緊急事態宣言も解除され、シマオの周りも少しずつ日常に戻ってきた。自粛期間中は、誰とも会えずふさぎ込んでいたシマオは、外に出ること、人と話すことが、いかに自分自身を支えるのに必要なことかを実感した。
家にこもる期間が長ければ長いほど、精神的なダメージは大きくなる。シマオはその理由を知りたく、佐藤優さんに連絡を取った。
「自粛疲れ」に、宗教が与えてくれる安慰とは
シマオ:ようやく緊急事態宣言も解除されて、ほんの少しですが日常が戻ってきた感じですね。
佐藤さん:そうですね。しかし、新型コロナウイルスの脅威が終息したわけではありません。まだまだ油断できないですよ。シマオ君は、最近はどうしてますか?
シマオ:先日、久しぶりに出社したんですが、人と面と向かって話すと、やっぱり気分がいいですね。テレワークは通勤しなくていいから楽だったけど、ずっと家にいると、なんか気が滅入ってきました。「自粛疲れ」だったのかな……。
佐藤さん:「家にこもる」というのは、身体的だけではなく、内面的にも大きな影響を与えるものなんですよ。今、SNSで問題となっている誹謗中傷に関しても、自粛による閉塞感が関係していると、私は見ています。
シマオ:自粛のストレスが、バッシングに向かってしまうということですか?
佐藤さん:そうです。以前もお話しましたが、検察庁法改正へ反対する動きなど、最近SNS上ではハッシュタグ(#)を付けて盛り上がることが増えています。もちろん、個々の人が声を上げるのは民主主義社会での当然の権利です。しかし、一つの方向になだれ込む背景にある心理は、誹謗中傷問題と同じだと思いますよ。
シマオ:物理的に外に出られなくなったことが、精神にも同じような作用をもたらすということですね。
佐藤さん:内面に溜まった不安は、何らかのはけ口を見つけないといけません。これまでは人と話したり、買い物や旅行をしたりして、少しずつ外に出していました。けれど、コロナの影響で現実の「外」には出ることができなくなってしまったわけです。
シマオ:だから、バーチャルな「外」であるネット空間に吐き出している。でも、それってなんだか不健全ですよね……。他にいい方法はないんでしょうか?
佐藤さん:伝統的にその役割を担っていたのが宗教なんです。
シマオ:宗教? 正直、縁遠すぎてあまりピンときません……。
佐藤さん:不安というのは内に向かいます。内面のキャパシティを超えてしまうと、耐え切れなくなって爆発してしまう。キリスト教でもイスラム教でも仏教でも、伝統的な宗教の役割の一つは、その「爆発」を抑えるということなんです。
シマオ:なるほど……。けど、僕は特に何か宗教を信仰しているわけじゃないですし、恐らく日本人の多くがそうなんじゃないでしょうか。
佐藤さん:特定の宗教に入信していなくても、いろいろな形で「信仰」は私たちの生活に入り込んでいます。何千万年も前から伝わってきた宗教というのは、歴史を動かしてきた人間の思惟、その元となる普遍的真理を教えてくれるもの。その意味でも、宗教から学べることはたくさんあるはずですよ。
古来から人間は苦難を前にすると、超越的な存在を求め祈ってきた。無宗教な人が多いといえど、人間の生活に宗教は深く影響している。
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宗教は「救い」の集合知
シマオ:佐藤さんはキリスト教に関する本もたくさん書いてますが、小さい頃からクリスチャンだったんですか?
佐藤さん:はい。母親が信者でしたから、その影響です。
シマオ:初歩的な質問なんですけど、キリスト教と言っても宗派はいろいろありますよね?
佐藤さん:大きく分ければ、カトリックとプロテスタント、それに東方正教会があります。私が所属する日本基督(キリスト)教団は、プロテスタントになります。
シマオ:ふむふむ……。なんか世界史の授業で習ったのを、少し思い出しました。佐藤さんは、その中でプロテスタントを選んだということですか?
佐藤さん:いえ、これも母親がそうだったからです。宗教に入るというのは「決断」ではなく「感化」なんですよ。
シマオ:どういうことでしょう?
佐藤さん:宗教は、食堂に入って「天丼と親子丼とかつ丼のどれがいいか」と、メニューを見て選ぶようなものではありません。「仏教にしようかな、キリスト教かな? いや、イスラム教も悪くない」と自らの意志で信心は決めるものではないのです。近所にある牛丼屋がおいしいと思ったら、その牛丼屋に通い続ける。それが、決断ではなく感化ということです。
シマオ:つまり、環境によって決まる、と。
佐藤さん:信仰というのは、ある宗教に自分で近づくことではなく、向こうからやってくるのを待つものなんですよ。そもそも、生きていて何も問題がなければ、宗教は必要ありません。でも、人生には自分の力では解決できない苦難が待ち受けています。事故や事件、災害、大病などは本人がどう頑張ったところで避けられるものではありません。
シマオ:そんな時は、まさに「神のみぞ知る」といった状況ですものね。
佐藤さん:あなたたちの世代で言えば、恋愛や結婚、就職なんかもそうかもしれません。自分の努力ではどうにもできない不条理さ、どんなに善行を積んだとしても降りかかる理不尽さを目の前にした時、どのようにそれを受け入れるかを宗教は説いてくれるのです。
シマオ:確かに今回の新型コロナなんかは、起こってしまったことに対し、僕たちはどうすることもできませんよね。
佐藤さん:そういう時、キリスト教だったら「人は生まれながらにして罪を犯している」という「原罪」という考え方が、ある種の納得を与えてくれるのです。
シマオ:原罪?
佐藤さん:はい。キリスト教では、人間はもともと罪を犯してしまう存在として捉えられています。つまり性悪説ということです。人間とは善に焦がれながらも「悪」に傾いてしまう性質である。だから自分に内在している「悪」や「罪」を自覚して、さまざまな試練に遭遇した時もその運命を受け入れる覚悟を持つ、ということです。
シマオ:もともと罪を背負っている……。急に宗教的になりましたね。
佐藤さん:仏教だったら、「業(ごう)と因果」という考え方で現実を理解します。業とはインドの言葉の「カルマ」に由来していまして、「行為」という意味です。シマオ君の善い行いも悪い行いも、すべてがシマオ君の運命を形作っている。
シマオ:因果応報というやつですね。
佐藤さん:そうです。ここが仏教とキリスト教との大きな違いなのですが、キリスト教は逆にすべてが神によって決められていると考えられています。ですので、人間は自分の運命を自分で変えることができない。ある種の諦観を持つことが信心には必要なのです。
シマオ:逆境の乗り越え方も宗教の考え方によって、全く違うんですね。
佐藤さん:はい。人間の力ではどうにもならないことが起きた時は、やりきれない気持ちになりますよね。その絶望感を宗教は和らげてくれます。だからこそ、私は、この新型コロナの時代に、宗教や信仰心が見直される可能性があると思っています。宗教、特に伝統宗教というのは、人が苦しみから何とか逃れるための歴史的な集合知なんですよ。
シマオ:集合知……。
佐藤さん:キリスト教の原罪の話で言えば、人間は自分の罪を自覚することによって、他人にも寛容でいられます。しかし今はSNSなどで、自分の罪や悪の存在を棚に上げて、人の罪ばかりを集中的に攻撃する人が多く見られます。自分を正義だと思ってしまった時点で態度が驕傲(きょうごう)となり、自分の罪を罪だと思わず、平気で人を傷付けるのです。
シマオ:痛ましい事件が多いですよね。
佐藤さん:キリスト教的価値観で言えば、自分の罪を認識せず、人を裁くことは悪行です。ましてや顔や名前が分からないネットの世界では、人が人を裁くなんてことは絶対にすべきではないというのが私の意見です。
誰しもが罪を抱えて生きている。この「原罪」を忘れた時、ひとりよがりの正義感は暴走すると、佐藤さんは言う。
『聖書』に書かれた信仰の本質
シマオ:ところで、『聖書』は世界最大のベストセラーなんて言われたりしますけど、僕はほとんど読んだことがありません。やっぱり読んでおいたほうがいいんでしょうか?
佐藤さん:そうですね。ヨーロッパの文化を理解するうえでは、ある程度知っておいて損はないと思いますよ。例えば、シマオ君は「最後の晩餐」を知っていますか?
シマオ:キリストが十字架にかけられる前の、弟子たちとの最後の食事のことですね。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名です。
佐藤さん:その食事の後、一番弟子のペテロがイエスに「あなたのためなら命も捨てます」と言ったのに対して、イエスは「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」と答えます。
シマオ:今晩中に裏切るだろうと予言するんですね。
佐藤さん:その晩、有名なユダの裏切りでイエスが捕らえられると、ペテロは他の弟子たちと逃げ出してしまいます。そして、周囲の人にイエスと一緒にいただろうと問われると、予言通り3度否定してしまい、ペテロはさめざめと泣いたと聖書には書かれています。
シマオ:弟子たちの信仰心が弱いということを、責めているんでしょうか?
佐藤さん:いえ、そうではないんです。実はその前にイエスはペテロに対して、あなたは一度離れるけれどまた戻ってくる、と言っているんです。
シマオ:イエスは最初から分かっていたんですね。
佐藤さん:結局、その後イエスが十字架にかけられて、人のために罪を背負って死に、さらに復活したのを見て、ペテロは信仰を新たにします。それが、先ほど言ったような「感化」されるということなんです。信仰心は、自分一人の力で得られるものではないのです。自分の意志ではなく、その時自分を取り巻く環境が信仰を自ずと求めるのです。
人生は理不尽だなものだと知り生きていく
シマオ:なるほど……。ちなみに、佐藤さんが苦しい時に思い出す聖書のお話とかはありますか?
佐藤さん:旧約聖書に「ヨブ記」という書があります。キリスト教徒は—— 旧約なのでユダヤ教徒もですが —— 危機に直面すると、この「ヨブ記」を読むんです。
シマオ:どんな内容なんでしょう。
佐藤さん:主人公のヨブは非常に正しい生き方をして、神様(ヤハウェ)をあつく信仰していました。ある時、サタンが神様に次のように提案します。ヨブの信仰は、神様が家族や財産を守ってくれるからで、それを奪えば神様のことを呪いますよ。だから、あいつのものを奪ってごらんなさい、と。
シマオ:神様はそんなこと認めませんよね。
佐藤さん:それが、神様はヨブを信頼していますから、サタンの提案を受け入れます。すべて奪ってよいが、ヨブの命だけは奪うなと言うのです。
シマオ:ええっ⁉
佐藤さん:それでサタンは、ヨブの財産や子どもたちの命を奪い、ヨブ本人は体中に腫れものができてしまいます。けれど、ヨブは神様を呪いません。
シマオ:ひどい……。ヨブは何も悪くないのに。
佐藤さん:そうです。でも、それを見た友人たちは言います。神様が、何もしていないのに罰を下すはずはない。だとすれば、ヨブは何か悪いことをしたんだろう。それに対して、ヨブは「私は悪いことをしていない」と譲らず、神様と話をさせてくれと訴えます。
シマオ:神様と直談判……なんて、できませんよね?
佐藤さん:いや、そこに神様が現れるんですよ。ものすごく単純化して言えば、「おまえに神の何が分かるんだ? 答えてみろ」というわけです。もちろんヨブは打ちのめされて、悔い改める。すると神様は、ヨブから奪ったものをむしろ増やして返してくれた、というお話です。
シマオ:どうも僕には、神様が理不尽だとしか思えないんですが……。
佐藤さん:そうですね。キリスト教の神は、人間の基準からすると理不尽なのです。だから、この「ヨブ記」はどう解釈すべきか、昔から議論されてきました。いろいろな考え方はありますが、重要なのは、人生には理不尽な苦難が付き物だということです。そこに理由なんてないし、自分のできることは限られています。私達は不条理な世界を受け入れ生きていく。これこそが人生なんです。
シマオ:確かに、生まれて死ぬということ自体、人が自分でどうにかできることではないですよね……。
佐藤さん:それでも何とかやっていけると思わなければ、生きていくのがつらくなってしまいます。そう思えるためのきっかけに、宗教的な知恵は役立つのだと思いますよ。
※本連載の第18回は、6月10日(水)を予定しています 。
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。2019年6月執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的に言論活動を展開している。
(構成・高田秀樹、撮影・竹井俊晴、イラスト・iziz、編集・松田祐子)