日本を代表する大企業が集まる東京・丸の内。
撮影: 竹井俊晴
「2月末にイベントを開催したのですが、開催可否の判断はかなり迷いました。毎日のように状況が変わっていったので、日々判断を更新していました。イベントを開催するとなった場合、どこまで対策をすれば社会的に許されるのかを気にして、同じようなイベントを開催したところではどんな対策をしていたのか、色々とヒアリングしました」
渋谷区のIT企業に務めるイベント担当者は、当時をそう振り返る。
今も残っているイベントのWebページには、厚生労働省の新型コロナウイルスに対するガイドラインに従った上で、イベントを開催しているという注意書きがあった。
ビジネスカンファレンスは3密にかなり近い状態で開催されることが多い。3月以降、多くのビジネスカンファレンスが中止や延期、オンラインでの開催に変更されていった。
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「正直、当時はどうしたら感染しやすいのか(今で言う『3密』など)がよく分かっていなかった。身近に感染した人もいなかったので、ちょっと言い方は悪いですが『気にはしている』という状態を見せる意味の方が大きかった。最終的には経営会議で対策について話し合われて、OKがでました」(IT企業担当者)
幸い、このイベントへの参加者から、感染者は確認されていない。担当者も「今の状況を予想できていれば、違う結論を出していたのでは」と、ここ1カ月で急激に感染が広がってしまった現状に戸惑いを隠さない。
事業の維持と感染症対策。頼るべきは産業医
今後、企業活動を続けていく上で、感染症対策は必須だ。
しかし、医療の専門家ではない経営者が、自社の感染症対策の妥当性を判断することは難しい。安全管理上の危険に気づかないまま、何となくの対策を行った状態で事業を続ける企業もあらわれかねない。
このような状況では、従業員を危険にさらしてしまうばかりか、新型コロナウイルスの社会的な抑え込みにも失敗する可能性が出てくる。
そこで鍵を握るのが、「産業医」の存在だ。
産業医の仕事は「メンタルケアだけではない」
産業医といえば、近年は長時間労働などでメンタルに不調をきたした人に対するケアを行う人というイメージを持つ人も少なくない(写真はイメージです)。
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「産業医とは、事業場において労働者の健康管理等について、専門的な立場から指導・助言を行う医師を言います。労働安全衛生法により、一定の規模の事業場には産業医の選任が義務付けられています(日本医師会・認定産業医サイトより引用)」
日本では、労働安全衛生法によって、50人以上の規模の事業所では1人以上の産業医を選任するよう定められている。また、1つの事業所に1000人以上いる場合は、フルタイムの産業医を専任契約しなければならない。
2019年4月には、働き方改革関連法案が施行。近年問題になることの多い長時間労働に伴う心身の不調を防ぐため、月に時間外労働を80時間以上行った従業員は、本人の希望があれば産業医と面談できる。産業医は面談の上、必要に応じて企業に業務内容などの改善措置を提案しなければならない。
ストレス問題や長時間労働問題と合わせて議論されることが多いため、産業医は「精神的なケアを行うのが仕事」と思われがちだ。しかし、本来の産業医の役割は、労働者の健康管理、職場の安全、衛生状況の管理など、あらゆる面で健康・安全を確保するための専門家として、事業の運営を補助することだ。
「産業医は、月に何度か事業所を訪問して、企業の『衛生委員会』(50人以上の事業所が義務付けられている会議)に出席。衛生管理(ストレスチェックなどを含む)にかかわる助言や、衛生教育などを行います」
こう話すのは、企業の産業保健活動をサポートするエムステージ執行取締役の鈴木友紀夫氏。
エムステージ執行取締役の鈴木友紀夫氏。
撮影:三ツ村崇志
産業医は、企業内で不調を抱えた人があらわれるなど、『何かあったとき』に頼る存在というイメージが強い。しかし、鈴木氏によると、日本の産業保健制度は、そもそもそういった不調が生じないように予防を意図してつくられた制度だという。
そのため産業医は、日々の事業所の視察などによって職場環境を把握することはもちろん、健康診断などを通じて従業員の健康状況を把握した上で、事業活動で従業員が心身の不調をきたすことがないよう、経営陣に事前に提案・助言することが求められているのだ。
日本の「腰掛け産業医問題」
浜口伝博氏は産業医として、多数の企業に関わっており、新型コロナウイルスへも対応している。また、産業医アドバンスト研修会では、産業医の育成にも尽力している。
撮影:三ツ村崇志
ただし、日本の産業保健制度には、問題も多い。
「日本の産業医は、副職感覚ではじめている人も少なくない」
産業医アドバンスト研修会理事長、自身も産業医として活躍する浜口伝博氏はそう話す。
日本では、医師免許を持った人が50時間の講習を受講することで、産業医の資格を得ることができる。習得度や技能を確認されないまま社会に出てしまうため、中には企業から信頼を得ることのできない産業医(腰掛け産業医)もいるという。
浜口氏は、
「企業側の見る“目”が変わり、産業医の質が問われる時代になりました。法律では『産業医はこういうこと(健診、ストレス管理、労働環境の管理あど)をやらなければならない』とありますが、それ以外にも、企業ごとに対処すべきリスクが違うので、職場に合わせた産業医活動が期待されています」
と、ここ最近の産業医のあり方について考えている。
カフェなどの飲食店とオフィスワークの多い企業では、感染症対策における考え方は異なるはずだ。
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産業構造の変化にともない、産業医に求められる能力も広がっている。
例えば、ストレスチェック制度が始まった2015年以降、産業医は高ストレス者との面接を行うようになった。
「このとき、『私はメンタルヘルスを扱いたくないので、ストレスチェックには関わりたくない』という産業医が出てきて、事業者は産業医を変更せざるをえなかったということをよく耳にしました」(浜口氏)
医師にはそれぞれ専門があり、事業者が選んだ産業医が精神疾患や感染症のプロフェッショナルであるとは限らない。実際、メンタルヘルスの専門家でなければストレスチェックを実施できないわけではない。
産業医がカバーする範囲は広大だ。だからこそ、産業医として適切な人材というのは、一つの医療分野のプロフェッショナルというよりも、最新の医学的な情報を考慮した上でオールラウンド的に立ち回れるような人だといえるだろう。
浜口氏によると、さまざまな医学情報をアップデートしながら、担当の産業現場に最適な産業保健サービスを提供できるような、産業医学を専門とした若手医師も増えてきているという。
ウィズコロナ時代に重要性を増す「産業医の役割」とは
産業医には、こういった基本的な対策を周知するような役割も求められる。
出典:エムステージ
新型コロナウイルスの流行によって、事業の継続性に危険信号が灯っている企業が増加している。
企業は、事業を継続しながら感染症対策を行うために、さまざまな対応を強いられている。
しかし、政府から要請があったからという理由でアルコール消毒を行ったり、時差通勤といった対策を行ったりする発想は、感染対策として本質的ではない。
例えば、金融機関の窓口と、飲食業、いわゆるオフィスワークの間では、業務を行う上で感染対策を行うべき点は違うはずだ。
リモートワークなどをはじめ、マスクや手洗い、消毒液、社会的距離(ソーシャルディスタンス)をとるなど、感染対策にはさまざまな方法がある。産業医は、自らが担当する事業の中でどういった対策が効果的であり、実現可能なのかを医学的に判断し、事業者へ対策を提案しなければならない。
浜口氏は、医学的な視点だけではなく、ビジネスの流れを汲んだ上で必要な対策を実施することが産業医に求められていると話す。
「業態によって健康リスクはさまざまです。産業医は、日常的に職場環境や業務内容に通じているからこそ、職場における感染症対策や、災害時などにおける事業継続計画(BCP)へのアドバイス、労働者個人への予防指示といったことができるのです」
リモートワークの長期化によって、コミュニケーション齟齬や、孤独の問題、自宅での作業疲れなどが顕在化し始めている。
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また最近では、感染症対策としてリモートワークなどを推し進めた結果、社内コミュニケーションが不足したり、従業員の孤独化が進んだり、メンタルに支障が出てきたりといった例もみられる。
今後も長引くことが予想される新型コロナウイルスとの闘いにおいて、こういった精神的な不調をどうケアしていくのかも、事業者は産業医と相談しながら考えていかなければならないフェーズに入っている。
浜口氏は「集団を相手にしたストレス対策やメンタルヘルス支援については、組織対策の見識を持った専門的産業医がどうしても必要になってくる」と、今後の課題を話す。
事業の継続が危ぶまれる今だからこそ、新型コロナウイルス対策に十分配慮しながら事業活動を続けるために、産業医の存在感の高まりが求められている。
自社の対応は果たして妥当なのか、事業者はまず産業医に相談してはいかがだろうか。
(文・三ツ村崇志)