学部医学系研究科中退。ファッション業界紙「WWDジャパン」でのウェブメディア運営やプランニング、編集・記者を経て、フリーランスに。メディアでの執筆をはじめ、ホテルベンチャーの企画・戦略、IT企業のオウンドメディア運営、プロダクト企画など、メディア以外の広義の編集に関わる。