1979年生まれ。上智大学卒業後、中央官庁に就職するも1年で退職。都内の社会福祉協議会で生活困窮者に対する相談支援業務に従事した後、2017年から文京区社協で働く。
撮影:鈴木愛子
ソーシャルワーカーの根本真紀(40)は、コロナの出現で「見えざる人が見えるようになった」と言う。都の推計でネットカフェ難民は約4000人。これに対し都が確保した一時的な滞在場所(ビジネスホテル)は2000室。支援の手が足りない状況のなか、コロナ禍となって以来10件近くの支援に関わった。
対象者はコロナ以前から生活基盤が脆弱だ。
非正規や日雇い、風俗業の女性たち。風俗は客自体が減っていて、お店のトップの子でない限り、仕事は週に1度もないという。1日ひとりでも客を取れればカプセルホテルなどに行けるが、客がゼロなら飲まず食わず。雨もしのげない。状況によっては、貸付金うんぬんではなく生活保護といった選択肢も視野に入ってくる。
「制度の隙間を埋めていく。はみ出していくのもソーシャルワーカーの役目。放っておけば命に関わる人たちを見捨てることはできない」
ヤンキーに好かれ教師に反発した10代
コロナは社会的に弱い立場の人を直撃した。風俗で働く女性たちもコロナ前から生活の基盤が脆弱だった。
撮影:竹井俊晴
弱者への視線は、ティーンエージャーのころからすでに備わっていた。会社員の父に、専業主婦の母、6つ上の兄。引っ込み思案な子どもだったのは、転勤族の父について小学校を3つ変わったことも関係しているかもしれない。第二次ベビーブーマー世代で、高校は11クラス、中学校も10クラス。1990年前半、埼玉県の公立中学は荒れていた。
「なぜかヤンキーになつかれて、よくつるんでいました。大して悪さはしないのですが、おまえが悪いことをしているんだろうと、まず私が教師に呼び出される。やさぐれた中学時代でしたね(笑)」
ヤンキー仲間に好かれたのは、根本が彼ら彼女らをつまはじきにしなかったからだ。他の友達と同じように接した。12歳でダイバーシティを重んじる感覚を持っていた。ただ、根本の目には当時の学校ははみ出る者を排除するように映った。
「先生には反抗的な態度ばかりとってましたね」
それでなくても大人に対しむかつく思春期。教師が話をしている最中に「ばかじゃねーの」と小さな声で呟いたら、運悪く話の継ぎ目だったため、教室に「ばかじゃねーの」がこだました。顔を赤くした教師から「誰だ! 教師に向かって何だ!」と詰め寄られた。
帰宅して母親に報告すると、「ああ、あの人、本当にばかなんだからいいのよ」とあっけらかんと返された。常に反体制派でリベラルな感覚の母の理解もあって、学校で塾の宿題をやったりと奔放であり続けた。反抗的だが成績がいい。未熟な教師が最も心を揺さぶられるタイプだ。
一方で「ヤンキーつるみ」をやめるよう迫る母親ら大人の態度にもやもやした。
「今思えば、ヤンキーの子たちはシングル家庭だったり、虐待があったりしたのではないか。寂しさを抱えていたと思う。眺めていると、貧しくても清らかな人には支援が集まりやすい。ところが、見え方が違うだけで支援の集まり方が違う。人間って、そんなに分かりやすいものじゃない! って思ってましたね」
大人は嫌な生き物だ —— 。バイクは盗まなかったものの、尾崎豊を聴きまくり、社会に抗う生き方に憧れた。世話焼きな母親からの遺伝もあってか、他者に共感する力があった。
「私自身も、窮屈で生きづらい世の中だと思っていた」
居場所は小中と通った大手学習塾。面白い英語の先生がいて、学力はそこで育てられた。県立浦和第一女子高校から上智大学法学部へ。英語が得意だったから国際関係法を学んだ。
自身の病気と介護経験で深まった疑念
この国で命は、人は大切に扱われているのか。祖母の死をきっかけにその思いは強まった(写真はイメージです)。
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一般企業よりも、公益性の高い仕事をしたいと考え国家公務員になったものの、理想と現実のギャップに打ちのめされる。入庁して1年。体調を崩し、調べたら結核にかかっていた。
「病院は3時間待ちの3分診療。日本、ヤバすぎると驚いた」
この国で、果たして人は、命は大事に扱われているのか。
そんな疑問が、当時同居していた祖母の介護を経験したことでさらに深まった。
入院から3カ月過ぎると診療報酬が下がるからか、祖母は病院を追い出された。退院を控え、急に点滴を抜かれた祖母は叫び出し、帰宅した後も24時間叫び続けた。他の病院へ救急搬送され点滴を打たれたら落ち着いた。単なる脱水症状だった。診療機能のある老人ホームにその後入ったものの、手足をタオルで縛られ褥瘡(じょくそう)に苦しんだ。
「87歳で亡くなりました。せっかく長生きしたのに、最期にこんなふうになるなんてとショックだった」
心身がボロボロになった自身の経験と祖母の姿が重なった。
「この国は真っ黒だ、と。一度落とし穴にはまったら、二度と地上に戻れない構造になっている。もっと足元を見よう、福祉の勉強をやり直そうと考えました」
撮影:鈴木愛子
退職しようかと思う。打ち明けると、母親はこう言った。
「野垂れ死にしなきゃいいのよ。好きなように生きなさい」
ひとり親家庭で育った母親に、勉強が好きだったのに続けられなかった過去があるのを根本は知っていた。苦労してきた親の期待に応えなければと頑張ってきた。だが、母親の言葉にも背中を押され、世間で言う「エリートのレール」から降りた。
「自分も楽になった。力が抜けたらエネルギーが湧いてきた」
上智社会福祉専門学校社会福祉士・児童指導員科で勉強を開始。その頃、都内にある小規模映画館「ポレポレ東中野」で、ホームレス歴20年の老人を追ったドキュメンタリー『あしがらさん』を観た。
「あしがらさんは、カメラを回す映画監督のことだけを信じて、生活保護を利用してグループホームに移り幸せな余生を送る。人との関わりでこんなに人の人生は変わるんだ、と感動しました」
人が人を変える。大金をかけるなど特別な支援でなくても、共にある時間が大切なのだ —— この映画が、ホームレス支援に賭ける人生の原点になった。
(敬称略、明日に続く)
(文・島沢優子、写真・鈴木愛子)
島沢優子:筑波大学卒業後、英国留学を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。『AERA』の人気連載「現代の肖像」やネットニュース等でスポーツ、教育関係を中心に執筆。『左手一本のシュート 夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』『部活があぶない』『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』など著書多数。