スーツを着ない、自宅からの出社はこれまでと違った就労価値観を与える。
撮影:今村拓馬
「2週間たったけど、入社した感覚がないんですよね。」
今年から新社会人になった知り合いから、こんなメッセージが届いた。
それもそのはずで、4月に行われた入社式に、家でスーツを着てのぞんだあと、研修は全てPC越し。画面の向こう側であまり良く知らない人が一方的に話しているのを、聞いているだけだという。
研修の「裏」では同期とのLINEが飛び交っていて、そちらの声のほうが生っぽくてリアルだと。
ある程度の規模の会社に入社した人は経験があるだろう、あの入社式で皆似たようなスーツを着て整列させられている違和感も、みんなで一緒に聞く訓示も、幸か不幸か、今年(2020年春)はない。
かつて当たり前だった、無意識に今日から組織人としてのアイデンティティを感じるさまざまかつ、ささいなきっかけは、ほとんど全てなくなったのだ。
それはいわゆる新入社員に限った話ではない。不意にリモートワークに切り替わった多くの働く人が、組織人としてのアイデンティティを途端に取り上げられてしまった。
いま思えば、これまでの日常で何気なく目にしていたものや聞こえてきたものは、知らない間に周りから消えた。そして当たり前ゆえに、消えたことも認識するのに時間がかかった。
日本人はなぜ会社名を答えるの?
日本では会社名を答えるが、仕事を聞かれた際職能を答えることが一般的な国もある。
Shutterstock/ESB Professional
例えば、「はい、株式会社〇〇です」という電話対応の声も、名刺交換の際に会社名と自分の名前が同時に視界に入ることも、居酒屋で同じテーブルを囲んでいる人たちの顔ぶれも。
自宅の最寄り駅とオフィスのそれが印字された定期券でさえ、自分が組織人としてどこに属しているか、確認する瞬間だったのかもしれない。
その「瞬間」の積み重ねによって、自分は〇〇会社の〇〇であると自覚していたのだろう。
「日本人は、仕事を聞かれたときになぜ会社名を言うの?」
ある海外の知人から聞かれたことがある。それまで当たり前だと思っていたが、仕事を聞かれてエンジニアだとか、セールスだとか、職能を答えることが一般的な国も多いらしい。
入社すると仕事内容や勤務地が固定されないメンバーシップ型雇用の日本と、職務を明確にして働くジョブ型雇用の欧米諸国との違いが、こういう所に表れているのだろう。
思い出してみると、どんな仕事をしているの?という質問に対して社名を答えるシーンは多い。社名は言わないまでも、「メーカーです」とか「商社です」と答えるのは、こうやって字面にしてみると、やはりそもそも質問に答えていない。
にもかかわらず、このコミュニケーションが成り立っていたのは、仕事をしている自分のアイデンティティの多くが、所属・組織名によって形成されていたからではないだろうか。
何者かになりたいを担保してくれていた「入社」
入社し、所属するという行為はアイデンティティを形成するということでもある。
撮影:竹井俊晴
アイデンティティー問題を助けるのに、これまで会社が大きな存在であったことは「入社」というシーンに、象徴的だ。
就職活動をしている人をみていると、ずっとつきまとっている悩みがある。映画化された小説や、近頃ではキャリア系のインタビュー記事などでもよく見るようになった。「何者かになりたい」もしくは「ならなければいけない」というものだ。
それに対して内定や、入社した瞬間に感じるあの安堵感の正体は、急に「所属」によって、個人として「何者」かは分からずとも、せめて組織人としては「何者」かになれたような感覚を得られるからなのだと思う。
組織への所属を感じることによって、個人としてのアイデンティティが一定担保される。ということをこれまで書いてきた。
オンラインが便利なのは間違いない。
ただおそらく、物理的な集合の価値はどこかにあったのだろう。それはきっと、少なくない数の人たちが、コロナによるリモートワークでなんとなく感じている虚無感の正体なのかもしれない。
「入社した感覚がないんですよね」
冒頭の新社会人のこの言葉は、ここまで書いてきた全てのことを、一言で表している。
長い暗闇の先に期待していたかもしれない、少しだけ何者かになれた感覚を得るすべは、この春にはなかった。
所属を物理的な刺激で感じられなくなった今。アイデンティティを探し求めて「何者」かになろうとする人たちの旅は、続くのだろう。
なんとなくアイデンティティーはもう得られない
働く人のアイデンティティ形成は、自らが築き上げていくものへとシフトしていくのではないだろうか。
撮影:今村拓馬
入社という儀式、職場への出社というかつての習慣を踏んで、なんとなくアイデンティティが形成されるという便利なルートは現在、新型コロナの蔓延により、得られなくなっしまった。
そしてそれは、今後も「元通り」になるとは限らない。
最近、筆者の周囲では、割り切って「せっかくだし今しかできないことを」と、新しいチャレンジをする人が増えている。筆者も仮に元通りになったときに「リモート期間にやっておけばよかったな」と後悔しそうなことを始めている。
忙しさを理由に始められていなかったデザインを始めてみたり、疎遠になりかけていた旧友と話してみたり。意外とそういたアクションを通して、自分がどういう人間なのか、本当は何がしたかったのか、思い出せたりすることに気がついた。
働く人としてのアイデンティティは、入社式や日々のオフィス通勤のような従来のような様式によって与えられるものでは、もはやなくなりつつある。
自分自身を掘り下げた上で、仕事を通じて自らの手で築き上げるものへと、シフトしていく時期がいよいよ来たのではないか。
(文・寺口浩大)
寺口浩大:ワンキャリア 経営企画室 PR Director。1988年兵庫県出身。リーマンショック直後に、三井住友銀行で企業再生、M&A関連業務に従事し、デロイトトーマツグループなどを経て現職。現在は経営企画とパブリックリレーションズ全般に関わる。コラム連載、カンファレンス登壇の他、「#就活をもっと自由に」「#ES公開中」などのソーシャルムーブメントも手掛け、経営と連動したコミュニケーションデザインを実践。