1979年生まれ。上智大学卒業後、中央官庁に就職するも1年で退職。都内の社会福祉協議会で生活困窮者に対する相談支援業務に従事した後、2017年から文京区社協で働く。
撮影:鈴木愛子
社会福祉士の資格を取得した根本真紀(40)は、現在の法テラスの前身である財団法人法律扶助協会に就職した。弁護士のもとに寄せられる相談を振り分けるのが主な仕事だった。施設等で働くよりも、さまざまな社会課題を学べる魅力がありそうだった。
当時、消費者金融で借金して自己破産に追い込まれる人の相談が多かった。消費者金融大手のティッシュが街角で配られているのを見るたびに、苦しむ相談者たちの利息で得た金がティッシュに化けた気がして腹が立った。1年間の破産件数が10万件超の時代だ。今でこそ過払い金の払い戻しによって淘汰されたが、当時はすさまじい数の人が相談に来た。
「勝てなければ、裁判費用などが本人の負担になる。争って勝つ見込みのある事案かどうかを弁護士たちと協議しました。法的なトラブルは生活問題が究極にこじれた形。そこに至る前のもう少し川上で支援できたらいいのにとずっと思っていました」
給与は中央省庁時代から減ったが、やりがいを感じていた。
心を壊し、尾瀬の山小屋に1年こもる
尾瀬の山小屋にこもった1年。元来のコミュケーション力で山小屋では重宝がられた。
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協会はそのうち日本司法支援センター(法テラス)へと変わる。根本の身分は公務員ではなかったが、法務省とかなり近い関係の機関に身を置くことに違和感を抱き始めた。そのうち相談業務から管理業務へ異動に。さまざまあって、退職した。
「かなり心を壊しました。そこで、尾瀬の山小屋に1年間こもることにしました。すごくいいデジタルデトックスになりました」
登山やトレッキングのシーズン中、山小屋に寝泊まりしてアルバイトをした。よく気が付き、腰も軽く、誰とでもコミュニケーションがとれる根本は、山の人たちから重宝がられた。
「姉ちゃん、来年も働いてくれないか?」「冬の間はスキー場で働かねえか?」
数々の誘いを「これ以上おいしい空気を吸っていたら、シャバに戻れなくなるので」と丁重にお断りした。
「山小屋(にいたの)が29歳。30歳になったらちゃんとしようと決めました」
30歳になる年に、都内の社会福祉協議会(社協)で非常勤職員として勤め始めた。当時の事務局長が「山小屋にいたの? 面白そうだから採用」と拾ってくれた。ボランティアセンターの運営などに従事した。
震災で知ったボランティアの表と裏
東日本大震災では多くの人がボランティアに駆けつけた。だが、徐々に「ありがとうを言われたくて」という意識になる人もいるという。
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再就職した翌年の3月、東日本大震災が起きた。ボランティアセンターに、社協を知らなかった人が押し寄せた。案内業務をするうちに、自分の目で見なくてはと個人で被災地に行くように。最初の年は月に2〜3回行った。宮城県でヒマワリを植えるプロジェクトにも参加した。
「ボランティアバスに乗ると、普段はボランティアとは遠いところにいたであろう会社員の男性が多くて驚いた。多くの人が、自分ごとに捉えているようだった」
自然災害の場合、ボランティアの成果は見えやすい。がれきが片付き、泥が出され、きれいになる。そこに溺れてしまうと「被災者のため」が、「ありがとうと言われたくて行く」ようになることも少なくない。
そこが進むと、かえって被災者がボランティアに気を遣うという現象が起きる。芸能人が「歌で元気に」とやってくるが、帰っていくともてなした地元の人たちがどっと疲れていることもあった。そんな悪循環を目の当たりにした。
「支援者は入れ代わり立ち代わり来るので、地震の日はどうでしたか? と尋ねる。地元の人は話したくないのに、何度も同じ話をするわけです」
話し終わって「これで良かったんでしょ?」と言われ、愕然としたこともあった。誰を満足にさせるための活動なのか。ボランティアを始めるきっかけ作りは重要だが、メディアは目立つサポートばかりを追いかける。社会に発信などしている余裕がなく、ひたすら地道に支援する団体よりも、キラキラ輝く目立つ団体に助成も含めてお金が流れる傾向は否めない。
そんな表と裏の両方を、根本は見ようとする。
「根っからダークサイドが好きなんでしょうね」
撮影:鈴木愛子
非常勤2年の後、正職員になって3年間社協で低所得者への貸付業務を行い、その後2年間区役所に出向し生活困窮者の相談支援業務を行った。
返済の見込みがないと貸し付けは困難なため、断ると「俺に死ねというのか?」と気色ばむ人もいた。怒った顔も、とぼとぼと帰る後ろ姿も、その両方が胸に焼き付き離れなかった。
ここで、根本は社会の実相を垣間見る。
高速バスでターミナル駅を目指して、全国からさまざまな人が片道切符でやって来た。窓口で「根本さんに会わなかったら、俺は死んでいた」と言われたこともある。出所後に帰る先のない人は、「福祉事務所に行け」と言われることもある。途方に暮れる出所者たちも見てきた。
「制度の網から、ぱらぱらとこぼれ落ちてくる人たちをたくさん見た。制度をつくったから、それで世の中が良くなるわけじゃない。制度だけでは困り事は解決しない。発見する目はあるのに、このままではどうにもならないと思っていた」
助けたいのに、助けられない。今、このコロナ禍で苦しむ人を前にして悩む相談員や自治体職員らが抱えるジレンマを、かつて根本も味わっていたのだ。
当時の根本の葛藤を理解してくれたのが、浦田だ。ソーシャルワーカー仲間としてつながっていた根本を「あなたと一緒に仕事したい」と文京区社協に誘った。
「精神崩壊をしてしまった人と道で出会ったら、おそらくみんな通り過ぎるでしょう。けれど、彼女は必ず立ち止まって、大丈夫ですか? と言える人。社会に対して純粋に怒りがある」と根本を心からリスペクトする。
文京社協には現在10人の地域福祉コーディネーターがいるが、その第1号が浦田だ。
浦田とともに歩めば「無関心への打破」ができるかもしれない —— 根本は新たな局面へと舵を切った。
(敬称略、明日に続く)
(文・島沢優子、写真・鈴木愛子)
島沢優子:筑波大学卒業後、英国留学を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。『AERA』の人気連載「現代の肖像」やネットニュース等でスポーツ、教育関係を中心に執筆。『左手一本のシュート 夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』『部活があぶない』『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』など著書多数。