令和の2年目が、静かに始まった。新型コロナウイルスの影響で、陛下と雅子さまも赤坂御所での巣ごもり暮らしを強いられている。
台風の被災地を慮って延期された2019年11月10日のご成婚パレード。陛下と雅子さまには、対等な空気が流れていると感じられた(2019年11月10日撮影)。
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学習院女子高等科卒業式にあたり、マスク姿の愛子さまが報道陣の前で撮影に応じたのが、3月22日。陛下と雅子さまは式に出席せず、「御感想」を発表しただけとなった。結びは、「新型コロナウイルスの感染拡大の終息」を願う言葉だったが、その日以来、ご一家が国民の前に姿を表す機会は消えたままだ。
この事態を、令和の皇室にとっての「試練」と表現していたのは、名古屋大学大学院の河西秀哉准教授。上皇陛下と美智子さまはいち早く被災地に駆けつけるなど、国民に寄り添うことで尊敬を集めた。その「平成流」皇室が、このままでは成り立たなくなる。国民生活が揺れる中、天皇の存在感が薄いまま時間が過ぎてゆくのは深刻な問題。そのような指摘だった。
すべて新型コロナウイルスゆえということは、もちろん河西さんも承知の上だ。令和を覆う厄災は、平成のそれとは全く違う。「被災地」どころか、どこにも出かけられないのだから、お二人にとって確かに試練だろう。しかもやっかいなことに、いつまで続く試練なのかがまるで見えてこない。
等距離の二等辺三角形の関係
コロナウイルスの影響もあり、陛下と雅子さまのご出席はなく、お一人での卒業式となった愛子さま(3月22日撮影)。
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暗い話になってしまった。
とはいえ、新たな道はあるはずだ。「平成流」とは違う、「令和流」で国民とつながる道が必ずある。そしてその入り口は、すでにもう見えている。そう思ったのが、直近のお二人の写真だった。
4月10日、陛下と雅子さまは新型コロナウイルス感染症専門家会議の尾身茂副座長を赤坂御所に招き、説明を受けた。その時の写真が、宮内庁から公表された。陛下と尾身さん、雅子さまと尾身さん、等距離に座っていた。尾身さんを頂点にした二等辺三角形になっていて、これが令和流の入り口。そう思った。
少し説明しよう。もし「説明を受けるのは陛下、雅子さまはオブザーバー」であれば、二等辺三角形にはならないはずだ。雅子さまは少し遠い所に座るから、尾身さんと雅子さまを結ぶ線が長くなる。つまり、お二人が対等に説明を受けている。その証が二等辺三角形というわけだ。
陛下と雅子さまには、対等な空気が流れている。そのことを、実は前から気づいていた。きっかけは、2019年11月10日の「祝賀御列の儀」だった。
11万9000人が沿道に集まったパレード。雅子さまは笑顔で手を振り、時に涙をぬぐった。雅子さまの思いが、ひしひしと伝わってきた。だが、お二人の空気感がはっきり伝わってきたのは、パレードではなくその前後だった。
あの日のテレビ中継は、お二人が皇居・宮殿の車寄せに出てくるところから始まった。出発までの数分間の様子も、画面に映った。意外だったのは、お二人が何度か会話を交わしていることだった。陛下が雅子さまに声をかけ、雅子さまは短く返す。そのたびに、顔を合わせるお二人。
上皇陛下と美智子さまが念頭にあった。お二人ならただ前を向き、出発を待ったのではないだろうか。NHKのアナウンサーが、「優しい表情で、会話をされていますね」と言っていた。きっと私と同じように、新鮮さを感じたのだと思う。
会見で詰まった雅子さまへの励まし
愛子さまが誕生したことを振り返り、雅子さまは「生まれてきてありがとう」と述べられた(2001年12月8日撮影)。
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パレードを終えた赤坂御所の車寄せでは、もっぱら雅子さまが話しかけていた。陛下の方に体を寄せ、陛下の返答に納得されたようにうなずきながら戻る。その姿が何回か画面に映った。出発前と違い、雅子さまからアクションを起こしたことに少し驚いた。会話を交わすにしても、声をかけるのは陛下から。そんな思い込みは、やはり上皇さまと美智子さまのイメージがあったからだと思う。
ああ、お二人は対等なのだ。その時、はっきり分かった。
お二人は仲がよく、その関係は対等。だからパレード前は緊張する雅子さまに陛下が声をかけ、パレード後は緊張が解けた雅子さまが陛下に声をかける。お二人の日常はきっとそんな感じだと、勝手に想像した。常に励まし合い、さまざまな場面を乗り越える。お二人は夫婦であると同時に、同じミッションに臨む同僚でもあるのだと思った。
18年前のお二人を思い出した。
愛子さまが生まれて4カ月経った2002年4月、陛下(当時は皇太子さま)と雅子さまは記者会見に臨んだ。その席で雅子さまは、言葉を詰まらせた。今も時々語られる「生まれてきてありがとう」。そこのところで涙ぐみ、途切れた。
再現すると、
「初めてわたくしの胸元に連れてこられる、生まれたての子どもの姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちでいっぱいになりました。今でも……その光景は、はっきりと目に焼き付いています」
「……」が途切れたところだ。
この後、また雅子さまは言葉を詰まらせた。そこで陛下が動いた。雅子さまの背中に左手をあて、トントントンと軽く叩いた。陛下からの励ましで、雅子さまは話を再開した。
雅子さまを追い詰めたもの
皇太子時代、陛下と雅子さまは東日本大震災の被災地などお二人で訪問されてきた(2011年4月6日撮影)。
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この年の12月の誕生日にあたっての会見が、雅子さまにとって最後の会見になっている。翌年の暮れ、雅子さまは帯状疱疹で入院した。それが雅子さまの長い闘病の始まりで、以来、雅子さまは会見を開いていない。「適応障害」という病名が発表されたのは入院から7カ月後。雅子さまは「皇室」という場所に適応しようとし、障害を起こしてしまった。
何が雅子さまを追い詰めたのか。
愛子さま誕生の会見で、雅子さまが言葉を詰まらせたのは、最初の質問「ご懐妊から出産までのお気持ち」に答える途中だった。
お二人への次の質問は、こうだった。
「将来はご自分の体験を踏まえ、敬宮(愛子)さまにもご兄弟、姉妹がいらっしゃった方がよいとお考えでしょうか」
愛子さまが女の子だから、この質問になったと思う。元新聞記者としてのうがった見方かもしれないが、質問の真意は「次は男の子ですよね」だったろう。国民の中にも「男の子でない」ことへの複雑さがあり、それを記者は代弁しただけだと思う。
だが、そのことが雅子さまを傷つけ、追い詰めた。それに気づいていたのは陛下だけだった。これも全て後から分かったことだ。
「内助の功」でなく相談相手
天皇・皇后即位後、初の国賓として迎えたトランプ米大統領夫妻。雅子さまの通訳なしのコミュニケーションが話題に(2019年5月27日撮影)
Carl Court - Pool/Getty Images
令和になってからの雅子さまの活躍ぶりは、改めて書くまでもないだろう。精神科医の斎藤環さんは、「皇后になり、自分の存在感を実感できるようになったのではないか」と分析していた。自分たち、つまり天皇と皇后というものは、いるだけで価値がある存在だと気づいたのだろう。そういう分析だった。
18年前、雅子さまの背中をトントンと叩いた姿を見て、「わー、皇太子さまって、雅子さまを愛してるんだなー」と思った。そして今、思う。愛があったから、雅子さまは病と闘え、令和になり、自分の存在意義を実感できるようになったのだ、と。
だから、ありのままの姿を、国民に見せられるようになった。それが心からの笑顔であり、時に見せる涙だと思う。
2020年2月、陛下は60歳になった。お誕生日にあたっての会見で、雅子さまのことをこう述べた。
「即位以来、忙しい日々を送る中でも、私や愛子にもいろいろと細かく心を配り、活動を支えてくれており、公私にわたり良き相談相手となってくれています」
陛下にとって雅子さまは、「内助の功」の人ではないのだ。相談相手という表現から、対等さと愛情が伝わってくる。
新型コロナウイルスについて尾身副座長から説明を受けた時、雅子さまの前には茶色いペンケースが置いてあった。雅子さまはそこからペンを取り出し、熱心にメモを取ったのだろう。そのメモを見ながら、お二人はこれからのことをいろいろ話したに違いない。
コロナ禍に苛まれる日本、そして世界。そこで皇室はどうあるべきか。話題は、そこまで及んだはずだ。
冒頭に「試練」と書いた。相談しながら、お二人で決めていけば、試練を乗り越える道は見えてくる。その結論を国民が知る日は、遠くはないと思う。
(文・矢部万紀子)
矢部万紀子:1961年生まれ。コラムニスト。1983年朝日新聞社に入社、「AERA」や経済部、「週刊朝日」などに所属。「週刊朝日」で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。「AERA」編集長代理、書籍編集部長を務めた後、2011年退社。シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に。2017年に退社し、フリーに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』。最新刊に『雅子さまの笑顔』。