天安門事件の31周年にあたる2020年6月4日、香港のビクトリア公園には数千人の市民が集まった。犠牲者を追悼すると同時に、国安法にも反対した(6月4日撮影)。
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米中攻防の舞台になってきた香港情勢の潮目が変わりつつある。
中国が国家安全法(国安法)導入を発表すると、メディアは抗議行動の再燃を予測した。しかし、中国批判の急先鋒であるアメリカでは反差別抗議デモが拡大し、トランプ大統領は火消しに必死。経済の先行きを不安視する香港では「運動疲れ」も手伝い「安定バネ」が働くなど、大規模抗議活動の再現を抑制する動きもある。
コロナパンデミックが世界を覆った5カ月で、状況は様変わりした。
天安門事件(1989年6月4日)31周年にあたる2020年6月4日は、国安法導入発表を受けた最初の節目の日で、抗議活動の今後を占う「リトマス試験紙」だった。香港島のビクトリア公園には、集会禁止措置を無視し数千人の市民がロウソクを手に集まり犠牲者を追悼、国安法に反対する集会を平和的に開き、警察も排除を控えた。
香港では今後も「100万人デモ」(6月9日)1周年をはじめ、「200万人デモ」(6月16日)、香港返還23周年(7月1日)など、「記念日」が控える。香港政府は新型コロナ感染防止対策として、6月4日まで設定していた「集会禁止措置」を18日まで延長しており、9日と16日の大規模デモは不発に終わりそうだ。
香港どころではないトランプ
ジョージ・フロイド氏殺害事件を引き金に、反人種差別デモが全米に広がっている(マサチューセッツ州ボストンで6月7日撮影)。
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潮目が変わった背景には3つの要因がある。
第1は、香港の民主派にとって頼みのトランプ米政権は、黒人暴行死に抗議するデモが全米で広がったことで、香港問題に介入する余裕がなくなった。米中貿易戦をはじめとする米中対立と「新冷戦」イニシアチブは、大統領再選を有利に展開することに主眼があった。台湾も香港もコロナ発生源問題もすべてそのカードだ。足元に火がつけばカードは捨てる。それがトランプ流儀だ。
デマだらけのトランプ氏に頼らざるを得ないところに香港民主派の「悲喜劇」がある。大統領は、長期化する全米抗議デモを「暴動」と規定、デモ鎮圧に米軍投入をちらつかせた。中国からすぐ「二枚舌」と批判され、エスパー国防長官も軍動員をしないと公言、政権中枢の亀裂をさらけ出した。
人権外交は失敗の歴史
一時はデモに対して軍の出動をチラつかせていたトランプ氏。その姿勢に政権内部からも批判が起きている。
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トランプ氏は、「中国に配慮した」結果、新型コロナウイルスへの対応が遅れたことを批判し、世界保健機関(WHO)離脱も宣言した。しかし、賛同したのは、台湾の蔡英文政権ぐらいで、日本を含め主要国は反対の立場だ。ユネスコ、パリ協定、TPPなど次々に国際協調枠組みから離脱したトランプ氏に、独自の衛生組織を創設する気などない。
香港の抗議活動が高揚する中、香港独立を叫ぶ民主派の一部は「星条旗」を掲げた。しかし香港問題が中国叩きのカードに過ぎないことが分かれば、トランプ政権を頼りにしてきた「寒々しさ」を噛みしめることだろう。アメリカの人権外交の歴史と「死屍累々」の結末から学ぶことは多い。
アメリカは、天安門事件では欧州諸国とともに「人権・民主カード」を切り、対中制裁を課した。だが中国は目覚ましい経済成長を遂げ、一党支配をむしろ強化した。北朝鮮、イラン制裁も成果を挙げていない。リビア、エジプトなど中東諸国に対しては「ジャスミン革命」を背後から操った。しかし欧米の民主システムは根付かず、これらの国では内戦と内紛が絶えず流血が続く。
「最優先は国際金融センターの地位」
飲食店ではソーシャルディスタンスを確保するために席の一部をしよう不可にして営業を再開。どの国でも、経済の再開と感染拡大防止の両立という難しい舵取りを迫られている(4月2日、香港で撮影)。
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2つ目の要因は、経済界を中心に香港で「安定バネ」が起動し始めた。激しい抗議運動で香港経済は深刻な打撃を受け、2019年の域内総生産(GDP)は1.2%減でリーマンショック以来初のマイナス成長。2020年第1四半期は、コロナ禍の中でマイナス8.9%と統計開始以来の最悪を記録した。
アメリカの対中制裁は、本来の目的とは逆に香港経済にとって「毒薬」になる。なぜなら1992年の「香港政策法」に基づく関税と査証(ビザ)の優遇を撤回すれば、中国と欧米経済の窓口だった「金融・貿易センター」の地位は間違いなく後退する。アメリカと香港経済を切り離す「デカップリング」と言ってもいい。
制裁の脅しは、香港経済界を中心に「安定」を求めるベクトルを喚起させた。
「香港の支配層は今、騒乱を食い止めて国際金融センターとしての地位を守ることが最優先」と書くのは経済紙「フィナンシャルタイムズ」だ。
記事は、香港金融管理局(中央銀行)初代総裁を務めた任志剛氏の「(国家安全法によって)香港社会は安定に引き戻され、香港で不安なく国際金融活動が継続されることになる」とのコメントを引用した。ジャッキー・チェンら2000人を超える香港の芸能関係者が、5月末に国安法支持を表明したのも、本土市場からの締め出しを恐れているからだろう。
「抗議」から「逃走」へ
昨年の抗議デモでは、デモ隊の一部が過激化、多くの施設などを破壊し、多くの逮捕者を出した(2019年11月17日撮影)。
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昨年の抗議デモの当初には、多くの経営者や幹部がデモ隊への共感を示し、金融の中心部、セントラル地区の抗議活動には、多くの銀行員がデモに加わった。今回、アメリカが対中制裁をちらつかせると、金融センターとしての地位を支えてきた香港ドルと米ドルをリンクさせる「ペッグ制」が見直されるとの観測から、香港の外貨交換所には香港ドルを売り、米ドルに換える市民の列ができた。
列に並んだある女性は「銀行には預金しません。タンス預金ですね」と香港メディアに答えた。
香港の有料華字紙「明報」の5月下旬の世論調査では、「海外移住を検討」という回答が37.2%に上った。香港返還直前の「移民潮」の再現である。「抗議」は「逃走」へと変化したのか。移民の理由は、言論の自由が失われる懸念だけではない。国際金融センターの地位を失えば、香港でのビジネスチャンスは失われる。
ただでさえ物価と家賃がアジア一高い香港は、暮らしやすい場所ではない。中国を代表するIT企業「アリババ」は最近、シンガポールに巨大なオフィス用の物件を買い、「旗艦オフィス」を設立する動きに出た。「一国二制度」は言論・表現の自由という政治だけでなく、香港の国際金融・貿易センターという資本主義経済の維持にある。
武闘派拘束で見える「運動疲れ」
そして3つ目の要因は「運動疲れ」。「祭り」は永遠には続かない。抗議デモの先頭で道路を封鎖し、火炎瓶を投げる破壊活動を展開した「勇武派」(武闘派)は、多くが拘束され、大規模デモを先導する司令塔を失った。
勇武派の狙いの一つは、中国の武力介入を誘い国際金融センターの香港の破壊だった。過激な闘争戦術による「死なばもろとも」の捨て身作戦。こうした運動は一時的には盛り上がっても長続きはしない。国安法で規制が強化されれば、街頭闘争を止め地下活動で香港独立を目指すべきとの主張も出始めた。
日本語を流暢に話す民主派リーダーの一人、アグネス・チョウ(周庭)さんは、その勇武派を擁護している。言論の自由の危機という主張は理解できるが、国際金融センター破壊を支持するなら、「一国二制度」を語る資格はない。
香港社会に深い亀裂
対立する反政府派と親中派(2019年9月12日撮影)。抗議デモの過激化は、香港社会に深い亀裂を生んだ。
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抗議デモの過激化は一般企業や飲食店、隣人同士が抗議活動に対する態度で色分けされ、わずか700万人の香港社会に深い亀裂を生んだ。アメリカ系企業で働く30歳代の知人は、「キャセイ航空のマイルがたまった」と職場で話すことをためらうという。「キャセイ航空は香港政府系ですから、反デモ派と誤解されかねない」のがその理由だ。
ジョンソン英首相は英紙タイムズ への寄稿で、最大285万人の香港人を対象に、英国市民権に道を開く意向を示した。植民地宗主国の意識がいつまでも抜けないのだろうか。
実際に移民できるのは、カネと高学歴に恵まれたほんの一部になる。それに代わり香港には、中国本土から多くの優秀な人材が送り込まれるはずだ。彼らは香港を去る「反共人士」ではなく「愛国人士」。北京にとって愛国者の比率が上がるのは大歓迎に違いない。
(文・岡田充)
岡田充:共同通信客員論説委員、桜美林大非常勤講師。共同通信時代、香港、モスクワ、台北各支局長などを歴任。「21世紀中国総研」で「海峡両岸論」を連載中。