1985年生まれ。有名フレンチレストランでシェフを務めた後、趣味作り始めたチーズケーキが大ヒット。2018年、シェフを辞めて独立。
撮影:鈴木愛子
2018年、都内の有名フレンチのシェフだった田村浩二(34)が手探りで始めたオンラインのみで販売するチーズケーキ「Mr. CHEESECAKE(ミスチー)」。ほとんどの飲食店が新型コロナウイルスの感染拡大で大きな損害を受けている今、田村の活動は影響を受けるどころか、むしろ注文が増えている。
「ビジネスのことは何も知らなかった」という田村はなぜ大人気お菓子ブランドを立ち上げられたのか。
何かに怯えていた、少年時代
畑や漁港も近い、神奈川県の三浦市で田村はのびのびと育った。
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神奈川県三浦市の海からほど近い町で生まれた田村は、サラリーマンの父と専業主婦の母、そして兄と姉がいる家族の末っ子として育った。
今は180センチを超える田村だが、子どもの頃は身体が小さく、「どちらかというといじめられっ子」。いつも人の顔色を伺い、何かに怯えていた。
こだわりが強い母は、おやつに揚げたてドーナッツや焼きたてプリンなどを手作りした。中でも田村がお気に入りだったのは、母が決まって誕生日に焼いてくれたチーズケーキだった。
ケーキがゆっくりと焼きあがるに連れて、居間にふんわりと甘い匂いが広がり、家族がいそいそとごはんの支度をし始める。
「あ、今日は自分のための日なんだな……」
誕生日の食卓、それは自分を丸ごと受け止めてくれる場所。気弱な少年の心は、それだけで満たされるようだった。
貧弱だった田村を変えたのは、小中高時代にのめり込んだ野球だ。
親友の誕生日祝いに贈ったチーズケーキ
大好きだった野球。高校時代には4番バッターを任されたことも。
提供:田村浩二
中学3年間で身長は30センチ伸び、ピッチャーを任された。「理系脳で数字が大好き」という性格も後押しして、栄養学やトレーニング方法の研究に没頭した。高校時代には体重も20キロ増やした。
プロを目指そうと、高校3年の夏休みには大学の野球部にスポーツ推薦で入るためのセレクションを受けるが、結果は惨敗。
一気にすべてのことがどうでもよくなり、無気力に過ごしていた高校最後の夏、親友の誕生日があった。「何を贈ろうか」と考えていた時に、あのチーズケーキを作ろうと思い立ったのだ。母が誕生日に焼いてくれた、あのケーキを。
今まで包丁も握ったことがなかった野球少年は、レシピ本とにらめっこをしながら試作を繰り返した。友人や家族にも「毒味」をしてもらい、何とかケーキを作り上げた。
クラスで友達に渡した時の、その顔が忘れられなかった。こんなにみんな喜んでくれるんだ —— 。
誕生日の食卓と野球が田村をシェフの道へ誘った。
初任給13万5000円の衝撃
「早く一人前になりたい」その一心でがむしゃらに食らいついていた、料理人時代。
提供:田村浩二
「頑固で我が強いのに、どこか自信がない」
高校卒業後、専門学校を経て料理の道に進んだ田村だが、この矛盾した性格のせいか、料理人としての自分のあり方に、どこか居心地の悪さを感じていた。
料理人になった2005年当初は、とにかく忙しかった。男社会で長時間労働。一番つらかったことは? と聞くと「つらいことしかなかった」と苦笑する。
例えば、クルーズ船のパーティーで600人分のディナーを作る日。メニューの中で、豚の血を固めて作るソーセージ「ブーダン・ノワール」を担当した。
豚の血を煮詰めてつくるソーセージ「ブーダン・ノワール」。
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通常のレストランの仕込みが終わった深夜、黒々としたソーセージとの格闘が始まった。オーブンとキッチンカウンターの往復は60回に及んだという。ブーダン・ノワールは微妙な火の調整が味を左右するため、気を抜けば即失敗する。わずかの休憩時間もなく10時間、往復し続けた。そんな日ばかりだった。
さらにショックを受けたのは、シェフの賃金の安さだ。田村の初任給は当時、13万5000円。残業代も休日手当ても有給休暇も存在しない。2年目からはレストランに近い南麻布に引っ越したため、5畳一間でも家賃は7万円もした。コンビニバイトに転職しようかと本気で悩んだ時もあったという。
2015(平成27)年度に厚生労働省が発表した賃金構造基本統計調査によると、調理師見習いの平均年収は263万円。20代の若手ならば月給10万円代は珍しくない額だ。
シェフ時代の労働環境が厳しかったことを、田村は隠さない。それは何より、当時の自分にこの業界について客観的に知っていてほしかった、という思いがあるからだ。
「ちょっと外を見れば、この業界やばくない? って思う人もいるかもしれない。技術が身についた後にそれを知るのと、初めから知った上で修業として頑張って働くのって全然違うと思うんで」
「コンビニで名店の味」は邪道か
「コンビニで買えるシェフの味」は珍しくないけれど ……。
撮影:西山里緒
このままじゃダメだ、でもどうすれば? 20代、田村は考えてもその答えを見つけられずにいた。けれど振り返れば、「料理をつくる道」以外の働き方のヒントは、すでに先輩シェフたちから与えられていた。
田村が働いたレストランのシェフは皆、それぞれの特性を活かして副業をしていた。「●●シェフが監修したパスタ」「高級フレンチの味を自宅でも」……。コンビニやスーパーでそううたうレトルト商品は今や珍しくない。シェフ業界ではそういった「名前貸し」の副業は当たり前だという。
「金稼ぎに走ったなって思われるし、僕も思っていました。こういうのってメーカー側がいくつか味を提供して、シェフは選ぶだけのことも多い。だからおいしくないものも出てしまうし、ブランドも毀損されてしまう」
そんな田村の考えを覆したのが、最初に修業を積んだレストランの師匠が、ある大手食品メーカーと共同で開発していた、カレーやスープの味に触れたときだった。
味に厳しいことで有名だったその師匠は、自分の名を冠した商品が出るとなれば塩分0.1%の細かさにまでこだわった。10種類以上の試作品を作り、企業とやり取りを繰り返し、その味がデータ化され、大量生産される。そのプロセスに衝撃を受けた。
「味覚って、それだけでビジネスになるんだ」
料理を作るというシェフの仕事しか知らなかった田村にとって、それは新鮮な驚きだった。
その後に出会った先輩シェフたちも「表立っては言わないけれど」副業をしていた。広尾のイタリア料理シェフは「愛されキャラ」を活かして、テレビ出演を。そして表参道での先輩シェフは、レシピづくりとマニュアル化が得意だったので、デリカテッセンの開発を。
「みんな神経質というか、数字に細かい。そして、アートではなくビジネスとして、レストランを見ていた」
彼らの共通点について、田村はこう語る。
そうしたシェフとの出会いが、田村の「厨房で料理を作る」以外の自分の個性の活かし方を目覚めさせていく。
「分かる人にしか分からない」でいいの?
フランスでの修業時代、仲間たちと。
提供:田村浩二
それでも田村の「とにかく料理人として認められたい」という一心は揺るがなかった。六本木・乃木坂・表参道など、ミシュラン星付きレストランで修業を積んだ後、南フランスで半年、パリで半年、本場のフレンチを学んだ。
撮影:鈴木愛子
帰国後も、フレンチシェフとして順風満帆なキャリアを歩むはずだった。しかし、ミシュランと並ぶレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ(2018年度版)」で「期待の若手賞」を獲った時、ふつふつと感じていた違和感が拭い切れないものになってしまう。
「自分は変わらないのに、周りの扱いがガラッと変わってしまったように感じたんです」
賞を取って業界で名前が知られるようになると、食の専門誌のライターや舌の肥えた人々の来店が増え、期待値も上がる。レシピもより細かい改良が求められるようになり、知らず知らずのうちにそうした食通たちの評価を気にするようになっていた。
自分はどんな人でも喜んでもらえるものを作るために、料理人になったのではなかったか? モヤモヤした想いの中でふと思い出したのが、自分が料理人になるきっかけともなったチーズケーキだった。
(敬称略、明日に続く)
(文・西山里緒、写真・鈴木愛子)