撮影:伊藤圭
双子の弟と並んで収穫したてのたわわな大根を背景にピースサインをしている。胸には幼稚園の青い名札。5歳の秋元里奈(29)だ。
双子は1991年1月に生を受けた。母は40歳での初産だった。父は双子が3歳のときに他界し、双子が幼稚園に通っていた写真の頃に田畑を守っていたのは母と祖母、そして近くに住む親戚だ。野菜全般をつくる多品種栽培農家だった。
東京都の西部に位置する神奈川県相模原市は都心まで電車で1時間かからない、東京のベッドタウンだ。秋元の実家は町田に隣接する相模原市の北東部にあった。
秋元が生まれ育った平成のはじめ、近隣に農家は珍しかった。周辺が次々に開発されるなか、代々地主だった秋元の実家は縮小こそしていたものの、田畑が残り続けていた。
子ども時代、双子の弟と。
提供:秋元里奈
小学校の同級生に農業を職業とする家庭は他になく、秋元の実家がボーイスカウトなどの農業体験に協力していた。秋元にとって誇らしい記憶だ。
「学校の同級生が農業体験でうちに来る。それは嬉しかったです。うちの畑、すごいんだよって、友達を呼んだりしてました」
「いつかは自分が農業を継ぐのだろう」と長女らしい責任感を抱いていた秋元に母が「農業は継がなくていい」と告げたのもこの頃だ。徐々に畑も整理して縮小していた実家は、秋元が中学に上がる頃に農業を廃業した。
内気な負けず嫌い
小学校の頃は内気で静か。漫画家になるのが夢だった。公立中学に進学してバスケットボール部に入部したあたりから少し活発になった。
地元の進学校、神奈川県立相模原高校に合格点ギリギリセーフで入学した。負けず嫌いを激しく発揮していくのはここからだ。
「定期試験のたびに成績が開示されるんです。入学当時はビリから数えた方が早かったんですが、試験のたびに少しずつ順位を上げていきました」
おとなしい性格は中学時代と変わらない。静かに闘志を燃やし、猛勉強で徐々に結果を出し、最後は学年1位にまで上り詰めた。負けるのは猛烈に悔しいのだ。
部活はテニス部。女子とは普通に話したが、なぜか男子と話すのが苦手。3年間で、男子としゃべることはほぼなかったという。
数学と物理が得意で、金融トレーダーを目指して経済学部への進学を考えていたが、志望校を決める段階でそれが文系の学部だと知り、理系の秋元は金融工学科に志望先を変更した。2009年、慶應義塾大学理工学部金融工学科に合格する。
理工学部の入学者数1000人のうち、金融工学科は10人。公式を証明し、株価を算定する方程式を研究するなど、学ぶ内容は数学科に近い。
学園祭リーダー体験が性格を変えた
いつも着ているのは、たくさん作ってしまったから。今では食べチョクTシャツをトレードマークにしてしまった。
今、スタートアップ経営者として秋元は多くのピッチに立つ。壇上の秋元はやや早口だ。静かなトーンで、無駄なく淡々とビジョンを語る。愛嬌で訴えるタイプではないが、冷静に情熱を訴える口ぶりには独特の迫力がある。壇上でプレゼンする秋元は、高校時代までを知る友人たちにはまるで別人だ。
「こんな人だったっけ?」
中学や高校の同窓会で秋元の活躍を知った同級生は一様に驚く。秋元自身が高校までを振り返る言葉も「根暗だった」「目立たない存在」「人と話すのが得意ではなかった」など、今の姿からは遠い。
秋元は大学生活で性格を変える出来事を経験していた。
進学した慶應義塾大学理工学部で、1年時に学園祭の実行委員会に加わった。有名な「三田祭」に比べると地味な学祭だったというが、それでも理系のミスコンである「理系美人コンテスト」の企画、人気のバンドを招聘するなど、運営は遊び半分ではできない。
秋元は高校生のときに猛然と勉強をした真面目さそのままに活動に参加した。2年時の実行委員会では、前年には20人いた同期の仲間が5人に減った。しかも秋元以外はほぼ会議に参加していなかったという。このときも秋元は黙々と裏方を務めた。翌年、最終学年となったとき、秋元はリーダーに押し出される。
人の上に立つなど経験したことのなかった秋元がリーダーを引き受ける羽目になった。1年から3年まで35人の実行委員を取りまとめ、構成を練り、進行を決め、全体を取り仕切る。
このときも秋元は目の前の一つひとつのことに懸命に働いた。気付けばリーダーとして、まとめ上げることができていた。
「その瞬間に、性格が明るくなったとか、自分が変化したなどという感覚はありませんでしたが、新しいことにチャレンジしているワクワク感はものすごくありました」(秋元)
実行委員長の経験は秋元にとって人生の分岐点となった。
撮影:伊藤圭
幼い頃から新しいことを始めたり挑戦したりすることは好きだったという秋元の大学時代までの足跡をたどれば、成功体験だけが連なる。挫折したことはないのだろうか。
「だいたいいつも忘れちゃうんです。うまくいかなかったこと、なんだっけな? っていうくらいの感じなんですよね。思い返すときっと失敗もたくさんあるんでしょうけど、いいことしか覚えてないんです」
もともと、クヨクヨしない性格ですか?
「そうですね、あまり考えないですね。終わったことを考えても仕方がないと思うんです」
前へ進み、飛距離を伸ばすには、過去を振り返らない思考は必要条件だが、その性格を形成した要因は何だったのだろう。
「成功体験を積んだので、やればなんとかなるみたいな根拠のない自信がついてきたのはあると思います」
では、成功体験を支える安定した情緒と自己肯定力はどのように育まれたのか。
その頃そう感じていたかは分かりませんけど、と前置きすると、母の存在が大きいと秋元は言った。
「母は何をしても肯定してくれる人です。何があっても敵にならない人がいてくれるという絶対的な安心感でしょうか」
「手をかけて育ててくれた」「大事に育てられた」と、秋元は母への感謝を口にした。
秋元は母から何かを強制されたことがない。新しく習い事をしたいとか、何かに挑戦したいというとき、母は一度も反対したことがないという。勉強しなさいとさえ母は言わなかった。それより「早く寝なさい」と言う母だった。
農業の廃業を決断した背景にはさまざまな問題があったのだろう。家の事情について秋元は言葉少なかったが、母の苦労を感じ取っていたことは察せられた。
就職は「日銀か東証」のはずが
日銀や東証に就職するなら新卒でしかチャンスはなかったが、最終的には迷いを振り捨てた。
REUTERS/Kim Kyung-Hoon
だが、その母の「公務員か、銀行員」という願いに反し、大学3年の冬、秋元は就活でDeNAへの就職を決める。
秋元自身、金融工学科を卒業した後の就職先には「日銀か東証」と考えていたのが一転、ゲーム会社である。DeNAは秋元が入社した2013年、既に年商1000億円を超えている。入社2年前の2011年には横浜ベイスターズを買収するような大企業に脱皮しつつあったが、それでも「日銀か東証」を考えていた学生の選択肢としては極端に過ぎる。
その背景には学園祭で実行委員会を通して味わった成功体験があった。
内気で男子とは口もきけない高校時代を過ごした自分が、わずか3年で学園祭を率いるリーダーになった。自分の性格が3年間で変わった体験をもとに、「東証や日銀」と「ベンチャー企業」のどちらに身を置いた方が3年後の自分は成長しているだろうかと秋元は考えた。
金融系企業の説明会に行くと、人事部の30歳ぐらいの社員が「まだ新米なんですが」と口ごもりながら前に立つ。
一方、友人に「(説明会に行けば)お寿司食べられるよ」と誘われ、どういう会社なのかよく知らずに出かけたDeNAでは、南部智子が「50パーセントの成功確率」の法則を解き、DeNAは猛烈に成長できる場所なのだと惹きつけられた。さらに、女性の人事担当者は入社1年目ながら、まるで自分の会社であるかのように堂々と熱いプレゼンを行った。
「たった1年であんなに仕事を任せてもらえるのか」と驚き、秋元はDeNAを選んだ。さすがに母には事後報告だった。
(敬称略、明日に続く)
(文・三宅玲子、写真・伊藤圭)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。