撮影: 竹井俊晴
慶應大学医学部教授の宮田裕章は、コロナ対策にLINEを活用する全国調査を仕掛けた立役者。「データサイエンス」と「革新的テクノロジー」とを組み合わせて現実社会からデータを拾い上げ、常識にとらわれない発想で社会変革を実践する。
彼が師と慕う、元Twitter Japanの会長で現国際文化会館理事長の近藤正晃ジェームスは言う。
「宮田さんの第一印象は知的で、社会貢献意識が高く、美意識が強い方だということ。これら3つの特徴は『真善美』に対応するが、それらを全てバランスよく体現している方は稀で、宮田さんの大きな特徴であり、強みだと思う」
高校時代から目指した研究の道
近藤の感想は、私の中の宮田像とも一致する。
真っ先に立ち上がったのは、人の敷いたレールの上は歩かず、目指す高みを探し歩く「探求者」のクールなイメージ。それでいて、仲間との絆を大事にしながら多くの人とのセッションを楽しむ温かみも同居する。インタビューでのこんな発言から、そう感じられた。
「科学や哲学の本を読みあさっていた高校生の頃から、研究者になろうと決めていました。ずっと考えてきたのは、周りの環境と自分とがどう響き合い、どう社会を創れるか。自分が社会にどう貢献していけるかということ。人間とは? とか、社会はどう成り立ってきたのか? といった本質的な知を、自分流に探究できる場を求めていましたね」
「特に東大にこだわっていたわけでなく、大学は入りさえすればどこでもよかった。医学科だと詰め込みの量が半端ないから、私の目的からは少し遠回りに感じた。
だから学部選びの基準は、まず、自分の興味思考を邪魔しないところというのが第一。大学には申し訳ないですけれど、既存の専門家育成カリキュラムには関心はありませんでした。あとはさまざまな人々との対話ができる場であるということです」
多領域を横断する学問版の「道場破り」
東大時代も学問の枠にとらわれず、興味関心のある分野に越境していった(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
東大に進んだ宮田は学問の枠にとらわれず、学部時代から独自の知を積み上げてきた。18歳の時、「人間」を軸に世界を捉えようと、脳科学や心理学にのめり込んだ。
大学2年の時には、「激変する世の中で、伸び代があるのはヘルスケア領域。鍵になる知識はデータやテクノロジー」だと時代を読んだ。そこでヘルスケアをコアにした領域へ進もうと決めた。
同時に、工学や憲法学などさまざまな領域を取り込んでビジョンを形成し、他学部のゼミにも積極的に出かけて行った。対話したい教授や准教授を見つけてはアポをとり、議論を持ちかけた。いわば、学問版の「道場破り」だ。
「他学部からやってきて、独自流の知識をもとに本質的な問いをぶつけてくる。おまけに研究の改善策まで提案してくる。受けて立つ教員の立場で考えたら、『なんて面倒くさい学生なんだ』って思ったでしょうね」
医療界では1990年頃から提唱されたEBM(Evidence-based Medicine)の考え方が徐々に広まり、体系的なデータに基づいて科学的根拠を積み上げ、臨床現場で実践をしていた。
当初はランダム化比較試験(評価の偏りを避け、客観的に治療効果を評価することを目的とした研究試験の方法)という厳密な方法を中心に注目が集まっていたが、現実を反映するという点からさまざまなデータが必要とされるようになる。
宮田は医療分野を軸にしながら、こう考えるようになっていた。
データに基づいて社会を誠実に捉えるためにはどのようなアプローチが必要なのか? 命や生活の価値をどのように可視化・共有し、現実をより良くするための実践に反映することができるか? そのためにどのようにデータやテクノロジーを用いるべきか? この思考に沿って学びを深めていった。「ビッグデータ」という言葉が流行する、はるか前のことである。
象牙の塔から混沌とした医療現場へ
理論の世界であるデータサイエンスの領域から命に対峙する医療の現場の世界へ。28歳の時、宮田は大きな転機を迎えた(写真はイメージです)。
shutterstock/porjai kittawornrat
転機が訪れたのは28歳の時だ。
前出の近藤が、当時、東大医学部教授だった髙本眞一(現・名誉教授)とともに2004年に「東京大学医療政策人材養成講座(寄附講座)」を立ち上げ、宮田が助教に就任。折しも髙本は、その数年前から外科領域での治療症例を集める「心臓外科データベース」のプロジェクトに取り掛かっており、「分析を手伝ってほしい」と宮田に声をかけたのだ。
心臓外科データベース事業への参画は、「自分のキャリアにとり、予期せぬ形で開かれた全く新しい扉だった」と宮田は振り返る。
宮田が関わるデータサイエンスの学問領域は、データを扱う「方法論」の世界が主軸。もちろん実践的な調査はするが、現場から見ればあくまでも一時的な滞在者、“客”である。それに対し臨床は、言ってみれば「命と向き合う混沌とした現実そのもの」。
理論の世界に身を置いてたまに出かけることと、命を救うという大きなプレッシャーがかかる現場に身を置き続けること、この間には大きな違いがある。
「どちらかと言えば象牙の塔的な世界に身を置いていた私が、現実に揉まれながら『何がベターなのか?』という問いを現場と問い続ける、リアルワールドに足を踏み入れた瞬間でもありました。私はまさに、越境したわけです」
患者のために解析結果を現場に還元
プロジェクトの出発点では、苦い経験も味わった。当時は参加する医療施設は数十施設。説明に出向いても、「海のものとも山のものとも分からない」という反応が返ってきた。「なぜ治療成績を提出しなければならないのか?」といった反発の声も耳に入ってきた。
手術を受ける患者にとっては、医師や医療機関の治療成績は大きな関心事だが、逆に医療に携わる者にとっては、自施設のデータを提供することが脅威に映ることもある。外部から強制的に「データを出してください」と言ったところで、ただでさえ医療現場は忙しい。前向きにデータを出すことに協力しようというモチベーションは生まれにくいのだ。
単に統計の知識を振りかざしたところで、人はついてこない。そう感じた宮田は、プロジェクトを「患者さんのために、医療の質を向上する」という位置付けにして、解析結果を臨床現場に還元していく方針を固めた。データの可視化は、各医療施設の治療成績向上に必ず結びつくんだという意識の共有に時間を割き、少しずつ協力施設を増やしていった。
この経験を通じて、宮田は「現実に貢献する中でこそ、自分の学問は磨かれる」と実感した。
解析結果を現場にフィードバックする方針は、後続のNCDでも貫かれている。今や多くの学会が共同運営するプロジェクトに発展したNCDは、5000以上の医療機関が参加。手術についてはほぼ全数をカバーする、医療現場が主体的に経営、運営を行うデータベースとして世界最大規模にまで成長した。
「宮田さんのグループが素晴らしかったのは、データを提供する側と受け取る側との目的意識共有に力を注いだこと。積み上がる手術症例を医学会の『プロフェッショナリズム』の問題として取り上げることにより、医師が主体的にデータを出すようになり、お互いに切磋琢磨して治療成績を改善する運動に発展させたわけです」(近藤)
撮影: 竹井俊晴
データを通じた患者との関係性も「一つの介入」。データで命を救いもするし、方法論一つ間違えば、命が失われる可能性もある。
「そう思うと、身が引き締まる思いがする」(宮田)
次の瞬間に何が起こるか分からない命の現場の緊張感は、外科の現場でも、コロナと向き合う局面でも同じだと宮田はいう。
「コロナに関しては、基本的にほとんどの人が未知のゾーン。未知の感染症が市中に入ってきて、地上戦をやるっていう世界は、ほとんどの地域では未知の体験だし、知見が少ない。データの取り方すら確立されていなかった」
宮田は医療現場の人たちと切磋琢磨し、命を前にする危機感を共有し、意見をぶつけ合った。命の現場に立つ人と汗まみれになって価値共創し、未知なる課題を切り抜けていくという経験は、コロナ下の混乱でも生かされたと感じている。
(敬称略、明日に続く)
(文・古川雅子、写真・竹井俊晴)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。