1981年生まれ。東京大学在学中に村田早耶香、青木健太と「かものはしプロジェクト」を立ち上げ、2004年からカンボジアで「子どもが売られる問題」に取り組む。2012年からはインドでも事業を本格スタート。2019年国際協力NGOセンター理事長に就任。
撮影:伊藤圭
バタン!
たまらず駆け込んだトイレの個室で、かものはしプロジェクト理事長の本木恵介(38)は荒く乱れかけた呼吸をようやく整えた。
とあるスタッフとのミーティング中、強い口調で責められると過呼吸症状が出て、息を整えてから部屋に戻る。そんなことが何度も続いていた。2012年頃の出来事だ。
「攻撃的な言い方をするタイプの人だったので、すごく傷付けられて参ってしまって。でも同時に気付いたんですよね。相手だけが悪いのではないと。僕も過去に同じような傷付け方を、他の人にしていたんじゃないかって。傷つけられることによって、初めて人の痛みを感じられた。
この時から自分を変えたいと強く思うようになりました。コーチングを学び、いろいろな人との関わり方を意識しながら、日々試行錯誤する時期が5、6年続きました」
その後、同じく共同創業者の青木健太が引き継ぐことになったコミュニティファクトリー事業は数年かけて自立へ向かい、2018年にはかものはしプロジェクトから独立。現在はNPO法人SALASUSUとして活動を続けている。
自分の力で使命を果たしたいと、とインドへ
2012年、インドで活動を共にしたパートナー団体との会議の様子。
©Natsuki Yasuda / Dialogue for People
本木は悔しかったはずだ。代表の役目から逃げ出したいと思ったことはないのか? と聞くと、首を横に振った。
「それはないです。むしろ、カンボジアの事業を中途半端にしたまま青木に頼り切ったという罪悪感のほうが強かったです。自分の力で『子どもが売られない社会をつくる』という使命を成し遂げたい。そう思い、インドに行くことを決めたんです」
かものはしプロジェクトは、カンボジアでの事業を継続する傍ら、他地域で取り組むべきテーマを数年かけて調査し、2012年よりインドでの人身売買問題への取り組みを開始。本木はインド事業の責任者として、その中核に立った。
「カンボジアでは自分の戦略どおりに進めることにこだわり過ぎて、現地の関係者と衝突したり、『もっとうまくやれるはずなのに』と葛藤を抱えたりする連続でした。つまり、“大河の一滴”になり切れていなかった。
インドでも戦略をいろいろ持ち込んでみるのですが、優秀でパワーのある団体や専門家がわんさといて、あっという間に飲み込まれそうになる。3年くらい試行錯誤した結果、僕たちは“大河の一滴”になれればいいのだと思えたんです」
「プレイヤーとして貢献」のこだわりを捨てる
2012年、インドで。3人はお互いの成長を見守った戦友だ。
©Natsuki Yasuda / Dialogue for People
では、その一滴にどんなバリュー(価値)を出したらいいのか。
ヒアリングを重ね、主に加害者を適切に処罰するための制度づくりとサバイバー(被害者)の心理回復支援に重点を置く方針は定まっていた。活動するのは、インド最大の人身売買ルートがある地域。そこですでに活動してきたプレイヤーと共に、自分たちは何ができるのか?
本木が導き出した答えの一つは、「資金の提供」だった。カンボジア事業での成果と、この時点で3000人にまで増えていたサポーター会員による寄付。本木は高度な戦略を練り上げるのではなく、シンプルに“今の自分たちが持っているもの”に目を向け、相手にも示すことにした。「プレイヤーとして貢献する」という形へのこだわりを捨てたのだ。
すると、少しずつさまざまな立場のパートナーと連携がうまくいくようになっていったのだという。資金提供者の発言が重みを持つ場では、そのハンドルを押し引きすることで、役割を果たす。
「自分も相手もそのまんまの姿で十分な存在だと受け止める。そのほうが本来の力が解き放たれるのだと分かってきました。人も組織も、それぞれに得意なことや欠点が違って凸凹の関係だけれど、その凸凹がお互いにあることを話し合っていき、関係性を育むことが大事だとインド事業に関わる多様な人々から学びました」
この頃の本木の変化について、共同創業者の青木は「明らかに柔らかい言葉が増えてきた」と証言する。
「『社会はこうあってほしい』とwillをストレートに語るようになったのも、自分の内面を見つめて思いを研ぎ澄ませた結果なのでしょう」(青木)
「分からない」と言えた時、関係が変わる
インドのパートナー団体と。
撮影:Siddhartha Hajra
こうした変化をもたらしたのがインド事業のディレクターである清水友美との経験だ。2012年にインド事業を立ち上げた時から二人三脚で、ぶつかり合いと分かち合いを繰り返しながら事業を進めてきた。
インド事業の飛躍に至った一つのプロジェクトに、イギリスの大型の財団からの1億円規模の資金調達があった。資金調達するかしないかを巡って、2人は対立した。意外と思われるかもしれないが、本木は消極的だった。チームのキャパシティを考えて、新しい財団から資金調達をするのではなく、すでに着手しているプロジェクトに集中するべきだとと考えた。
しかし、本木は考えを変えた。「必ずしも自分は方針には同意しないけれど、清水の挑戦したいという思いを受け入れよう。そして、それを実現するためにはどうすれば良いのか」と知恵を絞り、サポートすることにしたのだ。
「それまでは『自分の主張を認めさせたい』という気持ちがあったのです。自分のほうが正しい、なぜ分からないんだという気持ちです。そしてそれは、『自分の価値を認めてもらいたい』というエゴだったことに気付いたのです」
清水ととことんぶつかることを通じて、否応なく「自分が知らない自分の一側面」や、そして「自分が見たくない自分の嫌な部分」が見えてくる。そして、それらと向き合ってきた。
自分の内面に正面から向き合うことは、本木にとってつらいことだったが、清水は対立するだけではなく、本木が自分自身と向き合うこともサポートしてくれていた。
人として根っこの部分でお互いに尊重し、お互いが成長・成熟するようにサポートし合える。そんな関係性の中で、少しずつ自分自身を受容し、とらわれている思い込みを手放していく。
現地パートナーとの関わり方も変わった。逃げずに、諦めず、誠実に向き合うという姿勢へと。
「自分が有能だと思われなくていいやとプライドを捨てたら、他人の考えを受け入れられるようになって。分からないことは『分からない』と言えた時から、相手との関係性を一段深められるようになりました」
撮影:伊藤圭
かものはしプロジェクトという組織が成長する上でも、メンバー間の対立や衝突があり、今も深刻な対立を抱えているのだという。そんな時は、まずその対立を認めた上で「お互いに怒りや不満の背後にある理由に耳を傾けることが大事」だと考えてきた。
「怒りの奥には、その人が絶対に守りたい願いや欲求がある。その願いを一緒に探して、認め合う。対立している当事者同士だけでは難しいから、周りのメンバーも一緒になって何度も話し合う。そんなプロセスを共有してきたことが、組織の強さにもつながっているのかな」
「昔はもう顔を見たくないと言っていた幹部2人が、今は冗談を言い合って肩を並べて仕事をしているんですけどね」
と、付け加えて笑う本木。
小学生の頃には、対立する女子グループの板挟みになり「どっちも嘘を付いていないよ」と主張し、困惑した時期もあったという。本木の根底に流れるのは、人間に対する平等な愛情なのだろう。
(敬称略、明日に続く)
(文・宮本恵理子、写真・伊藤圭)
宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。