撮影:竹井俊晴
ポストコロナ時代の新たな指針、「ニューノーマル」とは何か。各界の有識者にインタビューをしていくシリーズ。今回は、元寺田倉庫社長兼CEOの中野善壽さん。
現代美術、そして若いアーティストを支援してきた中野さんから見て、ポストコロナ時代におけるアートの価値とは。そしてコロナで足元の暮らしを見つめ直した期間は、私たちのライフスタイルにどんな影響を与えるのかを聞いた。
——中野さんは早くから「アートの価値」を発信してきた経営者として知られています。2019年までCEOを務めた寺田倉庫ではアート保管事業のほか、街中に現代アートを呼び込んで土地の付加価値を高める改革を次々と手がけられ、業績を大きく伸ばしました。
現在は、アジアを中心としたアーティストを支援する活動にも注力。新型コロナウイルスの影響が人々の暮らしの価値観を大きく変容させたと言われている今、「アートの価値」や「アートとの付き合い方」はどのように変わっていくのでしょうか。
社会全体でアートの意味を根底から問い直す時を迎えていると思います。アートというと、高尚な解説が付く高級品で「投資」の対象になるようなイメージを持つ人が多いのですが、そうじゃない。アートはもっと身近で生まれる、柔らかなものなんです。
例えば、自分の子どもが描いた絵を額装して飾る。これも立派なアートです。どんな子でも一生に一度くらいは「あ!」と皆を驚かせるくらいの絵を描くと思うんです。そして、その感動を逃さずに、きれいな額に入れて家に飾る。アートの価値はキュレーターやギャラリーなどの専門家だけが評価するのではなく、一人ひとりの心が決めるもの。
その原点に立ち返ろうよと、僕は言いたいですね。
「アートはもっと身近で生まれる、柔らかなもの」と語る中野さん。
撮影:竹井俊晴
——アートをめぐるビジネスのあり方も変わっていくべきでしょうか?
一部の資産家などがオークションで作品を独占して、作家への還元も十分になされないアートビジネスは早く終焉を迎えるべきです。
アートとアートを生み出す作家が主役となり、作家を心から応援したいファンの思いがつながることでお金が生まれ、作家へと還元される仕組みがもっと広がるべきです。僕が代表を務める東方文化支援財団でも、そのような活動を進めています。
作品1点ずつにICタグを付けて流通させ、作品が売買されるごとに所有者の情報が記録され、売買のたびに作家に収入が入るという仕組みです。情報の記録に活用するのはブロックチェーンの技術です。
僕たちはそのタグを開発するスタートバーン社と連携しています。まず3000枚購入して、若手の作家の作品を買い、販売する。直接売れた収益の20%は作家に還元しますが、ICタグには「再販売した場合、販売額の○%を作家に振り込んでください」という契約書が付いているんです。2次、3次、4次……と取引回数が重なるごとに販売額は増えるのが一般的なので、作家の収入基盤も継続的に安定していきます。
ICタグには作家の自己紹介や作品解説の情報を自由に入れられるので、自らの言葉でダイレクトにファンとつながれる。ブロックチェーンによって贋作防止にもなりますから、ファンも安心して作品を楽しめるようになると思います。
——オークションビジネスからトレーサビリティ重視の商品取引へ。まさに「アートの民主化」を進める取り組みですね。
タグのデータを通じて作品の所有情報を公開すれば、同じ作家の作品を持っているファン同士がネット上で出会えて交流することもできます。
例えば、街の中の小さなギャラリーに絵を持ち寄ってファン主催の展覧会を開くとか、素敵でしょう? そこに飾られるのは、何千万とか億がつく高級品ではなく、普通の人が給料のひと月分ほどのお金を貯めて、ちょっと背伸びしたら買えるくらいのお気に入りのアートです。そうやって、小さなコレクターが集って語り合う時間があちこちで生まれていけば、とても豊かな社会に近づくのではないかと思います。
——中野さんご自身もアートコレクターとして知られていますが、若い作家を中心に応援しているのだとか。
すでに評価の定まった人よりも、これからの人が好きですね。その人の魂がこもっているような作品が好きで、時々買っています。学生の絵を買うこともありますよ。
「この作品いいね。いくらで売ってくれる?」と聞いて、アーティストが示した金額の10倍で買った時には、驚かれましたけれど。
まだ詳しくは言えないのですが、時間をかけてアーティストを支援しながら地域経済を活性化する「アーティストビレッジ」も構想中です。
コロナによる自粛期間で日本人が図らずも見直すことになったのは、日常の食や住空間だった。
Getty Images / filadendron
——「アートをより身近に」。この思いに至った問題意識とはどういうものだったのでしょうか?
「アートってなんでこんなに高いわけ?」という疑問がスタートです。価格の理由づけとして偉い人の解説が書かれていたりしますが、そもそもアートとは「説明を聞いて楽しむ」ものではなく「心で感じて楽しむもの」。
アートに限らず、今の日本の消費は情報が先行しています。「あのレストランはおいしくて○○が看板料理らしい」と情報を集めてから食べに行く。実際の料理を嗅覚や味覚で「おいしい」と感じる前に、頭で食べてしまっている。これでは、自分の感性を磨く力が衰えるばかりですよ。
これからは“感性の時代”であり、感性を磨くきっかけとして、アートはより個人の生活に結び付くべきだと思います。
——そんな時にコロナ禍が起きました。在宅ワークをせざるを得なくなり、家にいることも増えたことで、より暮らしに向き合う時間も増えました。
感性を磨くベースはやはり住空間にあると思います。在宅勤務を経験して、改めて暮らしに目を向けた人も多いと思いますが、ぜひ「心の安らぎ」を得られるアートを取り入れてほしいと思います。
と言っても難しく考えず、まずは花一輪を買ってくるだけでもいいんですよ。部屋の一角を少し片付けて、一輪挿しに花を生ける。それだけで立派なアートです。
僕が大学生の頃に殺伐とした寮暮らしに少しでも心の安らぎを得ようと始めたのも、「毎日、一輪の花を買ってくる」という習慣でした。そのエピソードが気に入られて、伊勢丹に入社できたという話を本に書いたら、結構反響がありましたね。
花一輪に癒やされることに気付いたら、次は一輪挿しを買い揃えてみてください。僕は52種類揃えていて、週が替わるごとに一輪挿しを取り替えるんです。花は変わらなくても、器が変わるだけで、また味わいも違っていいですよ。
花の手入れも、会話をするように。吸水しやすいように茎の端を少しだけ切ったら、ちょっと手で触ってあげるんです。よく手入れした花は、散る時もパッと美しく散るんですよ。人生を象徴していると感じます。
花一輪を生けることは、5分もあればできる一番身近なアートじゃないかと思います。
部屋に一輪の花を飾るだけで、生活空間は豊かになる。
Getty Images / By Anna Rostova
——仕事や生活に追われ、その5分を惜しんでできなかったけれど、在宅ワーク期間を通じて花を愛でる時間の価値に気付いた。そんな声もよく聞かれました。
アートに触れる時間を後回しにして、何に時間をかけていたか、考えてみてください。本当は1時間で済む仕事を3時間かけてやっていたかもしれない。あるいは通勤にかける数時間が無駄だったかもしれない。時間の使い方そのものを見直したいですね。
オフィスももっとコンパクトに、より魅力的な空間に変わる工夫が求められるでしょうね。僕は自分の執務室の壁一面に好きな絵をかけて、定期的に入れ替えています。自分の感性が喜び、刺激されるアートを身近に置くことは、僕にとって大切な環境条件です。
花一輪でも絵一枚でも、アートに触れる時間をより充実させるためには、日本の住環境も見直す必要があるとも感じます。
寺田倉庫が天王洲のまちづくりに関わるようになり、アートの街として生まれ変わった。
撮影:竹井俊晴
——住環境はどう変わるべきだと?
まずは、異常なほどの都心の密集状態を改善すること。リモートワークが可能な人は、職場から遠くても部屋数が多くて広い家に引っ越すことを検討してもいいでしょう。すると、個人の生活にアートを取り入れやすくなり、それが社会で文化を育てる基盤になります。もともと日本には、屏風絵に象徴されるように「住の中にあるアート」という文化があり、暮らしに根付いたアートから素晴らしい芸術家が育ってきたのですから。
人の暮らしに余裕ができると、地域コミュニティのあり方も変わるはずです。かつての日本社会が持っていた「信頼でつながる温かな交流」が取り戻せるといいですね。
僕の住まいは台湾にあって、小さな賃貸マンションなのですが、同じフロアに暮らしている3世帯がとにかく“お節介”なんです。昼間はみんな鍵を開けっ放しにしていて、僕が帰宅するとテーブルにご飯が置いてあったりしてね。おばちゃんがノックもせずに入ってきて「おいしかった?」って聞きに来たり(笑)。この間は僕が気に入っているデニムを洗濯してアイロンまでかけてくれちゃってね、「あー、色落ちするから洗濯機で洗っちゃダメ。それにアイロンで折り目つけないでよ」と笑ったばかり。
日本にも昔はこういう交流が当たり前にあったのに、いつの間にか失われてしまった。戦後の高度経済成長期の「もっともっと」を求める精神が行き過ぎて、成熟社会に向けて転換できないまま過去の成功を引きずってきた結果でしょうね。「もっと」の過熱の先には「一人勝ち」を求める利己主義があり、行き過ぎた資本主義を招いたのです。
世の中の恵みを皆で分け合う社会へと立ち返りましょうよ、と僕は言いたいですね。その価値観に基づく行動の一つが、先ほどお話しした「アートの民主化」を目指す活動なのです。経済における再分配や寄付の思想とも深くつながると考えています。
これからの”感性の時代”を生きていくために、アートとの付き合い方を考えていく。
撮影:竹井俊晴
——「アートの民主化」もある意味行き過ぎた資本主義を是正する取り組みですね。
新型コロナウイルスがもたらした、暮らしを見直す時間を重要な契機として、アートのニューノーマルを一緒につくっていきましょう。
新しく生まれた価値を理論的に検証し、継続して熟成させていく。その積み重ねが、次の数百年の豊かさをつくります。その筋道をつくる役割を与えられていると、一人ひとりに考えていただきたいと思います。
大事なのは、自分の感性を信じることです。誰かのために、社会のためにと気を張る必要はありません。自分が心地いいと感じる方向へと、いい意味でわがままになって生きることが、いつの間にか身近な人や社会の幸せにもつながるものです。
その循環をつくるためには、自分の感性を磨くこと。僕は毎朝3分、感謝を口にするお祈りを続けています。外に出て風の中に全身を浸し、透明な自分を感じるだけでもいいでしょう。自分という存在の輪郭を見つめることができ、快不快を感じるアンテナが敏感になっていきます。
外側にある情報を必死に探そうとするのではなく、内側の声に耳を澄ましてみる。まずはそこから始めてみてください。
(聞き手、構成・宮本恵理子)
中野善壽:東方文化支援財団代表理事、元寺田倉庫社長兼CEO。1944年生まれ。大学卒業後、伊勢丹に入社し、子会社のマミーナで社会人としてスタートする。1973年、鈴屋に転職。1991年退社後、台湾に渡り、亜東百貨COOなどを歴任。2010年、寺田倉庫に入社、社長兼CEOとして、天王寺アイルエリアをアートの力で生まれ変わらせた。2019年、寺田倉庫を退社後、東方文化支援財団を設立して、代表理事に就任。