慶應大学医学部教授の宮田裕章の研究室は、東京・信濃町にある同大病院を取り囲むように建つ校舎群の一角にある。
内部は研究室というより、デザイナーズホテルのようなしつらえ。木目調の落ち着いた空間にカラフルな猫足ソファーの差し色が効いている。取材した日の装いも鮮烈で、ブルーが基調のブルゾンと宮田のトレードマークとなった銀髪とがコントラストをなしていた。
ファッションの諸行無常という面白さ
ファッションへの向き合い方は、実にゆるやかだ。
「祖母が呉服屋を経営していたこともあり、私は幼い頃からファッションに触れてきたけれど、別にどの段階からファッションを好きになったって、貴賤はないと思う。デムナ・ヴァザリア(Balenciagaデザイナー)はジョージア(旧グルジア)出身で、幼少期にはファッションにあまり触れることはできなかった。そんな彼のファッションへの渇望は、ある程度満たされた中でファッションに触れてきた先進国のデザイナーにはないエネルギーがある」
独特のシルバーヘアについては、こう話す。
「NHKに出演して、髪をシルバーに染めた理由を問われて、いろいろな理由を答えていますが、どちらかといえば後付けです(笑)。まずは気持ちが上がるかどうかを重要視しています」
研究者としてのスタイルには、こだわりを持つ。宮田はファッションに絡めてこう話す。
「ファッションの面白いところは、諸行無常なところ。『最高だ↗』と思っていた服が、次の瞬間『ダサイ↘』となることもある。
研究者はどうしても、普遍的な価値とか法則とかに重きを置きがちで、それはそれで尊い。ただ、ある瞬間にそれが全部間違いだったっていう局面が来るかもしれない。変わり続ける世の中に身を晒しながら、自分の価値観を問い続けることは、クリエイターとして自分のスタイルにおいては大事な部分でもあります」
「科学を使って現実を良くする」という専門
宮田の研究室の一室。ミラーを多用した不思議な空間になっている。
撮影: 竹井俊晴
実際、宮田は医学部に籍を置き、専門性を持ちながらも、「健康」のほか、「社会デザイン」「農業」「エンタメ」など、多領域にわたるプロジェクトに取り組んできた。すでに実践として、変化に身を晒すことを良しとしてきた。
肩書きより目的志向ということだろう。その証拠に、「職業を一言で言えば?」と問われれば、宮田はこう答える。
「今は、データをアプローチとして使うことが多いので、データサイエンティストとも言えますが、一言で言えば、何でもやる人(笑)。科学を使って現実をより良くするというのが専門です」
データサイエンティストには、既存のビッグデータを用いて分析処理を行うことに情熱を燃やすタイプの人もいる。「AIによる分析が得意」というような、方法論に強みを持つタイプも少なくない。
「それは料理人になぞらえれば、超低温ローストにこだわる、みたいな調理技術のプロとも言えますね。そうしたカリスマも、社会には必要です」
と宮田。
一方で「誰かが集めてきてくれたありもののデータ」から最善の解が得られる時もあれば、そうではない時もある。宮田はその時に「データを集める」ということも常に選択肢に置く。
「我々は必要とされれば、農場経営から始めて食材を集めてくるというスタイルで料理を提供することもあります。
ただその時に重要視するのは、食材を提供してくれる人々に、価値を還元することです。忙しい日々の中でデータを入力してもらうわけですから、まずはデータ提供者に対して、どういった価値を誠実に返すことができるかから考える。農場で言うなら、『泥まみれ』になりながら、持続可能な仕組みを考えます」
そこで大事になってくるのが、「今」必要なデータを見抜く目。そして、現場の中からどういうデータを掴んで集めてくれば「より良い未来」をもたらせるかを創造する力だという。
2人の師との出会いがもたらした価値転換
必要なデータがなければ、そのデータから集めにいく。それが宮田の真骨頂だ(写真はイメージです)。
Shuttersotck/solarseven
宮田が好んで使う言葉は、「コー・クリエイション(共創)」。クールなファッショニストでありながら、この人が醸す温かみというのは、おそらく、こうしたワーディングから立ちのぼるものだろう。
宮田が仲間との「共創」意識に目覚めたのは、28歳のとき。2人の師との出会いがもたらした価値転換だった。「心臓外科データベース」事業への参画を機に命の現場を共にしてきた、心臓血管外科の名医で東大現・名誉教授の髙本眞一と、元Twitter Japanの会長で現国際文化会館理事長の近藤正晃ジェームスである(2回目参照)。
髙本は、医療事故調査制度のあり方にも一家言持ち、厚労省に制度の検討を具申した人物の一人。時に論戦を繰り広げながらも、「患者のための医療」を追求する髙本の背中を見て、宮田は命を前に最善を尽くす者の凄みを感じた。髙本が常々言っていたのは、「患者と共に生きる医療を行い、より良い社会のために貢献する」という言葉だ。
一方、近藤からは叱咤激励の言葉をたくさんもらった。例えばこんなふうに。
「『僕たちは、この人たちと共にチームになれて何て幸せなんだ』『共に仕事ができて誇らしい』と思うところから仕事は始まる」「大事なのは、チームビルディングなんだ」
チームワークがいかに大事かを叩き込んでくれたのが、近藤だった。
撮影: 竹井俊晴
宮田は一つの組織で個人がやれることは、ほとんどの場合、一定期間で修練すると見ている。
「孤高の天才だって、同じプレイスタイルでいけるのは、せいぜい20代まで。1人で百人力の仕事をしたとしても、それ以上のことはできない。多くの人はスタイルを変えないと、伸び代がなくなる。ゲーム的に言うと、『カンスト(カウンターストップ)』するんですよ。
個人の成長ってことを考えた時に、限界突破イベントをどう設計するかってのはすごく必要になってきますよね。ある時にそれは転職かもしれない。あるいは、チームプレイへ転換していくという舵の切り方もあるかもしれない」
宮田は自身のキャリアを俯瞰し、こう感じている。
「28歳にして心からリスペクトできる人達と一緒にチームワークを組めた。キャリアの初期に2人の師と出会い、コー・クリエーションする大事さを体感できた。これは後で振り返ってみても非常に幸運なことでした」
(敬称略、明日に続く)
(文・古川雅子、 撮影・竹井俊晴)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。