1982年生まれ。東大法科大学院卒業後、総務省に入省。入省後に司法試験に合格。熊本県庁出向後、総務省で人事採用などを担当。2010年によんなな会を発足。2013年から神奈川県庁に出向。
撮影:竹井俊晴
今でこそ「官僚きっての人たらし」と言われる脇雅昭(38)だが、子どもの頃から社交的な性格だったわけではない。
脇は、6人きょうだいの末っ子だ。父親が50歳の時の子どもだという。猛烈な仕事人間だった父親は、自身が40歳になったときに突如スパルタ教育に目覚めて仕事を辞めた。脇は、この父親の影響を強く受けて育つことになる。
実は脇は、幼稚園を「中退」している。商売人だった父親が「幼稚園には月に6000円も払う価値がない。代わりにおまえに6000円払うから、やめたらどうだ」と提案してきたのだという。
その言葉に飛びついた脇は、5歳で幼稚園をやめる。周りには大人しかいなくなり、父親と勉強三昧の日々が続いた。会話する同級生もいないので、団地のおばさんの井戸端会議に首を突っ込み、コミュニケーションの方法を学んだ。
公文の模試では全国2位になるほどの成績だったが、小中学校時代は、周囲から浮いた存在だったという。中学を卒業するまでは、本当に心を許せる友人にも出会えず、孤独な日々を過ごした。
弁護士志望から官僚へ
撮影:今村拓馬
今のように誰とでもフラットに付き合えるようになったのは、高校に入学してから。話が合う友人ができた脇は、人が変わったように明るく振る舞えるようになる。当時は「お祭り男」と呼ばれていた。
「みんなのために仕事をしたい」という気持ちは、高校時代からあったという。
その後、大学へ。漠然と、弁護士と官僚で迷いながら、大学時代を過ごしてきた。しかし、「官僚は親の死に目にも会えないらしい」と思い込み、一番大事な家族を守れないような職業は嫌だと考え、弁護士等を養成する法科大学院に入学した。
それでも最終的に官僚の道を選んだのは、法解釈には限界があると感じたからだ。誰かが決めた法律を解釈するのではなく、そもそもこの国をどうしていくべきかからゼロから考えたい。そう思った脇は、総務省に入省する。
しかし、いざ仕事を始めてみると、大きな制度をつくるが故のジレンマ、みんなの笑顔が見えにくく、仕事へのやりがいが分からなくなってきていた。多くの公務員のモチベーションを上げてきたよんなな会だが、実は、その存在に一番救われてきたのは、脇自身だったのかもしれない。
父の死で意識した「残りの時間」
よんななハウスには各県ごとのノートが置かれている。利用者がそのノートに書き込むことで、県内外の人とのネットワークを広げることもできる。
2011年。脇が29歳の時、父親が他界した。最期は自宅で看取った。
脇は、「親がくれた最高の贈り物は、人は死ぬということを教えてくれたことだ」と話す。
「父を見送ったことで『僕らは死に向かって生きている』という事実を、明確に感じることができました。明日死ぬかもしれないのならば、命を必死に使いたい。父が死んで以降、残された時間を強く意識するようになったんです」
父の死を経験した脇は、自身の夢や想いを、それまで以上に口に出すようになった。
2020年、脇は東京の都心のビルに「よんななハウス」をオープンさせた。東京に、リアルに集える「場」を作りたいという構想は、2年ほど前から温めてきたという。
それまでよんなな会の交流会は、地方からの霞が関への出向者や、土日にわざわざ東京まで足を運んでくれる人たちによって開催されてきた。
「でもよく考えたら、平日、東京に出張に来ている地方公務員ってたくさんいるなあ」と気付き、これは財産だ、と脇は思った。
「わざわざ土日にお金をかけて来てもらわなくても、出張で来ている人たち同士が出会って、次の日全国にまた散らばっていけば、この縁はどんどん広がるんじゃないか」
人が動く原動力は「想い」だけ
ワクワクするアイデアができると、脇はまず仲間にその気持ちを投げる。すると、「それって面白い!」と共鳴してくれる人が現れる。
よんななハウスも、ある民間企業に務める男性が「それ、自分が借金してでも場を作りたい」と言ってくれたことがきっかけで、具体的に動き出した。
よんなな会には、何の強制力もない。だからこそ、人が動く原動力はいつも、「想い」だけだ。いまもこのハウスは、サポーターの人たちの月々の寄付で成立している。
よんななハウスは、そんな仲間たちがカジュアルに集える場所にしたかった。
靴を脱いで入る仕立てや、終電を逃した人が泊まろうと思えば泊まっていけるように、シャワーのある物件を探した。内装が整ったこのハウスを見て「現代版の茶室のような場所だね」、と仲間に言われた。刀を外して丸腰で交流する、気の置けない場所。その言葉を聞いて、さらにワクワクが強くなった。
コロナが感染拡大する前には、早速地方からの出張組に活用された。
これまでよんなな会でつながった公務員の名簿は、5000人以上になる。その人たちが東京に出張に来るときに、「●日、東京に行きます」と投稿できるページを作った。
撮影:竹井俊晴
例えばある日は、富山市の人たちが東京出張に来ていた。脇は、頭の中の友人リストから、その富山市の人たちと出会ってほしいと思う人たちを、よんななハウスに呼んだ。
集まったのは8人。富山県内の市長も参加したその場では、それぞれに話が盛り上がり、東京在住のメンバーが数日後には彼らを訪ねて富山に行った。
この出会いがきっかけで、新しいプロジェクトが生まれるかどうかは未知数だ。
それでも「最近まで、このままでいいんだろうか?」と考えていたという30代前半の若い公務員が、目をキラキラさせて帰っていったのが、脇には最も印象的だったという。今度、彼が中心幹事となって「よんなな富山会」をつくると聞いたことが、一番嬉しかった。
ここでもやはり脇の視線は、「半歩でも一歩でも、前に踏み出す公務員が増えてほしい」というエンパワメントに注がれている。
オンライン市役所のサイトより
もう一つ。2020年に入ってから準備を進めてきたのが、「オンライン市役所」だ。
公務員は辞令が出るたびに、門外漢の部署に異動になったり、出向や転勤を経験したりする。その都度、積み上げてきたキャリアがリセットされるストレスがあるし、前任との引継ぎがうまくいかないまま新しい仕事に就かなくてはならない人も多い。
そこで、以前その仕事や地域を経験したことがある人が、その知見を伝えられる場を作れないかと考えたのだ。
「この構想は夜中の3時に思い付いちゃって。もうめっちゃ興奮して、すぐさまオンライングループに投げました。僕が『こんなことやりたい。誰か助けて!』というと、『いいじゃん、やろうよ!』と言ってくれる仲間がいる」
ワクワクをモチベーションに仲間を巻き込んでいく。これが、脇が「人たらし」と呼ばれるゆえんでもある。
「確かに、僕は、おねだり上手かもしれない」と脇は笑う。よんなな会は、脇も含めて全員がボランティア。だからこそ「誰かが喜ぶから、一緒にやろうよ」という声掛けだけが、人を動かす。自分のためではなく、誰かのためだから、仲間が増えていく。
結果的にこの「オンライン市役所」は、1回目で紹介したコロナ対策の情報共有の場として機能することになった。今も日々、全国の公務員がその知見を交換し合う、駆け込み寺のような存在になっている。
(敬称略、明日に続く)
(文・佐藤友美、写真・竹井俊晴)
佐藤友美(さとう・ゆみ) 書籍ライター。コラムニスト。年間10冊ほど担当する書籍ライターとして活動。ビジネス書から実用書、自己啓発書からノンフィクションまで、幅広いジャンルの著者の著書の執筆を行う。また、書評・ライフスタイル分野のコラムも多数執筆。 自著に『女の運命は髪で変わる』のほか、ビジネスノンフィクション『道を継ぐ』など。