閉店した「スヰートポーヅ」。ショーケースのサンプルも片付けられていた。=2020年6月10日撮影
撮影:吉川慧
創業80年を超える千代田区神田神保町の有名餃子店「スヰートポーヅ」が、6月10日までに閉店したことがわかった。閉店の理由は明かされていないが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の中、休業を続けていた。
閉店の報は10日夕方、同店が位置する神保町の商店街「すずらん通り」にある「本と街の案内所」のTwitter公式アカウントが「本日閉店のお知らせが貼り出されていました」と投稿。Twitterモーメント公式も取り上げて拡散し、悲報がネット上を駆け巡った。
東京・神保町の餃子専門店「スヰートポーヅ」の店頭に閉店のお知らせが貼られていたというツイートが話題になっています
記者は10日午後11時過ぎ、「スヰートポーヅ」の入り口に閉店の張り紙が張り出されていることを確認した。
張り紙には、マジックペンによる肉筆でメッセージが書かれていた。
店の入口には、これまでの感謝を伝える店主名のメッセージが…。
撮影:吉川慧
閉店のお知らせ
長い間のご愛顧
誠にありがとうございました。
厚く御礼申し上げます
店主
店主名による肉筆のメッセージは簡潔ながら、これまで店を愛したファンに感謝を伝えるものだった。
店の歴史は戦前から。神保町でも屈指の人気店
在りし日の「スヰートポーヅ」。昭和情緒あふれる店構えは、神保町の名物の一つだった。
撮影:吉川慧
「スヰートポーヅ」はグルメ激戦区の神保町でも人気店の一つ。昭和レトロの情緒漂う店構えが目印だった。
30席ほどの狭い店内は名物の餃子と天津包子(肉まん)を目当てにやってきた客で満席になることもしばしば。特に、天津包子は閉店前によく売り切れていた。
在りし日の「スヰートポーヅ」店内。
撮影:吉川慧
店内の由来説明によると「スヰートポーヅ」とは「おいしい包子」の意味で、店の歴史は戦前に遡る。
「スヰートポーヅ」と餃子の由来を説明する店内の説明書き(2018年撮影)
撮影:吉川慧
初代は1932(昭和7)年から中国で天津包子と餃子の作り方を修業し、1936〜37年頃に旧満州の玄関口だった大連で餃子店を開業。後に帰国し、終戦まで食堂「満州」の名で営業したという。
終戦から10年が経った1955年、大連時代の店名「スヰートポーヅ」で当地にて営業を再開。「本の街」「学生街」として発展した神保町の人々の胃袋を満たし続けてきた。
「スヰートポーヅ」の餃子、その特別な「かたち」
「スヰートポーヅ」の焼餃子。一般的な餃子と異なり、棒状の形状が特徴だった。
撮影:吉川慧
「スヰートポーヅ」の焼餃子は、その特徴的な餃子のかたちにある。一般的な餃子は、肉の餡(あん)を皮で扇型に包むが、「スヰートポーヅ」では皮の両端を閉じない棒状だった。
実際に食べてみると、キツネ色に香ばしく焼かれた皮には肉の風味が染み込んでいた。皮の両端を閉じないのは、このためだったのだ。
肉餡はシンプルで、ニンニクを使わない。代わりに生姜の爽やかな風味が香る。タレをつけて食べれば、口の中には旨味が広がる。白いご飯にも、ビールにも抜群に合う餃子だった。
著名人にもファン、江口寿史さんや久住昌之さんも…
閉店した「スヰートポーヅ」。隣は有名なロシア料理店「ろしあ亭」がある。
撮影:吉川慧
「スヰートポーヅ閉店」の報せは、またたく間にインターネット上を駆け巡った。著名人にもファンがおり、例えば漫画家の江口寿史さんは「うそだろ、スヰートポーヅも、、、」と絶句。
『孤独のグルメ』の原作者として知られる久住昌之さんも「かなりショック。明日起きてもまだショックだろう。しばらくずっと。18歳からずっと食べてきたんだから」と閉店を惜しんだ。
スタディストの岸野雄一さんは「餃子世界No.1の味がこの世から永久に無くなってしまう。漬物もサイコーでした。お疲れ様でした。『ヰ』の文字を打つ事はもうないでしょう」と店を労った。
大連時代を含めれば、その歴史は実に80有余年。昭和、平成、そして令和を生きた人々の思い出が染み込み、世代を超えて愛された老舗。
その最後の別れは、あまりにも突然で、あまりにも静かなものだった。
神保町は「中華の街」でもある
揚子江菜館の箸、酢豚、焼売、上海焼きそば。上海焼きそばと焼売は、食通の文豪・池波正太郎も愛したという。
撮影:吉川慧
「本の街」「学生の街」として全国的に知られる神田神保町だが、周辺には老舗の中華料理店が軒を連ねており、「中華の街」としての顔も併せ持つ。
学生街、古書店街として発展した神田神保町では、明治以降に数多くの中国人留学生が学んだ。
『阿Q正伝』で知られる作家・魯迅も街を訪れている。毛沢東の右腕として後に中華人民共和国の初代国務院総理(首相)となった周恩来も、近辺にあった「東亜高等予備学校」や、現在の明治大学などで勉学に励んだ。
こうした中国人留学生たちの胃袋を支えたのが、華僑たちが営んだ神保町周辺の中華料理店だったという。
今も残る有名店では、冷やし中華の発祥と言われる「揚子江菜館」(創業1906年)、辛亥革命の指導者となった孫文や周恩来が通った「漢陽楼」(創業1911年)、上海料理の老舗「新世界菜館」(創業1946年)などがある。
相次ぐ老舗の閉店、変わりゆく神保町の景色
5月に閉店した居酒屋「酔の助」。4月から休業していたが、建物の老朽化もあり営業40年で閉店を決めた。
撮影:吉川慧
時代を超えて学生や街の人々の胃袋を満たしてきた神保町の飲食店だが、近年は老舗の閉店が相次いでいる。
半チャンラーメン(半チャーハンとラーメンのセット)の元祖と言われたラーメン店「さぶちゃん」(2017年)、天ぷら店「いもや」(2018年)のほか、この5月には居酒屋「酔の助」が閉店。手頃な値段で学生や出版関係者に愛され、テレビドラマのロケ地にもなった有名店だった。
6月26日には「スヰートポーヅ」の斜向いの洋食店「キッチン南海」(1966年創業)もビルの老朽化を受けて閉店する。7月に近所にのれん分けの独立店がオープンする予定だ。
「キッチン南海」。黒色をしたカレーや「盛り合わせ(チキンカツ+生姜焼き)」、ヒラメフライなどが人気。
撮影:吉川慧
『泥の銃弾』やアニメ『PSYCHO−PASS サイコパス3 』の脚本などで知られる吉上亮さんは「神保町『スヰートポーヅ』閉店もマジっすかとなったが、『キッチン南海』も閉店とは…」「僕にとって洋食屋というと一番に頭に浮かぶ店です。長らくお世話になりました」と記した。
東京都の「コロナ」関連倒産は50件、最多は飲食店
慢性的な人手不足、長引く経済低迷による価格競争による閉塞感、少子高齢化による国内市場の縮小が、日本の外食産業に暗い影を落としている。2019年の外食産業での倒産件数は、1990年からの調査では過去2番目の水準となった。
加えて新型コロナウイルス感染症が追い打ちをかけている。東京商工リサーチによると6月10日午後5時現在、新型コロナ関連の経営破たんは全国で235件(倒産167件、弁護士一任・準備中68件)。業種でみると飲食業が36件と最多だ。
帝国データバンクによると、東京都の新型コロナ関連の倒産(法的整理または事業停止、負債1000万円未満・個人事業者含む)は6月4日午後2時30分時点で50件に達した。所在地別では渋谷区が10件と最も多く、神田神保町がある千代田区は7件で次点だった。業種別ではやはり、飲食店(9件)が最多だった。
(文・吉川慧)
※一部表記を改めました(2020/06/11 15:10)