1981年生まれ。東京大学在学中に村田早耶香、青木健太と「かものはしプロジェクト」を立ち上げ、2004年からカンボジアで「子どもが売られる問題」に取り組む。2012年からはインドでも事業を本格スタート。2019年国際協力NGOセンター理事長に就任。
撮影:伊藤圭
かものはしプロジェクト理事長・本木恵介(38)が社会課題に目を向けたきっかけは、偶然の出会いだった。
初めて将来の職業を具体的に意識したのは、高校1年生の時。たまたま目にしたテレビのバラエティ番組『いつみても波瀾万丈』でロックフェラーを知り、ビジネス界で華やかに活躍する起業家に憧れた。「ビル・ゲイツが見ている世界を見たい」。そんな野心を抱いていた。
経営を学ぼうと一橋大学商学部を志望していたが、高校3年になると哲学に傾倒。「なぜ人は生きているのだろう」と思いに耽る日々を過ごし、東京大学教養学部へ。哲学を深めようと意気込むも、優秀な同級生たちに気後れするうちに、情熱の注ぎ先を失いかけていた。
そんな時に出会ったのが、ベンチャービジネスサークルを立ち上げたばかりだった青木健太。本木も合流し、囲碁をマーケティングするプロジェクトや小中学生向けに環境教育を提供するプロジェクトなど、事業化を目指す活動に打ち込んでいた。
利益の最大化より大きなインパクト
学生サークルから発足した2002年の創業当時。
提供:かものはしプロジェクト
ほどなく、経営コンサルタントの藤沢烈氏(当時はマッキンゼーに勤務。現在は一般社団法人RCF代表理事として社会事業を支援する)の発案で、「社会起業家の卵を育てる」という新たなプロジェクトがスタート。候補となりそうな仲間を探していた矢先、青木がシンポジウム会場で出会った“有望な卵”が、村田早耶香だったのだ。
当時は2002年。ITバブルが崩壊し、急速に脚光を浴びたベンチャーという存在への失望感も広がっていた時期だったが、本木は世の中に新しい価値を出せる「起業」という道に惹かれていた。
村田は、その目で見てきた世界の片隅の悲劇について熱く語った。タイのエイズホスピスで母子感染による病に苦しむ少女に出会ったこと、その少女の母親を奪ったHIVウイルスは児童買春の被害によるものだったこと……。
「児童買春の被害に遭い、未来を選べない子どもたちを1人でも多く救いたい」という村田の思いを聞くうちに、本木は「利益を最大化するビジネスよりも、社会に大きなインパクトを出せる挑戦がここにある」と確信するに至った。
「起業の形にしよう」という誘いに対し、村田が不安を口にすると「まずは3カ月、調査からやってみよう」と話をまとめた。2002年、大学2年の夏が始まる頃だった。
生活の自立を助け児童買春を減らす
2007年、カンボジアで初めて作ったコミュニティ。
提供:かものはしプロジェクト
リサーチの結果、タイよりもカンボジアの状況が深刻であると分かり、本木は青木と共に現地へ向かった。そこでは、12歳、10歳の女児が客の相手をし、「金をはずめば6歳の子も出せる」と説明を受けた。値段は数千円。こんな世界があってはならない、と誓いを固めた。
どうしたらこの深い闇を解決できるのかと、現地の法律や社会情勢を調べ、週に一度はカフェに集まり、事業モデルについて議論を重ねた。期限の3カ月はとっくに過ぎていたが、誰も「やめよう」とは言い出さず、この年の秋には「現地で職業訓練をすることで、生活の自立を助け、児童買春の“供給”を減らす」という事業の方向性が決まった。
具体的には、現地でパソコン教室を立ち上げ、貧困層にITスキルを提供することで経済的自立を支援するというもの。当初は経営の安定のために、寄付や助成に頼らない“自立収益型”のビジネスモデルを構想し、日本でニーズのあるITサービスの販売利益を活動資金に充てる戦略に。
「HTMLコーディング」の請負業務を収益源として、売り上げを伸ばし、経営基盤を徐々に安定させていった。実際にプログラミングを猛勉強し、IT事業を指揮したのは青木であり、本木は戦略を練り上げる“頭脳”の中心的役割を担っていた。
撮影:伊藤圭
経営コンサルティング会社でインターンとして働き、ベンチャーキャピタルから内定ももらっていた本木には、「ビジネスの世界で成功する」という道も拓けていたはずだ。「大金持ちになれたかもしれないのに、どうしてNPOを選んだのか?」と聞かれたことも度々ある。
本木の答えは明快だ。
「大学卒業時にNPOやNGOに進むのか、就職するのかの二択で悩んだ時に、『企業のほうが力をつけられるし、成長できるだろう』と就職を選ぶ人が多いですよね。僕の考えは逆で、『いや、こっちのほうが絶対成長できるでしょう』と確信を持って選びました。
自分たちの志と行動次第で、たくさんの人と深く関わっていけるし、“少数の人がものすごく困っている難しい問題”に挑むほうがやりがいがある。よい社会をつくるために走り続けられる今の自分に満足しているし、純粋にワクワクできるんです」
「ビジネスの世界に行かなかったことを後悔していない」と後に語った本木の言葉に、村田も救われたという。
「本木さんがNPOの世界に深く関わってくれていることに、感謝しています」(村田)
切れ味鋭いナイフから修行僧に
2007年、支援していたカンボジアの農村で。
提供:かものはしプロジェクト
一方で、当時の本木の言動は、現在の穏やかな印象とは少し違うようだ。村田は振り返る。
「頭が良くて分析が鋭くて、仕事も早い。『やる気はあっても、あなたのようにはできない』と訴えても理解してもらえず、期日までに質のいい仕事の報告ができないと詰問される(笑)。正直言って、20代の頃は怖い印象でしたね。例えるなら、切れ味の鋭いジャックナイフのような人でした。それが今は正反対。内省を繰り返して精神を整える修行僧みたいです」
本木を変えたのは、現地での事業に深く関わるようになってからの“挫折”だった。
カンボジアで立ち上げたパソコン教室による職業訓練事業が評価され、2006年には現地NGOと協働で「い草」を使った雑貨工房を立ち上げる「コミュニティファクトリー事業」がスタート。その2年後には、現地NGOとの方針の違いから、より自立支援に特化した独自運営のコミュニティファクトリー事業へと転換。同時期には、現地の警察にデータ分析などの支援を行う取り組みにも着手した。
「来てくれないか」と涙の電話
本木はこの頃から本格的に現地での活動に関わるようになったが、「戦略通りにうまくいかないことの連続」に打ちのめされていた。たまらず、日本に戻っていた青木に電話をかけ、「来てくれないか」と泣きついた。仲間に弱音を吐いたのは、初めてだった。
「リーダーに必要なのは、人を説得するロジカルシンキングやプレゼンテーション能力なのかと思っていました。現に20代の頃の僕はビジネススクールに通い、スキルの習得にばかり目が向いていた。
けれど、本当に必要なのはリーダーとしての内面の成長と、さらなる成熟。自分に足りないものに気付かされました」
かものはしプロジェクトが、自前の事業を基盤に支援を行うモデルから、他団体と連携するモデルへとシフトしていった起点はこの頃だ。
自力に依らず、他力と寄り添い、背伸びせずに高め合っていく。組織としての変容は、この後に本木が遂げるリーダーとしての進化ともどこか重なる。
(敬称略、明日に続く)
(文・宮本恵理子、写真・伊藤圭)
宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。