ETIC.代表理事、宮城治男(48)の活動の原点には、同世代の仲間たちを、古い親世代の価値観の呪縛から解き放ちたいという願いがあった。
中学時代からすでに、いい大学に進み、大企業に入るという生き方には魅力を感じていなかったという。
「大人たちが作った世の中のシステムに乗ることに、嫌悪感があった」
「起業は自分たちを自由にしてくれるんじゃないか」
早稲田大に進学した宮城は、マスメディアを志望しテレビ制作会社でアルバイトを始めた。一方、文化祭のイベントなどを企画・運営するサークルに入った。
自由気ままに生きているように見えたサークルの先輩たちは、就職活動を始めると一転、偏差値で大学を決めたのと同じ感覚で企業を選んだ。卒業後、時折部室を訪れるOBも、会社の不満ばかり漏らしていた。
「苦労して大企業に入った結果が、愚痴ばかりの人生なのか? もったいないし、かっこ悪いと思った」
そんな時先輩を通じて、起業家の支援団体を知る。宮城は「会社は作れるもの」という事実に衝撃を受けた。起業家に会ってみると、修羅場をくぐった魅力的な人ばかり。彼らの経験談は、大学の講義より格段に面白かった。
「起業は、自分たちを自由にしてくれる光になるんじゃないか」
宮城はこう考えるようになる。ただ、自分が起業を目指すというより、同年代の仲間に起業という生き方を知らせたい、という思いの方が強かった。
「人生や仕事は、自分の意思で作り出せる。同年代の仲間や後輩たちにそれを伝えて、親世代のシステムの呪縛から解き放ちたかった」
いい大学に入って大企業へ。そんな価値観に疑問を抱き、宮城らは起業という選択肢を視野に入れ始めた。
撮影:今村拓馬
地元の「じいちゃんばあちゃん」が最初の同僚
当時の宮城に認識はなかったが、実は父親も起業家の1人だった。地元の徳島県でスーパーを経営していたのだ。
「子どものころは考えたこともなかったが、スーパーはソーシャルビジネスでもあった」
と、宮城は振り返る。
主婦や高齢者を雇い入れ、地元の食材を使った総菜を販売することで、雇用創出や地産地消に貢献していたからだ。
「小学校時代、週末には店の手伝いに立ち、地元のじいちゃん、ばあちゃんたちと働いた。一緒に仕事をした最初の『同僚』です」
企業に属さない親に育てられ、少なくとも家庭では「いい会社に行け」という圧力と無縁でいられた。また、祖父母はともに教育者で「知らず知らずのうちに、感化された面もある」という。
宮城は自分を「教育側の人間」と評する。大学在学中、「勉強以外の生き方を、子どもたちに教えたい」と、塾を運営していたこともあった。新しい考え方や価値観に接した時、まず「人に伝えたい」と考える宮城の思考パターンは、祖父母から受け継いだ教育者的な気質に依るところも大きいのかもしれない。
孫正義やCCC社長も呼んだ勉強会
宮城が主宰した「アントレプレナー勉強会」で、メルカリ創業者の山田は孫正義らの話を聞き、圧倒されたと振り返る。
撮影:今村拓馬
宮城は1993年、大学2年でETIC.の前身となる「アントレプレナー勉強会」を立ち上げ、起業家の話を聞く勉強会やイベントを「取りつかれたように開きまくった」。大学の同級生で、ETIC.事務局長の鈴木敦子もこの頃から参加している。
インターネットも携帯電話もない時代、チラシと自宅の電話が集客の命綱だ。過去の勉強会参加者に連絡し、次のイベントの勧誘をした。「女子大生の家に電話して、父親の壁を突破するのが大変だった」と苦笑する。
参加費は無料、チラシの印刷代などは宮城らの持ち出しだった。
「起業家の話を聞いてほしいという一心だったので、金を稼ぐ意識はまったくなかった」
ただ次第に、ベンチャーや大学が会議室を貸してくれたり、マスコミが記事にしてくれたりするようになった。
「利益を取らず、おせっかいという立場で活動を続けていると、後押しする人たちが次々と現れた」
と、宮城は話す。
勉強会に登壇した起業家は、ソフトバンクグループ創業者の孫正義、TSUTAYAを展開するCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)社長の増田宗昭など、そうそうたるメンバーだ。サークルに出入りしていた学生の中には、メルカリCEOの山田進太郎や、ミクシィ会長の笠原健治、オイシックス・ラ・大地社長の高島宏平らがいた。
山田は当時孫正義らと出会い、「カリスマオーラに圧倒された」という。彼らの話に大きな刺激を受け「必死でもがくうちに、ここまで来た」と振り返った。
1994年、既存の就職活動に対する疑問を打ち出したイベント「就職ちょっと待ったシンポジウム」を開く。「起業」にピンと来なかった学生も「就活」という身近な言葉には反応し、「尖ったやつ、面白いやつ」(宮城)が約200人集まった。
学生が変わるのはインターンシップ
撮影:竹井俊晴
1995年頃から、政府は産官学の連携を打ち出し、大学発をはじめとしたベンチャーの創業を後押しし始めた。宮城らは通商産業省(現・経済産業省)の学生向けプロモーション事業を受託し、全国の大学でセミナーを開いた。当時通産省キャリアで、後に「村上ファンド」を設立する村上世彰ともこの頃に知り合っている。
ただ宮城はそのうち「国が動いただけでは、世の中は変わらない」と痛感するようになった。通産省の目指すようなベンチャーの集積地は、なかなか生まれなかったのだ。
さらに自分たちの活動にも、行き詰まりを感じていた。学生は起業家の話に刺激を受けても、やがて忘れてしまう。勉強会で「起業しようぜ」と呼び掛けるだけでは、行動に結びつかないもどかしさがあった。
だが一部の学生は勉強会の後、講師を務めた社長に会いに行き、「弟子入り」の形で働かせてもらっていた。その結果、学生たちが目覚ましく進化していることに、宮城は気づいた。
「学生が確実に変わるのは、インターンシップだ。『弟子入り』をプログラム化できないか」
宮城たちは1997年、長期実践型インターンシッププログラムを始めた。
マイクロソフトのOS「ウインドウズ95」が1995年に発売され、時代はまさにインターネットの普及期を迎えていた。1996年、宮城と同学年の堀江貴文が「オン・ザ・エッヂ」(のちのライブドア)を設立するなど、ITベンチャーの創業も相次いだ。学生インターンを受け入れてくれたのも、こうしたベンチャーだった。
宮城は急速に、ITベンチャーとの関わりを深めていく。足繁く通うようになったのが、「ビットバレー」と呼ばれ始めていた、渋谷だ。
(敬称略、明日に続く)
(文・有馬知子、写真・ 竹井俊晴 )
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。