1990年代半ばからのインターネット時代の到来は、ETIC.代表理事、宮城治男(48)に大きな希望をもたらした。
「インターネットの普及で『power to the people』と呼ばれる個人へのパワーシフトが始まり、人がつながることで新しいものを生み出せる可能性が広がった。何より黎明期のITベンチャー創業者には、インターネットで社会を変えられるという夢を抱く人たちがいた」
ミクシィやDeNA、ガイアックスなどがETIC.のインターンを受け入れた。派遣された学生インターンの中には、後にワーク・ライフバランス社を創業する小室淑恵もいた。
「センスも時間も馬力もある学生インターンは、ベンチャーにとって大きな戦力だった」
と、宮城は説明する。
「『また怪しい人に会いに行ってる』と、ETIC.の仲間から白い目で見られつつ」、宮城は渋谷通いを続けた。1999年に設立された非営利団体「ビットバレーアソシエーション(BVA)」の事務局長に就き、「ビットバレーの仕掛け人」と呼ばれるようになる。
ベンチャー起業家らは同年、渋谷を日本のインターネットビジネスの集積地にするという「ビットバレー構想」を発表。BVAは毎月第1木曜日に懇親パーティーを開いた。メーリングリストに載せた数行の告知を見て、1000人を超える参加者が詰めかけ、「数メートル先の知人にすらたどり着けないほどの混雑ぶり」(宮城)だったこともある。
当時、東京都知事だった石原慎太郎も、パーティーを訪れた。石原は帰り際、見送りに出た宮城に言った。
「これはバブルだよね。でもバブルの中からジーニアスは生まれるんだ」
「当時の参加者は玉石混交。石原さんの言う通りだった」
と、宮城は語る。
絶頂期に突然の活動休止。役割は終わった
一気に時代の寵児となった堀江貴文。しかしその後に起きたライブドア事件で、IT産業や起業家、スタートアップに対する失望が広がった。
REUTERS/Yuriko Nakao
しかしBVAは2000年2月、六本木のクラブ「ヴェルファーレ」で開いたパーティーで突然、活動休止を宣言した。
この日、会場には約2000人がひしめき、ダボス会議に出席していた孫正義は、プライベートジェットで駆け付けた。参加者がお祭り騒ぎを繰り広げる中、宮城は「自分の役割は終わった」と考えていた。
宮城がBVAの事務局長を引き受けたのは、ITベンチャーが日本に新しいビジネススタイルや、企業文化をもたらすと期待したからだ。
しかしこの頃になると、業界には夢を抱いた初期のプレーヤーに加えて、「ITを『儲かるビジネス』と考える人たち」(宮城)が多数参入するようになった。そしてベンチャーに資金を提供するベンチャーキャピタルやエンジェル投資家も現れ、ビジネスを持続させるエコシステムが整いつつあった。
宮城自身、ETIC.のインターンシップ事業が軌道に乗り始め、本業に専念すべき時期が来ていた。華々しさばかりが注目されるビットバレーに巻き込まれ続けて、ビジネスのロジックに縛られてしまうのは避けたい、という思いもあった。
バブルがあったからこそIT産業は成長した
BVAの休止後、ほどなくIT関連銘柄の株価は急落し、いわゆる「ITバブル」は崩壊した。その後、ITバブルの象徴的な存在だったライブドアを率いる堀江貴文は、フジテレビの敵対的買収に乗り出し、2005年にはライブドア事件を引き起こす。
IT産業の信頼性は大きく損なわれ、回復には長い時間がかかった。しかし宮城はこうした「バブル」があったからこそ、ITが国を支える産業のひとつに成長したと強調する。堀江も再始動し、著述やメディア出演などを続けている。
「産業が大きくなれば、いろんな思惑の人が加わるのは当然だし、いろいろなプレイヤーがいないと、社会を前に進めることはできない」(宮城)
ビットバレーでの出会いをきっかけに、ETIC.を支援するようになった企業も多い。宮城自身も渦中に身を置くことで、
「一つの産業が生まれ、変容する様子を見ることができて勉強になった」
という。
就活で“足を洗う”学生、NPOを生き方の選択肢に
2000年のETIC.のインターシップマッチングフェアの様子。
提供:ETIC.
ビットバレーに集うベンチャー経営者を見ているうちに、宮城の関心は次第に、NPOや社会起業家に移っていた。
ITベンチャーの経営者は、起業と成長に対する情熱はあったが、事業が社会にもたらす価値を突き詰めて考える経験には乏しかった。彼らが登場した1990年代は、企業の社会的責任に対するリテラシーが未成熟だったせいもある。
「2000年代に入ると、ETIC.の役割も起業そのものを紹介することから『なぜ起業し、何のためにやり抜くのか』を伝えることへシフトした。この問いに答える存在として、志に100%忠実な、社会起業家の存在がインパクトを持つようになった」
NPOは当時、ITベンチャーと並んで学生に人気のインターン先でもあった。しかし今以上にボランティアの色彩が強く、「就活の時期が来たら、足を洗う」のが、学生の常識だった。
「裕福になるという従来の生き方に背を向け、社会を良くする仕事をしたいと考える若者が増えているのに、生き方の選択肢に入っていないのはまずい」
と、宮城は考えた。
こうしてETIC.は2002年、社会起業家の育成プログラム「社会起業塾イニシアティブ」をスタートさせた。
「この道で行く」起業塾で肝が据わった
社会起業塾では、8カ月かけて団体の事業戦略などを磨き直す。
提供:ETIC.
NPO法人3keys代表理事の森山誉恵(32)は、慶応義塾大3年に在学中の2011年、起業塾に参加した。「起業塾に背中を押されたから今がある、という思いは強い」と語る。
児童養護施設へ学習支援ボランティアを派遣するサークルを運営していたが、就職するか団体を続けるかで悩んでいたという。
サークルメンバーは完全な手弁当で、交通費すら自前だった。仲間は就活シーズンになると、当然のように活動を抜けていく。森山は「目の前にこんなに苦しんでいる子どもたちがいるのに、あっさりやめられるんだ」と傷ついた。
そんな森山に、ETIC.のスタッフは言った。
「就活か団体か選んでください。本気で続けるならサポートします」
森山は「助けてくれる人もいる。挑戦しよう」と決め、就活をきっぱりやめて入塾した。
撮影:竹井俊晴
塾生は8カ月間、ワークショップや講義を通じて、団体の事業戦略を磨き直す。指導役の社会人から「今の事業プランでは、財政基盤が不安定では」と指摘されたが、安定収益を重視したプランを作ると、本当に支援したい子どもたちがこぼれ落ちてしまう。森山は諦めきれず、結局、目の前の子どもたちを優先すると決めた。
「起業塾で一通り悩んで考えが整理され、自分のやり方を貫こうと肝が据わった」と、森山は振り返る。
宮城は、森山のような営利を求めない社会起業家を支援することで、個人や企業の側も「良いことをする」チャンスと喜びをもらっている、と指摘する。
「人間の行動パターンを変え、成長させることが社会起業家とNPOの役割でもある」
と語った。
(敬称略、明日に続く)
(文・有馬知子、写真・ 竹井俊晴)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。