森永乳業の大人のための「ミルク生活」。これは、市販されているタイプのもの。
撮影:三ツ村崇志
5月31日、米スペースXの新型宇宙船「Crew Dragon(クルードラゴン)」が有人飛行試験に成功したことは記憶に新しい。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)の野口聡一宇宙飛行士は、クルードラゴンの第一回目の運用クルーの一員として、年内をメドに再び宇宙へと旅立つ予定だ。
宇宙が非常に身近な存在となりつつある中、JAXAでは国際宇宙ステーション(ISS)へ長期滞在する日本人宇宙飛行士のストレスを和らげることなどを目的として、「宇宙日本食」の開発を進めてきた。
これまでに、カレーやラーメン、羊羹、サバの味噌、わかめスープなど、多様な食品が宇宙日本食として認定され、過酷な環境で活動する宇宙飛行士たちの心と体を満たしてきた。
そんな中、2020年6月8日、森永乳業が開発した大人のための粉ミルク「ミルク生活」が、「森永ミルク生活(宇宙用)」として新たに宇宙日本食の認証を取得した。
日本初の宇宙食の粉ミルクの誕生だ。
大人に飲まれていた「赤ちゃん用の粉ミルク」
写真左側が水に溶かす前の粉ミルク。右側が100ミリリットルの水で溶かした後の状態。
撮影:三ツ村崇志
森永乳業では、1920年から育児用の粉ミルクを製造してきた。
今年は同社の粉ミルク誕生から100周年の節目でもある。
市販されている大人用の粉ミルクである「ミルク生活」は、2016年に販売が開始されたもの。現在、スティックに小分けされたタイプと、缶に入ったタイプの2タイプがある。
1杯分、約20グラム(1パック)の粉末状になったミルクを、約100ミリリットルの水で溶かし、よくかき混ぜると見た目はもう完全に牛乳だ。
飲むとほんのり甘みが口に広がり、市販の牛乳に比べて少し喉に残るような、いわゆる「濃厚」な味わいが感じられた。
一方、好き嫌いが分かれる牛乳特有のニオイは、さほど気にならなかった。
牛乳とミルク生活の成分比較。赤色の棒グラフがミルク生活の成分。青色の棒グラフが通常の牛乳の成分。
撮影:三ツ村崇志
パッケージに記載の成分表を見ると、主要成分のタンパク質こそ通常の牛乳とほぼ同程度ではあるものの、カルシウム、中鎖脂肪酸、鉄、食物繊維、DHA、葉酸などの様々な栄養素が、一般的な牛乳にくらべて豊富に含まれていることが分かる。
とはいえ、粉ミルクは「赤ちゃんの飲み物」というイメージが強い。
そんな中、あえて大人用の粉ミルクを開発した経緯を、森永乳業でミルク生活のマーケティングを担当する小菱悟氏は次のように話す。
「ここ最近で、50代以上のいわゆるシニアの方から、『赤ちゃん用の粉ミルクを自分の健康にも良いと思って飲んでいる』という声を頂いていました。粉ミルクには赤ちゃんが育つために必要ないろいろな栄養が入っています。ミルク生活は、『シニアになり体が弱くなってきたので栄養をとりたい』という声から生まれた商品です」
では、それがなぜ、宇宙へ行くことになったのか。
粉ミルク、JAXAから声をかけられる
森永乳業営業本部、マーケティング統括部、マーケティング開発部、ヘルスケアフーズマーケティンググループマネージャーの小菱悟氏。
提供:森永乳業
ミルク生活を宇宙食にするプロジェクトがはじまったのは、2017年11月。今から約3年前だ。
「当時、大人向けの粉ミルクとして、メディアへの露出をしていたところ『宇宙日本食として申請を考えてみませんか』と、JAXAから声をかけていただきました。宇宙という通常とはことなる環境の中で、効率的に栄養を取れるという意味でお声がけいただいたのではないかと思います」(小菱氏)
小菱氏によると、宇宙日本食に求められる要素の一つに、賞味期限が18カ月以上という条件があるという。ミルク生活は、その条件をもともと満たしており、また、水にとかして飲むという形態も、JAXAの指定容器を使えば十分実現可能なものだったという。
実際、粉ミルクが宇宙日本食として認証される前にも、緑茶やウーロン茶などの飲み物が宇宙日本食として認定されている。
どれも、液体の状態で宇宙に持っていくわけではなく、粉末状にしたものをJAXA指定の容器に封入している「加水食品」というタイプの宇宙食だ。
森永ミルク生活(宇宙用)。写真上から針を差し込み、内部に水を注入する。
提供:森永乳業
ISSで飲む際には、容器の上部に備え付けられている「スパウト」(逆流を防ぐ弁がついている吸口)部から、ISS内にある専用装置を使って水を注入して粉末を溶かし、ストローで飲むことになるという。
これらの仕様は、中にある粉末がISS内に飛び散ってしまうリスクを下げるためだ。
ほぼ無重力のISS内部で粉末が飛び散ってしまうと、かなりやっかいなことになる。装置の隙間に粉末が入り込んでしまうと、計器の故障にもつながりかねない。
そのため、事前の試験では、容器が破裂して中身が飛び出すことのないように、耐圧試験などが実施されている。特に、粉ミルクをパッケージに封入する際に最後に閉じる部分は、構造的にもろくなりやすいため、工夫が必要になったという。
宇宙で飲む粉ミルク。気になるお味は?
森永乳業研究本部、健康栄養科学研究所、栄養食品開発グループの田中智弘氏。
提供:森永乳業
「宇宙食の開発」と言われると、フリーズドライや缶詰加工などのように、味や衛生面の安全などを担保するために、新たな研究開発が必要になることが予想される。
しかし、研究開発に携わった田中智弘氏は、
「通常販売している商品の管理基準が厳しかったことから、宇宙日本食として求められる基準をはじめから満たしていました。結果的に、既存の商品をそのまま使うことができました。
(森永の商品であれば類似商品も)商品の管理基準だけでいえば、十分宇宙に持っていけるものが多いのではないかと思っています」
と、基本的に味や衛生面に関わるような製品の改良などは行なっていないと話す。
これは、宇宙でも地上でも「水に溶かして飲む」という根本的な用途が変わらない粉ミルクならではの特徴といえるだろう。
ただし、密封された容器を使って飲む以上、地上で飲むほど粉ミルクのニオイは感じられないはずだ。
宇宙でコーヒーなどの香り高い飲み物を楽しむためには、専用容器が必要となる。そういった容器を使わない限り、粉ミルクの味も、地上で飲む場合にくらべて少し感じにくくなるかもしれない。
「宇宙食」という夢。地球での販売は……
ISSから見た地球と、ISSと接続されている補給船。食料などの物資は、補給船を使ってISSに送られる。
NASA
宇宙食への認証を得るために追加での研究開発がさほど必要にならなかったとはいえ、宇宙食としての認証を得るには、さまざまなリソースを割かなければならなかった。
それに対して、ビジネスと言う意味では、現時点で宇宙食市場へ参入するメリットはそれほど大きくはない。
ではなぜ、そこまでして粉ミルクを宇宙食として届けようとしたのだろうか。
小菱氏は、
「森永乳業としての行動指針の一つに、『夢を語り合い、未来へ一歩踏み出していますか』というものがあります。今回の話を頂いた中で、森永乳業の商品が宇宙に行くことが夢だなと思いました。
また、商品が社会の中で役に立つことで、これまで森永乳業が続いてきたと思っています。宇宙にいる人に当社の商品が求められているのならば、我々としてはそこに届けたいという想いで取り組んできました」
と話す。
欲しいと言われた。だから届ける。
実際に日本発の粉ミルクが、いつ宇宙へと進出するのか、詳しい日程はまだ決まっていない。
JAXAの発表では、野口宇宙飛行士は現在、クルードラゴンに乗ってISSへ向かうための訓練を行なっている最中だという。
「未定ですが、 早く宇宙に行けたら良いなと思っています。野口さんに、飲んでもらいたいですね」(小菱氏)
なお、地球での販売は予定されていない。
(文・三ツ村崇志)