なぜ私たちは「愛の不時着」にこんなにもハマるのか。「完璧な対等さ」はこんなに心地いい

フェミニズム専門出版社エトセトラブックスの代表・松尾亜紀子さんは、「愛の不時着」(Netflix)を7回見ている。7話、でなく7回。全16話、合計すると1346分(22時間26分)ある「愛の不時着」を7巡したという意味だ。

韓流ドラマは「宮廷女官チャングムの誓い」以来15年ぶりだったという松尾さんが、なぜそれほどにもハマったのか。ネタバレ多々ありで、「愛の不時着」の魅力をフェミニズム的視点で読み解いてもらった。

愛の不時着

韓国の財閥令嬢でありながら、自分の力でファッション企業を上場させたユン・セリ(左)と、北朝鮮のエリート一家に生まれた軍人リ・ジョンヒョク(右)。

Netflix「愛の不時着」より

完璧に対等な男女の、壮大な恋愛ファンタジー。

松尾さんは「愛の不時着」をそう語る。北朝鮮の大尉リ・ジョンヒョク(ヒョンビン)と、韓国の財閥令嬢でファッションブランドの経営者ユン・セリ(ソン・イェジン)。知性、財力、そして美。それが完璧に対等だということがとても重要だという。

「南北に引き裂かれる2人が一線を超えてどう愛を成就させるか。それが『愛の不時着』という物語です。ここで言う『一線を超える』とは肉体的な関係ではなく、いかに気持ちを伝え、確かめ合い、未来を描けるようになるかという心の動きです。

ひと昔前の韓流ドラマのように家柄や親は障害ではなく、絶対的な一線、つまり38度線だけが2人の愛を阻む。ソン・イェジンとヒョンビンと言うキャリアや人気が互角のスターを揃えたキャスティングも含め、『対等さ』を意識したドラマだと最初に見た時から感じました」

ジェンダー的安心感、ミソジニー一切なし

新型コロナウイルスの感染が拡大する中、新刊の刊行を予定通り5月上旬とした。9歳と3歳の子どもがいる自宅で作業し、書店の注文を取り、流通を確保し……。校了までたどりついたのがゴールデンウィーク前。久々の休みにふと話題の「愛の不時着」を見てみた。

ジョンヒョク、そしてヒョンビンのカッコよさに打ちのめされて激ハマりした。目の前の仕事と生活をこなすのに精一杯だったけど、先行きの見えないコロナ禍の状況が実はすごく不安だったのだ、と自分のことを振り返った。

ヒョンビンの過去の出演作やYouTubeのファン動画を見ては、「愛の不時着」に戻る。その繰り返しで気づけば7巡したのは、このドラマのジェンダー的な安心感が心地良かったから。ジョンヒョクの隊員たちのブラザーフッド、セリが出会う北朝鮮のオンニたちのシスターフッド。どちらも描かれる。

もう1組の男女ク・スンジュンとソ・ダンの関係も対等だ。

「悪役であるセリの義姉たちも、坊っちゃん育ちの夫をコントロールして生きる力が強くて憎めない。北のオンニたちはそれぞれの個性が際立っているし、とにかく女性がものを言う。ミソジニー(女性に対する嫌悪や蔑視)が一切ないのがこのドラマの素晴らしいところだと思います」

日本のドラマは「また何か不用意な性差別にがっかりさせられるんじゃないかと警戒して楽しめない」という松尾さんだが、「愛の不時着」にはそれが全くない。

ジョンヒョクは支配しないで「守る」

「ジョンヒョクは『守る男』だと評されるけど、日本でよく見聞きする『弱い女を守ってやる俺』的な、単なるイキりやマッチョな誇示とは別物です。『守る』っていうことで、相手を自分の支配下に置こうとするあれではなく、ジョンヒョクはセリを純粋に、肉体的に、本当に守っている」

ジョンヒョクがセリに麺を打ったりコーヒーを豆から煎ったりするのも、銃撃戦で体を張るのも「守る」の一環。

「日々のケアと闘いはジョンヒョクにとっては同じことで、どちらもセリを大事に思うことの表れ。だからセリに対し、自分へのケアを求めることはない。5話でセリが『今日は洗い物をしてあげる』って言いますよね。じゃあこれまではジョンヒョクが洗ってたんだな、さすがだよ、とグッときます」

エトセトラブックス松尾さん

エトセトラブックスを立ち上げた松尾さん。2019年3月に続いた性暴力への無罪判決を受け、被害者に寄り添うフラワーデモを呼びかけた1人でもある。

撮影:浜田敬子

9話の最後、セリは国境を超えて南に戻る。軍事境界線まで送るジョンヒョクだが、別れがたい気持ちから「道を間違えた」と言っては、行きつ戻りつする。「方向音痴なのね」とセリが言うと、「僕は夜目が利かないし、方向感覚もない。すまない」と答える。女にとってはどうでもいい「男の沽券(こけん)」みたいなものが全くないジョンヒョクの言葉。

松尾さんはここも至極のシーンだとするが、「数話あとで、方向感覚にすぐれ夜目も利くことは証明されますよね」と付け足すことも忘れない。

「聞く男」が気持ちを語り出す

もう一つ、松尾さんが注目したのが「聞く男」としてのジョンヒョク。無口なジョンヒョクはあまり言葉をはさまず、喋りまくるセリの話を聞く。

例えば、それはシャンプーとリンス。髪も石鹸で洗えと言っていた割に、セリの要求に応えてすぐ買ってくる。迷子になったセリを探しにくる時に灯したのは、セリがソウルで欠かさなかったと話したアロマキャンドル。

最後にスイスで再会した時の「列車を乗り間違えたんだ」という台詞は、セリがジョンヒョクに教えたインドの格言から。

「まあ『聞く力』のあるジョンヒョクだったら3年越しで覚えてますよね」

だが、途中からジョンヒョクは自分の気持ちを言葉にするようになる。その「一線を超える」瞬間が描かれたのが6話で、松尾さんによれば「神回」だ。平壌のホテルで、セリは韓国で因縁のあったク・スンジュンと再会する。セリがジョンヒョクを「ボディーガード」と紹介したところから、ジョンヒョクがいきなり語り出す。

愛の不時着

「推し」の視点、「ファンダム」の視点を大事にしたドラマだったからこそ心地良かったと松尾さん。

Netflix「愛の不時着」より

ク・スンジュンとの再会を「運命だ」とセリが語ると、自分との出会いはどうなのだと感情むき出しで尋ねる。その後飛び出すのが「僕の見えるところにいてくれ」「安全だ、見えている間は」という言葉。

「無意識のうちに大事に思い、セリを守ってきたのだけど、嫉妬して気づいて意識と言葉になったんですね」

セリがジョンヒョクの肩にもたれかかるシーンも含めて、この回で確実に2人の関係が変わる。

6話のラストは、引きのカメラがセリの乗った車を守るために、遠くからバイクで並走しているジョンヒョクの姿を映す。松尾さんが体内から水分がなくなるほど号泣したシーンの一つだそうだ。

ファン視点を大事にする「推し」の概念

対等性に裏打ちされた純粋な恋愛。それが描けたのはなぜだろうかと尋ねると、松尾さんから返ってきたのが「推し」という言葉だった。 フェミニズムの意識が進んでいる韓国エンタメ界が 今の女性が何を見たいかということを大事にしているのはもちろんだが、「推し」の視点、「ファンダム」の視点を大事にしているドラマだというのだ。

「推しっていう概念って、好きな相手が幸せだったらそれでいいという、究極の尊い気持ちだと思う。制作者側もその気持ちを大事にしているから、視聴者もジョンヒョクにハマらずにはいられないし、セリとジョンヒョクを応援するし、ドラマごと推す」

各話の最後に必ず入る「ボーナストラックのようなシーン」が、推し目線の象徴だと松尾さんは言う。次回予告直前のそれは、大抵少し時間を巻き戻してのシーンとなる。1話のその部分は墜落した直後の木の上のセリのシーン。セリは通じない無線で、必死に部下に話しかけている。

合間に、銃を構えながら、本編では映されなかった、そんなセリを微笑んで見つめるジョンヒョクが映る。「すでに好意を持っているじゃん!」と声を上げたくなる。

愛の不時着

銃を構えながらもセリの様子を笑顔で見つめるジョンヒョクの姿は印象的だった。

Netflix「愛の不時着」より

3話のボーナストラックでは、セリが贈ったトマトの苗にジョンヒョクが話しかけている。「1日に10個、きれいな言葉をかけて」というセリの言葉に、「海、日差し、山ツツジ‥‥バラ、そよ風、初雪」とジョンヒョク。ややあって、最後に「ピアノ」。

「そうだったらいいなという『ファンダム』の願望を映像にしたのが、毎回のボーナストラックなんじゃないかと」

ちなみに最終話でセリも、ジョンヒョクから贈られた鉢植えに声をかける。「美人経営者、ストップ高、ストックオプション‥‥上場企業、業界1位、限定版」。最後が「リ・ジョンヒョク」。セリがセリのままジョンヒョクを愛していることがわかるシーンだ。

このように見る人への配慮が行き届いているから、安心してハマれる。そういうドラマが日本には一つもないとは言わないが、描かれる女性がステレオタイプで、女性の視聴者を軽視しているように感じると松尾さん。

「そういう指摘をすると、PC(ポリティカル・コレクトネス)やフェミニズムの視点が入るとドラマは面白くなくなるとよく言われます。だけど、その視点がこんなに行き届いていて、こんなに面白いものが作れる。『愛の不時着』はお手本のようなドラマだと思います」

自分の才覚で稼ぐ女性を全肯定

9話の最後でセリが国境を超えて南に戻り、10話からはソウル編になる。ジョンヒョクが南に入るという展開に、一瞬「エッ」と思ったのは松尾さんだけではないはず。だけど、松尾さんは、ソウル編で見せたいものがすぐにわかったという。

愛の不時着

経営者としての一面をどんな場面でも常に持っているセリの姿は、働く女性への全肯定を感じさせてくれる。

Netflix「愛の不時着」より

「北朝鮮編の軍服姿のヒョンビンは神が降臨したレベルですけど、家父長制の象徴である軍服を脱いだところからが、ある意味2人のドラマの本番でした」

今度はセリがジョンヒョクをかくまい、守る側になる。「ソウルは私の庭だから」と言って、中国語を操り、ジョンヒョクを襲った敵の情報提供を促す。もちろんビジネスも着々と進めるセリ。新規オープンするインテリアの店で、社員を前に挨拶する後ろにはボディーガードとしてのジョンヒョクが立つ。セリを見つめる眼差しは、とても誇らしげ。どちらも大好きなシーンだという。

松尾さんは出版社を経営する立場として、ビジネスの成功を隠さないセリの姿が気持ちよかったと語る。

「もちろん私はあんなに稼いでいないし、セレブでもないけれど、セリの姿に働く女性への全肯定を感じました。セリが1%の特権階級というのはわかってますが、そうでなければジョンヒョクや隊員たちを南で守れなかっただろうし、自分の才覚で稼いで、ジョンヒョクに見守られるセリは最高。

音楽家として生きる(ジョンヒョクの婚約者だった)ソ・ダンと、こちらも稼ぎまくるその母のたくましさも大好き」

38度線ができた背景を考える

最後に、38度線の話をする。

松尾さんはジョンヒョクとセリの絶対的障壁である38度線について

「これさえなかったら、2人は結ばれるのに、という『これ』はどういう歴史があって作られたのか考えざるを得ない」

と語る。

セリが「アフリカにも南極にも行けるのに、どうしてあなたはここに住んでいるんだろう」とジョンヒョクに言う。最初から恋に落ちているのに、別れを前提とする2人を象徴する言葉だ。日本が朝鮮半島にしたこと、戦争の加害を思うといたたまれず、「早く統一されればいいですね」といった気楽な感想を口にすることはできない、と。

ソウル編にはサッカーの国際試合のシーンがある。セリ、ジョンヒョク、そしてジョンヒョクの隊員たちが入ったチキン店のテレビに映る「韓日戦」だ。店全体が一つになって「対日本」に盛り上がって韓国チームを応援するそのシーンは「国境」を超えた胸が熱くなるシーンだが、日本人には痛いと松尾さん。

「愛の不時着」は悲劇の「ロミオとジュリエット」になるはずの2人が、愛と知力と財力でサバイブして「織姫と彦星」となる物語。でも、1年に2週間だけ会えるというハッピーエンドも、

「国同士のことを考えれば、この幸せも危うい。あるいは、もしかしたらある日突然統一されて、一緒になれるかもしれない。2人の関係は、北朝鮮と韓国の関係そのもの。そういうところまで考えてつくられたドラマだと思います」

(文・矢部万紀子


松尾亜紀子:1977年、長崎県生まれ。エトセトラブックス代表取締役。編集プロダクションを経て河出書房新社勤務、2018年12月に独立。

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