重い障がいのある人たちを対象に訪問介護サービスを提供するユースタイルラボラトリーは創業から8年で従業員が1200人を超える企業に急成長を遂げた。
だが、創業者の大畑健(40)はこれまでをこう振り返る。
「本当に失敗の歴史で、うまくいかないことばかりだった」
高校を中退してイタリアへ
小1でサッカーを始め、高学年になると、東京西部の複数区を合わせた代表チームにも選ばれた。
都立富士高校に進んだが、高1の冬には中退してイタリアに向かった。特にチームの当てがあったわけでも、現地に知り合いがいた訳でもない。
「自分を含めて、当時、サッカーのため海外に出たら何とかなるだろうと考える人はけっこういた」
イタリア中部の都市アレッツォの地元チームの育成年代に参加した。ボールを持てば自分が一番うまいと思っていたが、ワールドカップで4度優勝した強豪国イタリアの壁は厚かった。1年半ほどで日本に戻った。
「ボールを持っている時間は、90分のうち2分ぐらい。残りの88分で負けていたんだと思う。もうちょっと何とかなったような気もするけど、その差を理解できないぐらい大きな差があったのかもしれない」
大畑がサッカー留学で渡ったイタリアは、世界中から才能を呼び寄せる(写真はイメージです)。
Marco Rosi/Getty Images
帰国後、半分はフリーターをしながら、それでもプロ選手を目指した。Jリーグに所属するチームの練習にも参加したが、加入には至らなかった。10代の終わり、かつての同級生たちが大学に進む年齢になったころ、大検を取った。
けがが続いたこともあって、22歳でJリーグ入りは諦め、大学を受験した。東大を目指したが、最終的に合格したのは早稲田大の商学部だった。
「5浪換算」と言う大畑が大学生になったのは、23歳の時のことだ。
「たまにサッカーをしたり、アルバイトをしたり。年は離れてたけど、案外なじめて、クラスの人たちは今も付き合いがある」
大学3年で、外資系のコンサルティング会社や投資銀行を受けたところ、クレディ・スイス証券に受かった。
「変わった経歴に興味を持ってもらえたのだろう。イタリアでサッカーをやっていて、唯一良かったことかもしれない」
と大畑は言う。
大学4年の後期は、アメリカの西海岸を旅しながら、英語を覚えた。
入社して半年で起きたリーマンショック
2008年9月に経営破綻したリーマン・ブラザーズ。当時、日本の拠点は六本木ヒルズにあった。この後、世界規模の金融危機に発展した。
REUTERS/Yuya Shino
クレディ・スイスで配属されたのは、日本株のトレーダーだった。
先輩トレーダーたちの中には「カネのないやつとは付き合わない」「カネで解決できることはカネで解決する」と真顔で口にする人もいた。
「株の世界は、子どもみたいな大人、動物に近い人が多い」
大畑は、かつて属していた株取り引きの世界をこう表現する。
入社後任されたのは、機関投資家からの注文を処理する仕事だ。
大きな売りや買いの注文が入ると、トレーダーは時間をかけて、顧客の注文に応じることになる。すぐにまとまった注文を出せば、相場全体の値動きへの影響が大きすぎるからだ。大口の買い注文の場合、1週間かけて買い進めることもある。
午前の2時間、午後の2時間、極度の緊張と集中を伴う作業だ。仕事が終わると、サッカーの試合の後のような、心身の疲れを感じた。
大畑が社会人1年生になったのは、2008年のことだ。この年の9月、アメリカのリーマン・ブラザーズ証券が経営破綻し、世界規模の金融危機に発展した。
東京にある外資系金融機関で働く新人社員たちは、就活時に何度も顔を合わせることから、横のつながりがあった。大畑にとって、リーマンは顔見知りが何人もいる証券会社だった。
2日で新卒はほとんどクビになった
2020年3月、大畑は、アフリカ・ルワンダで起業を体験するプログラムに参加。プログラムの終盤ではビジネスアイデアを発表した。
撮影:小島寛明
株価が暴落していくさまをPCのディスプレイで見つめていた大畑の元には、機関投資家から大量の売り注文が入る。
仕事としては、顧客の売り注文を確実にさばく必要があるが、市場には買い注文がない。大畑は当時の状況について「あまりはっきりした記憶がない」と言うが、当時の上司から掛けられた言葉が記憶に残っていた。
「こういう時はどれだけ負けてもいいから、淡々とやろう」
今、大畑が担当していた株の売買の仕事はすでにない。人間の手を離れ、コンピューターが高速で判断して売買をするようになったからだ。
米系の金融機関にリストラの嵐が吹き荒れた後、東京・六本木にあったクレディ・スイスにも大波は押し寄せた。2008年末になって、社員たちの解雇が始まった。
同僚たちのデスクが順番に鳴り、会議室に呼ばれる。「1日中首切りをやっている。ほんとひどい事するな」と思った。
2日目の夕方、大畑のデスクの電話も鳴った。会議室に行くと、日本人の上司と人事担当者が待っていた。上司は「あなたのポジションはなくなりました」と言った。
「会社に残れたやつもいたけど、2日間で新卒はほとんどクビになった。映画を見ているようだった」
カードキーを会社に返却し、その夜は同期たちと酔いつぶれた。翌朝、私物が詰められた宅急便が届き、8カ月ほどの会社員生活が終わった。
撮影:竹井俊晴
その後は1年半ほど就職せず、インドを旅行するなど、ぶらぶらしていた。
次の就職先は、オーストラリア系の金融機関マッコリーキャピタルだった。
所属したのは、企業の買収案件のアドバイザリー(助言)を担う3〜4人のチームだ。大畑は当時の仕事をこう説明する。
「すごく大ざっぱに言うと、あなた方の今後の事業を考えると、このあたりの会社を買わないといけない。ついては、我々でリストアップしておいたから、買収しませんかという提案をする」
大型のM&A案件は、数百億円が動く。年に1〜2件成立させることができれば、チームとしては巨額の報酬を得ることができる。
しかし、大畑が所属していたチームは、M&Aを成立させることができなかった。2011年の暮れ、大畑にとって2社目の会社員生活は、1年半ほどで終わった。
サッカーチームに入団するためのセレクションや、外資系金融機関での苛烈な生き残り競争など、10代の半ばから、大畑はいつも勝負の世界に身を置いてきた。
チームを去る時はいつも「今回も俺はポンコツだったか」と思う。
3度目の就職活動はしなかった。「もういいかな」と思った。大畑がユースタイルラボラトリーを立ち上げたのは、それから2カ月後のことだ。
(敬称略、明日に続く)
(文・小島寛明、写真・竹井俊晴)
小島寛明:上智大学外国語学部ポルトガル語学科卒。2000年に朝日新聞社に入社、社会部記者を経て、2012年退社。同年より開発コンサルティング会社に勤務し、モザンビークやラテンアメリカ、東北の被災地などで国際協力分野の技術協力プロジェクトや調査に従事。2017年6月よりBusiness Insider Japanなどで執筆。取材テーマは「テクノロジーと社会」「アフリカと日本」「東北」など。著書に『仮想通貨の新ルール』(Business Insider Japanとの共著)。