撮影:伊藤圭
クライアント企業に対してAI技術活用の提案から、ビジネスモデルの構築、プロトタイプ作成やAI開発まで一貫したAIやデータ活用支援を提供する米企業「パロアルトインサイト」を経営する石角友愛は、エンジニア出身ではない。
石角とAIとの結びつきは、憧れだったシリコンバレーのグーグル本社で働くチャンスを獲得したところから始まる。
そもそも石角は、初めからAIに目を付けていたわけではなかった。
「AIをやりたくてグーグルに行ったわけではないです。グーグルに行きたくて、あてもなく、シリコンバレーに住み込んだのが始まり。私が行くのはこの会社しかないと。完全に“狙い撃ち”です」
赤ん坊抱えて夫婦で無職からの就活
石角が就職活動した2010年、グーグルはすでに採用率が応募者の3%という超難関だった。
Justin Sullivan/Getty Images
「グーグル本社で働きたい!」
当初、そう望むことは、「北極熊がアフリカのサバンナでの狩りに憧れるようなもの」だと思っていた。
だが、2010年にハーバードビジネススクール(HBS)の卒業を控えて、石角の思いは募る一方だった。
シリコンバレーで働く人に、MBAホルダーは珍しくない。石角は、IT企業での専門職での就業経験もなかった。それに、外国人でもある。さらには、出産直後のタイミングで、乳児を抱えていた。
幸いなことに、HBS在学中に結婚した夫が理解を示したことで、“就活”を始められた。夫は投資銀行からオファーを受けていたが、「入社時期をずらしてください」と交渉。その間、シリコンバレーで暮らしながら「まずは、3カ月だけ就活してみよう」と夫婦で決めた。
2010年5月にHBSを卒業し、7月にシリコンバレーへ。最初に住んだのは、「小さな家具付きのボロボロのアパート」(石角)だった。現地では保育料も高い。先に夫に就職活動を始めてもらい、夫の安定収入が得られるまで自身は子育てに専念。いつしか「3カ月」という期限は過ぎていった。
夫は12月末には別の企業からオファーを得られたため、それ以降は保育園に子どもを預けられるようになった。今度は、バトンタッチして石角が就活を開始した。
「私の予定では、もうちょっと早くから始めるつもりだったんですけど(笑)。高い家賃も払わなきゃならないし、夫婦で無収入だし、目の前にはちっちゃい子どももいるし、ハラハラしました。おまけにHBSの学費の返済も始まるから、今思えば危うい状況でしたね」
「無力感は経験として意味がある」
2011年初頭から、彼女の就活はスタートした。どれだけ挑戦しても、しばらくはリジェクト続き。普段はポジティブな石角も、この時ばかりはさすがに凹んだ。
「せっかくHBSでMBAを取ったって、意味がなかったのか?」とさえ感じていた。それでも、「もう、とことんやり続けるしかない」と心に決めた。
「今味わっている無力感は、経験として意味がある。諦めたら、この経験から得るものもなくなる」
スタートアップも含め、トータルで約100社の門戸を叩いた。けれど、本命はグーグル1社のみ。
「グーグルはいろいろなポジションを受けました。空いたポジションがあると聞けば、片っ端から応募して。かなりリサーチして、自己分析のスプレッドシートも作って」
現地の就活は、ネットワーキングが基本だ。1人でもツテを見つけてキーパーソンにつなげてもらうまでに、時間がかかる。面接までこぎ着けるだけでも、一苦労だった。最初は現地に住む日本人を中心に会いに行ったが、「MBAなんか取ったところで、そんな人は山ほどいる」と言われたこともあった。
「夫の就活中には、保育園に預けられずに子どもを抱えて会いに行ったこともある。その場で冷たいことを言われたこともありました」
「あなたグーグラーですか?」叩き込んだDNA
グーグル時代には多様な同僚に恵まれた。
石角さん提供
悪戦苦闘の末につかんだ1枚の切符は、なんと本命のグーグル本社だった。
当時、グーグルの就職率は応募者の3%と言われるほどの難関だった。石角が射止めたのは、「グーグルショッピング」という検索連動型広告サービスを運営する「コマースチーム」だ。
「面接で『うまくいった』という手応えはありましたね。それまでに、グーグルにいる友人と社内でランチを食べ、内部の人がよく読む本を読みあさり、当時グーグルの顔とも言われたメリッサ・メイヤーの講演も聞きに行っていた。
『あなた、グーグラーですか?』と言われるくらいに、会社のDNAを叩き込んでいましたから(笑)。それに、マニアックですが、仮説検証の能力を問われる『フェルミ推定』も、かなりやりこんでいきました」
IT企業での就労経験がなかった石角は、面接の場で、経験や実績ではなく、別の方法で自己アピールした。柔軟な思考力と、どういう環境でも幅広く対応できるような順応力を示すために、「御社のサイトの改善点はこれこれ」と具体的に独自の提案をしたのだ。
「グーグルショッピングのことを調べ尽くした上で、私は独自に『メトリクス』(データを収集し、計算や分析を加えてわかりやすい数値に変換した指標)を使った解析法を提案して。『そうすれば、もっと使い勝手がよくなりますよ』と。私がグーグルの面接官も知らないような方法論を語っていたので、驚かれました」
そんな石角も、最終面接は相当緊張していたそうだ。その日帰宅後は、張り詰めていた心の糸が切れたように体調を崩し、寝込んでしまったという。
それにしても、なぜ、1社“狙い撃ち”だったのか? 石角はあっけらかんと、「世界一働きたい会社だったから」と答えた。
「だって、人間誰しも使えるのは24時間って、キャパが決まっているでしょう? 寝たり食べたりする時間を除いたら、集中できる時間って限られている。その限られた時間を何に割くかって、ものすごい大事です。
だったら、主体性を持って、情熱をかけて、絶対やりたいことだけをやるって絞り込んだ方がいい。他は捨てちゃう。
それにアメリカの就活って、ものすごくパッションが大事にされるんです。話していれば分かると思うんです。この人ほんとに自分の会社に興味があるのかな?って」
「日本人であること」を強みとして磨く
創業者の2人と全社員との会議が毎週金曜日に開かれていたグーグル。社員から直接経営者に質問が投げかけられる職場は刺激的だった。
Kimberly White / Reuters
石角がグーグル本社に入社したのは、2011年5月。機械学習オペレーションチームのシニアストラテジストとして、グーグルショッピングにまつわる多数のAIプロジェクトを担当することになる。このAIとの出合いが、石角のキャリアを飛躍させた。現在の会社を起業する上でも、大きな意味を持つ。
その頃のグーグルでは、先ごろ退任した共同創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンが、毎週金曜に「TGIF」と呼ばれる全社会議を開催していた。社員たちは経営幹部にボンボン質問を投げられるような、イノベーションマインドのあふれる社内風土だった。
なかでも石角は、当時、グーグルの中でも画期的な試みにどんどん挑戦できる「コマースチーム」に所属し、刺激あふれる毎日だった。当時をこう振り返る。
「毎月のように実証実験のチームを作っては、作ったAIプロダクトを社内でお披露目して社員に『ドッグフード」』(試しに使ってもらうこと)する。社員からフィードバックをもらって改善を施したら、β版としてあっという間にローンチする。そんなサイクルを、当たり前にガンガン回していた時期で、ものすごく楽しかったですね」
グローバルな職場で心掛けたのは、日本人である自分を「売り込む」という姿勢だ。石角は言う。
「英語圏じゃないところで育ったバックグラウンドを弱みとして埋めていくのじゃなく、日本人であるメンタリティや文化背景を持つことを、自分の“強み”として磨こうと。むしろアピールしていこうと。そこは常に意識していました」
石角が所属していたコマースチームは、扱う商品の分類も担当しており、日本語版と英語版の両方を任されていた。分類の話し合いでも、“強み”は発揮された。
例えば日本語で「布団」という検索ワードを入れた時、日本語のページには、結果の一覧に敷布団と掛け布団がずらっと出てくるようになっていた。けれども、英語のページで「Futon」と入れると、ソファベッドが出てきていた。そこで石角は、「日本人がfutonと検索してソファベッドの写真が並んだら、大きな違和感を感じる」と指摘し、改良を加えた。
日本人なら当たり前のように共有している文化背景を、石角は丁寧に説明し、チーム内に周知していった。
カテゴリーを作るミーティングでは、1つの検索ワードに対し、どの商品を含めるべきかとその都度議論を行なっていたのだという。AI開発の裏には、そんな地道な人間の話し合いが介在しているのだ。
「その話し合いのテーブルに、日本人である私がいることが、どれだけ意義深いことかと思いました。何といっても、その1週間後には、そのワードの分類で日本人みんなが普通に検索してグーグルショッピングを使うようになるんですから」
「Above and Beyond」でいよう
石角が、グーグルで働く上で心がけていたのは、「常にAbove and Beyondのマインドでいよう」ということだ。
「つまり、相手の期待をいい意味で裏切るってことですよね。自分の職務をはるかに超えることをやるんだと」
機械学習の基盤を構築する上で、利用可能なデータを整形し、準備する「パイプライン」は欠かせない。けれども、石角には、そもそもデータパイプラインの設計は期待されている仕事ではなかった。
けれどもある時、非効率なパイプラインの存在に気づいた石角は、エンジニアを集めて説明を受けた後に、自分でより効率的な設計を構築して改善するところまで持っていったことがあった。
「この区分以上の仕事は職務上求められていないからやらないんじゃなくて、『せっかく与えられたチャンスだから、これを機に自分で作業をしてみようか』と。社員としての目線だけじゃなくて、自分が担当しているプロセスが全体のパイプラインのどこに位置するのかを相対的に理解しようという好奇心ですね。
その結果、グーグルショッピングのアーキテクチャ全体をすごい理解したいという意欲が高まって、私の中にいい循環が出来たんです」
こうした「Above and Beyond」の意識は、現在のAIビジネスデザイナーの仕事にも生きている。彼女自身はエンジニアではないが、課題を抽出して提案するにあたり、技術への深い洞察は欠かせない。
「私にはユーザーに対する使いやすさを追求したり、企業が直面している課題を克服したりするための媒介者としての役割がある。いい意味での『はみ出し』が、時に仕事を強力に円滑にすることもあるんです」
こんな石角の反骨精神は、10代の頃から自身の中に宿っていた。16歳で単身渡米した彼女は、日本のどこに窮屈さを感じていたのか? 次回は彼女の生い立ちに迫る。
(敬称略、明日に続く)
(文・古川雅子、写真・伊藤圭、撮影協力・WeWork丸の内北口)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。