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ポストコロナ時代の新たな指針、「ニューノーマル」とは何か。各界の有識者にインタビューをしていくシリーズ。
5回目は、思想家であり出版社「ゲンロン」の創業者でもある東浩紀さん。東さんは緊急事態宣言下で、社会がパニックになり「自粛=絶対善」になってしまったことが大きな問題だったと振り返ります。コロナ禍から私たちが学ぶべき教訓とは。
思想家の東浩紀さんは「感染予防=絶対善」となってしまうことに警鐘を鳴らす。その真意とは?
撮影:西山里緒
—— 新型コロナ禍が引き起こしたさまざまな問題の中で、一番危機感を感じたことは何ですか。
社会はどうあるべきか? の大きな議論がまったくないまま、とりあえず自粛だオンライン化だという言説が大きくなり過ぎたことです。
失望したのは、それに対抗する言論がリベラルから出てこなかったことです。むしろネオリベと呼ばれる堀江貴文さんや保守派の小林よしのりさんが自粛に反対していた。
けれど、本来リベラルが追求すべき自由や平等という観点から、今回の「自粛要請」(この言葉も語義矛盾だと言われていますが)には大きな問題があったと考えています。
—— どういうことでしょうか。
まずは、オンライン化が引き起こす格差の問題があります。SNS上ではコロナ禍を機にオンライン化を推し進めようという機運が一気に高まりましたよね。
ただ「仕事をオンライン化できる」人たちは社会のごくごく一部です。かつて経済学者のリチャード・フロリダが定義した「クリエイティブ・クラス(知識労働者)」と呼ばれる人たちですね。
1990年代に「ネットがあればみんな金持ちで平等になれる」という楽観的な言説が、シリコンバレーの位置する場所から取って、カリフォルニア・イデオロギーと呼ばれました。
今の「ネットがあれば接触のリスクを避けながら安全な社会を維持できる」というユートピア的な幻想は、コロナ・イデオロギーとも言えると思います。
当然ながら、オンラインのみで社会は維持できません。医療従事者、保育士、教員、ごみ収集の人たちや運送業に携わる人など、実際のインフラを支える多くの人はオンラインでは仕事ができないからです。
—— オンラインでは代替できない仕事をする人たちは、エッセンシャル・ワーカーとも呼ばれ、認知が高まりました。
確かにそれは良いことだと思います。けれど「感謝しましょう」とか言っているだけではダメで、(今エッセンシャル・ワーカーが抱えている)リスクをみんなで共有しながら、社会全体としてどう生きていくのか? の議論をしていかなければならない。
つまりゼロリスクを追い求めて「オンライン化すれば何とかなる」と叫ぶことは、現実から目を背けているにすぎない。それは社会を分断し、格差の拡大につながるのです。
コロナ禍でリスクを負った「エッセンシャル・ワーカー」たちに「感謝するだけ」になっていないか?
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—— クリエイティブ・クラス(IT企業)で働いている20代の一人としては、「コロナ・イデオロギー」でハンコや満員電車などの昭和的なムダ仕事から解放されようという動きには素朴に同調してしまいました。
もちろんハンコも満員電車もなくなればいいと思う。ただ、日本ではそういうものこそなくならない気もしますが(笑)。
僕の経験上、20代ってオンラインで何でもできそうな気がする年代なんです。多くの人が一人暮らしで、体も健康で経済的にも自立している。世話をするべき子どもも年老いた親もいない。本はアマゾンで買えばいいし、メシもUber Eatsでいいじゃん! と。
実感としてそれはよく分かるんですが、社会は20代だけでできているわけではない。
家族と住んでいて家で働くなら、単純に考えて家を大きくしなければならず、お金がかかります。小学校低学年の子どもがいれば、オンライン授業が意味をなさないことは自明でしょう。ステイホームといっても、DVなどで家にいられない人もいるかもしれない。
若くて独身でIT企業で働いていたらオンライン化しても何とかなるかもしれない。でも社会はそれだけじゃない、多様な人が暮らしているんだという想像力が自粛下では欠けていたように思います。
—— 緊急事態宣言下では、ビジョンの話よりもとりあえず感染予防! となってしまったことには同意します。「個人の自由」という観点からはどんな問題があったでしょうか。
監視社会や個人のプライバシーの問題が、感染予防の名の下にかき消された。それに知識人が表立って誰も抵抗しなかったことは、禍根を残していくでしょう。
フランスの哲学者、ミシェル・フーコーが提唱した「生権力」という概念があります。
生権力とは、国家が人々をまるで「家畜の群れ」のように管理して生かそうとすることです。一見人を生かしてくれるならいいじゃないかと思うかもしれませんが、この群れを管理するロジックは、一人ひとりの個人に対しては非常に残酷になる場合がある。
例えば、出産や妊娠の例が分かりやすい。高齢の人は出産リスクが高いという医学的な統計データはあります。群れのロジックとしては出産しない方がいい、だからといって特定の個人に「あなたは高齢で高リスクだから出産しないでください」と言えるのか。これはすごく暴力的なことでしょう。
つまり群れ(統計)としては正しくても、個人に当てはめてはいけないことがあるのです。統計と個人の違いとは何か、そこに権利や自由といった概念が生まれてくる。
韓国・ソウルの繁華街、梨泰院では5月に集団感染が起こった(写真は2019年のもの)。
撮影:西山里緒
—— 新型コロナ禍でも、全体(群れ)としては感染予防をすべきでも、それを個人がどう行動すべきか、にそのまま当てはめてはいけない、ということですね。
5月には、自粛ムードから明けた韓国の梨泰院でクラスターが発生しました。発生源がゲイクラブであったことから、本人が名乗り出ずに感染者の追跡が難しかったと報じられています。
たとえ感染者を追跡することが群れの論理としては正しくても、個人のプライバシーという観点に立てば、名乗り出ない人の自由は守られるべきです。
さらに言えば、統計上のデータが個人攻撃に暴走しないように、マスコミも識者も注意してメッセージを発しなければならないのです。
—— 国家が個人を生かそうと管理する「生権力」の話は興味深いです。一方で日本では、国の暴走よりSNSの相互監視による同調圧力が強かったのでは?
グローバルで見れば「生権力」がモバイルテクノロジーと結びついてさらに強力になったことは確かです。
けれど日本はそもそも、住基ネット(住民基本台帳の情報をネットワークに上げたシステムのこと)にも反対していた国です。一律10万円の配布すらもスムーズに進まない。国家による市民監視は他国に比べて全然進んでいないんですよね。
日本では代わりに、河原でのバーベキューやパチンコなど、そもそも気に入らなかったものに対してSNSで血祭りに上げ、これを機につぶしていくぞ! という流れが起きましたね。
河原でのバーベキューは感染拡大にほとんど関係しないはずです。感染経路を見れば分かることですが、SNSによって増幅された社会パニックで冷静な議論ができなくなった。
—— とはいえ、SNSを通じた社会パニックを抑えるにはどうすれば良いのでしょうか?
まず「数字のひとり歩きに気をつける」ことですね。
例えば北海道大学の西浦博教授が言い始めた「接触8割減」。彼はTwitterを開設して「8割おじさん」と自分でも言っていたわけですが、その8割という数字にどれだけ根拠があるのか? そもそも接触とは何なのか? 接触が8割減るとはどういう状態か?
現実を数値化するのはすごく大変なことで、慎重に進めなければいけないのに、あの「8」という数字だけがひとり歩きしてしまった。
経済学者の安田洋祐さんも指摘していましたが、人と人との接触を8割減らすことは「人出を8割減らすこと」ではない。しかし、多くの人が8割減という目標が「人出」だと誤解してしまった。
マスコミにも責任はあります。NTTドコモが発表した「ビッグデータっぽいもの」に飛びついては、駅の風景を撮影して「品川駅は今日は密です!」「新宿駅は今日は79.4%減です!」とかやっていた。
「8割減」のことを人出だとみんな勘違いしていた?
撮影:竹井俊晴
もともと感染症を減らすことが目標だったはずなのに、いつの間にか「接触8割減」が「人出8割減」になり、それが社会全体の目標だったかのようになってしまった。
数字は一度出すと、その数字が何の現実と関係していたかを忘れてひとり歩きしていく。これは識者やメディアが分かっておくべきことでしょう。
—— クリエイティブ・クラスに限った話もさせてください。東さんの哲学の大きなテーマに「偶然性(誤配)」があり、人が創造的になるためには偶然性が必要だ、と言っています。結局オンラインでは偶然性は生まれないのでしょうか。
そうですね……。僕は「ゲンロン」というリアルな場での討論会や教室と、ニコ生などを通じたオンライン空間での配信をずっと続けています。それはリアルだけでもネットだけでも、考えが硬直していくからです。僕は両者の往復こそが偶然性を生むと考えています。
本との出合いでいえば、アマゾンでは偶然性は生まれなさそうだ、は何となく分かりますよね。レコメンデーションで自分の好きそうな本しか表示されないから。だからといってリアルな本屋に行けばいいわけでもない。結局自分の興味のある棚にしか行かなくなるからです。
それよりも例えば、気になる本を探しに本屋に行って、そこで見つけて気になった言葉をグーグルで検索して、それをたどって別の本棚へ行ってしまうような……。
つまり「偶然性」には、オフラインとオンラインという異なる時間の軸が混ざることで、硬直した情報の流れが“撹乱”されることが必要なのです。
—— 情報の撹乱……。確かに、コロナ禍では見る情報ソースがすごく限定的になりました。
人との出会いにしても同じです。
偶然性を生み出すためには、別のモードで生きている人たちが、いろんなリズムで一緒にいることで、情報が撹乱されている状態が必要なわけです。気の合わない人や考えの合わない人でも「一緒にいてしまっている」状態というか。
実はかつてのTwitterのいいところはそういうところだったんですが……。
—— 偶然性で言うと、オンラインでは雑談からアイデアを着想する的なことはしづらいですよね。「Zoom飲み」や「ランチタイムチャット」で雑談の時間をつくろうとする会社も多いですが……。
そうですね。ただ、僕もその一人ですが、Zoomのカメラを目の前にしてベラベラしゃべれるというのはかなりの特殊能力であるということも知っておくべきですね(笑)。
「飲み会で黙ってそこにいる人」の存在がオンラインでは知られづらい。さらに言えば、Zoom飲みを続けたとしても、そこにいる人が固定されてしまえば、同じ人とずっとつるんでいるだけだから考えは固定されてしまう。
やはり、オンラインだけで実現し得ないことってすごく多いんです。
Zoom飲みも、人が固定されてしまえば考えは硬直していく。
画像:小林優多郎
—— 他にどんなことがあるでしょうか。
オンラインだけでできる仕事でも、チームで開発を集中してガーッとやったり、トラブル対応が必要となるときは、オフィスがないことは致命的になると思います。今だけ近くのファミレスに行って会議しよう、と言ってできるのか。
クリエイティブな仕事でいうと、いま新聞やテレビの報道力や調査力も落ちています。自粛下ではオンラインで手に入る情報の編集が中心にならざるを得ませんが、大事なことをやっている人の多くはSNSで発信をしていません。
端的に言えば「オンラインが向いている仕事」「対面でやった方がいい仕事」ははっきりとある。全部オンラインでできるという人は、それが見えてないだけだと思います。
—— 緊急事態宣言が解除された後、私たちが考えるべきことは何でしょうか。
人出が増えれば、新規感染者数は増えるでしょう。
しかし指数関数的な伸びでない限り、対処はできるはずです。増えても仕方がないねと、社会のコンセンサスを取っていかなければいけない。パニックが繰り返し起こって、都市封鎖だ自粛だとなれば混乱はさらに深まります。経済への打撃もますます大きくなってくる。
感染予防を絶対善とするのではなく、それによって切り捨てられるものをこそ考えていく。それは生きることのリスクに向き合い、社会はどうあるべきか? のビジョンを考えることにほかならないのです(後編に続く)。
(聞き手・構成、西山里緒)
東浩紀(あずま・ひろき):1971年生まれ。哲学者・作家。株式会社ゲンロン前代表、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『ゲンロン0観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』『テーマパーク化する地球』他多数。4月に『新対話篇』『哲学の誤配』の2冊をゲンロンより同時発売。