ノーベル賞学者も唱える「武漢の研究施設から人工ウイルス流出」説、やっぱりデマと言えるこれだけの理由

リュック・モンタニエ ノーベル賞

ノーベル賞受賞者として知られるフランスのリュック・モンタニエ博士。

Win McNamee/Getty Images

すでに科学的に否定されている人工ウイルス説について、最近またイレギュラーな情報が流れ、SNSや一部のウェブニュースなどで拡散したことがあったので、その間違いを指摘しておきたい。

ノーベル賞受賞者として知られるフランスのリュック・モンタニエ博士が、同国のニュース番組「C-NEWS」に出演(4月17日)し、新型コロナは人工ウイルスだと断言した。モンタニエ博士は、エイズを引き起こすHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の発見者で、ノーベル医学生理学賞を2008年に受賞している。経歴からすれば、まさにこの分野の専門家だ。

ノーベル賞を受賞したトップレベルの専門家が人工ウイルス説を明言したということで、それをそのまま信じた人も少なくなかったようだ。

しかし、モンタニエ博士はかなり以前から、非科学的な言動が問題視されていた人物だ。科学的根拠の乏しい代替医療ホメオパシーを推奨したり、反ワクチン(=ワクチンの接種を拒否)を主張したりするなど、科学界から批判されている。

そのあたりの詳細は、例えば以下の記事(フランス語)に詳しい。

▽「ノーベル賞受賞者なのに科学者たちからブーイングを浴びるリュック・モンタニエ教授とは?」(L'Express、4月18日)

今回の発言は、モンタニエ教授自身が詳細に解析した結果ではなく、1月末にインドの科学者が発表し、世界じゅうの専門家から否定されて撤回した査読前論文をそのままなぞっただけ。科学的に誤りであることは明確だ。

「ノーベル賞受賞者の言うことだから正しいだろう」と反射的に飛びつく前に、一般的と思われる言説とズレた特異な言説に対しては、いったん評価を保留し、他の専門家たちの評価も確認してみる手順が大事だ。

米国務長官は「研究施設からの偶発的な流出」を危惧

いまだにこんな誤認識の拡散が起きるほどなので、新型コロナは人工ウイルスで中国の研究施設から流出したという陰謀論は、なかなか消えてなくならない。

そして今度は、人工ウイルスではなく、自然変異で発生した新型ウイルスが、武漢の研究施設から流出した可能性があるとの見方が急浮上している。

例えば、アメリカのポンペオ国務長官は4月22日、アラブ首長国連邦(UAE)の英字紙ナショナルの取材に応じ、「国際社会は武漢の研究施設を調査しなければならない」と語った。

▽「ポンぺオ米国務長官:世界はコロナウイルスの起源を調べるため、中国の研究施設にアクセスしなければならない

ポンペオ国務長官は同紙に対し、新型コロナウイルスの発生源はなお不明であり、特定するためには、発生源の可能性のある武漢市内数カ所にある研究施設を調べる必要があるとして、中国に情報へのアクセスと透明性を求めていく考えを示している。

おそらくは、中国が拒否するのを見越した上で、十分な情報開示をしない中国の姿勢を責めていく作戦だろう。

ポンペオ UAE 武漢 ウイルス

アラブ首長国連邦(UAE)の英字紙ナショナルが掲載したポンペオ米国務長官への取材記事。

Screenshot of The National (UAE)

ポンペオ国務長官の具体的な発言は、「事態がくり返されるのを避けるために」ウイルスの起源を特定する必要があり、「(ウイルスのような)危険物を扱う研究者たちが偶発的な流出を防ぐ能力を保持できるよう、世界は努力すべきだ」である。中国が故意に流出させたということではなく、アクシデントとして流出した可能性があるという考えだ。

研究施設から流出した「可能性が高い」とは誰も言っていない

冒頭でも書いたように、中国がつくった人工ウイルスか否か、という議論はすでに決着がついている。ゲノム配列の分析から、世界じゅうの専門家が、新型コロナウイルスは動物由来の自然変異によって生まれたとみなしており、人的な加工の可能性はほぼ完全に否定されている。

残された論点は、自然変異によって誕生した新型ウイルスが、武漢の研究施設から流出したものなのか、あるいは自然界で生まれたものなのか、ということだ。

流出疑惑の論拠は、1月下旬の段階ですでに話題になっていた「武漢の研究施設の管理が杜撰」という指摘だ。 しかし、そこから漏えいしたことを示す具体的な根拠情報は当時まったく出てこなかった。

ところが、同じ話が2か月半後になってまたぶり返してきた。再び火をつけたのは、米紙ワシントン・ポストのコラムニストによる「国務省の公電がコウモリのコロナウイルスを研究する武漢の施設の安全問題を警告していた」との寄稿記事(4月14日)。科学分野の外交官らが2018年に武漢の研究施設を訪問し、安全管理に対する懸念を報告していたというのだ。

翌15日、米FOXニュースも「新型コロナウイルスは生物兵器として開発されていたのではなく、武漢の施設での研究過程で発生したものが漏洩した可能性が高いと、複数の情報筋」と報道した。

武漢 海鮮市場

新型コロナウイルスの発生源とされる中国・武漢の海鮮市場。封鎖後の1月17日撮影。

Getty Images

これらの記事や報道に対して、トランプ米大統領は「それぞれ徹底的な調査を進めている」と語った。それがさまざまなメディアで「アメリカは武漢の研究施設から流出した可能性が高いとの見方を強めている」というニュアンスで報道された。

しかし、トランプ大統領も政府高官も「可能性が高い」とは言っていない。そこまでの具体的な根拠情報がないからだ。したがって、流出疑惑については注意深く明言を避け、あくまで疑惑の一つにとどめる言い方に終始している。

むしろ、中国が武漢の死者数を約1.5倍と大幅に上方修正した(4月17日)ことを受け、そちらを「中国は情報を隠蔽している」として責めることに重点を置いており、トランプ大統領は翌18日の記者会見でも、中国が意図的に情報を隠蔽していた可能性について触れ、「もし故意ならば報いを受けるべきだ」と強い口調で語っている。

前述したポンペオ国務長官のUAEナショナル紙へのコメントも、トランプ政権が打ち出している中国責任論の中心的論点である「中国の情報隠蔽への批判」の一環だろう。ちなみに、ポンペオ国務長官は4月22日の記者会見でも、中国が迅速な報告を怠ったことを強く批判している。

「研究所で自然発生したウイルスが流出」の可能性はあるのか

WHO 新型コロナウイルス

感染拡大が続く新型コロナウイルス。4月23日現在、感染者は250万人、死者は17万人を超えている。

Screenshot of World Health Organization website

実際のところ、武漢の研究施設から自然発生の新型ウイルスが流出した可能性はあるのか?

世界保健機関(WHO)のファデラ・シャイーブ報道官は4月21日、記者会見で「WHOは発生源が武漢の研究施設とはみていない」と断言した。

しかし、その理由は「客観的な証拠は、このウイルスが動物起源のものであり、研究施設で加工されたものではないことを示している」というもので、自然発生した新型ウイルスが流出した可能性については答えていない。

ウイルスの起源が解明されていない以上、ウイルスが研究施設から流出した可能性も、理論上は否定できない。疑惑の研究施設が、感染源とされる武漢にあるのは事実だ。もし研究施設内に新型ウイルスがあったのだとしたら、アクシデントなどで誤って流出した可能性を完全にゼロとするのは、現時点では難しい。

したがって、核心となる疑問は「武漢の研究施設に、感染拡大前にすでにこの新型ウイルスは存在していたのか?」ということになる。

しかし、それについては、可能性を示唆する根拠情報は一切出てきていない。中国が研究施設の情報を開示していないのは事実だが、それにしても具体的な根拠情報が何もない状況で、疑惑の可能性だけ高く見積もるのはあまりにも乱暴というものだ。

新型コロナウイルスがどこかで自然に発生したとすると、それが武漢にアクセスして感染拡大に転じた経路は未解明だ。だが、実際のところ、圧倒的に広大な自然界で発生した可能性のほうが、確率的には高い。

中国の研究者がどこかで入手した新型ウイルスをこっそり武漢の研究施設内で保管していたとか、映画のような陰謀論的ストーリーでもなければ、研究施設内のきわめて限られた環境のなかで、新型ウイルスがたまたま誕生し、それがたまたまアクシデントで漏えいしたなどという可能性は、現実的にはかなり低いと言わざるをえない。

中国が研究施設の情報を全面開示することはおそらくないだろうから、今後の見通しは正直言って不透明だ。さらなる科学的な調査研究によって、より詳細な発生源と感染拡大への経路が判明するのを待つしかないのかもしれない。


黒井文太郎(くろい・ぶんたろう):福島県いわき市出身。横浜市立大学国際関係課程卒。『FRIDAY』編集者、フォトジャーナリスト、『軍事研究』特約記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て軍事ジャーナリスト。取材・執筆テーマは安全保障、国際紛争、情報戦、イスラム・テロ、中東情勢、北朝鮮情勢、ロシア問題、中南米問題など。NY、モスクワ、カイロを拠点に紛争地取材多数。

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