対馬さんがオンラインで販売する、農薬不使用の果汁100%りんごジュース。「自分の子どもに飲ませたいジュースを」とつくり始めたのが商品開発のきっかけ。
青森県のりんご農家、対馬正人さんは2004年、38歳のときにりんご栽培をはじめた。今や無農薬りんごの生産者として知られている。
難しいとされているりんごの無農薬栽培への挑戦、ペイパルを活用したオンライン販売や、市場を通さない販路の開拓、りんごを使った加工品の開発、卓越したブランディング……異業種から参入し、手探りで始めたりんご栽培だが、対馬さんは豊富なアイデアと独自の農業へのこだわりで、付加価値の高いりんごを生み出すことに成功した。
コロナ禍では需要減によって打撃も受けたが、対馬さんはすでに未来を見つめて動き出している。ユニークなりんご農家に聞く、無農薬りんご誕生の舞台裏と、これからの農家が生きる道。
ペイパルは、コロナ禍の中でも逆境を乗り越えようと事業に取り組むビジネスオーナーを応援している。それぞれのエピソードはこちらから。
異業種からりんご農家へ。38歳で転身
皇室献上品「神々のりんご」など無農薬りんごを栽培する、りんご農家の対馬正人さん。
——りんご農家を始めたのは2004年ということですが、どういういきさつでこの仕事を始められたのでしょうか?
対馬正人さん(以下、対馬):私は公務員として、第三セクターの宿泊施設などで働いた後、同業の会社にヘッドハンティングされて、それなりのポジションまで進んでいたんです。しかし、実家はりんご農家で、私は3人きょうだいの長男。「継ぐなら自分だ」という気持ちがあって、実家のことがずっと気になっていました。親はむしろ「継がなくていい」と言っていてくれていたんですが……。
りんご畑が気になっていたせいか、いつの頃からかりんごの夢を繰り返し見るようになりました。内容はいつも同じで、冬のりんご園に雪が降る、寂しい夢。何度も繰り返して夢を見るにつれて、「りんごを作らなくちゃ」という気持ちが高まっていきました。
家族はみんな反対しました。当時私は38歳。地元の同級生は高校卒業後、18歳からずっとりんご栽培をしているわけですから20年の差があります。「無理だ」「やめた方がいい」と。それでも私には、「できる」という根拠のない自信のようなものがありました。
しかし、実家に戻り、りんご園で働き始めて5日目に、りんご栽培の師匠でもある父が倒れてそのまま亡くなりました。父を失い、周囲は反対する人ばかり。りんご栽培を教えてくえる人がいなくなってしまいました。
うちにはりんごの木が400~500本あるのですが、素人の私は収穫後の剪定でたった1本を切るのに1日がかり。見かねた母が、昔剪定に来てくれていた人を紹介してくれて、りんご栽培を教わることができました。
「味は評価基準になし」色形で決まる品評会に疑問
提供:対馬正人さん
——対馬さんのりんごは、無農薬栽培で有名ですが、もともと無農薬で栽培されていたのですか?
対馬:父の時代は一般的なりんご畑でしたが、私は無農薬や減農薬栽培に興味を持っていました。無農薬りんごといえば、映画『奇跡のりんご』のモデルになった木村秋則さんが有名ですが、当時はまだ世に知られる前。周囲には無農薬栽培をやっている人も、教えてくれる人もいない。ただ「やめた方がいい」と言われるばかりでした。りんごはいったん芽をダメにすると、最低でも3年は収穫できないからです。
それでも、確実に無農薬りんごへの需要はある。それに自分なりの「いいりんご」を作ることで、極めてみたいという思いが沸き上がっていました。
ところで、「いいりんご」とはどんなりんごだと思いますか。
品評会などを見に行くと、一等になるのは色形がいいものです。満遍なく色が入っていて、大きく、形がいいものをたくさん揃えられる人が賞を取るのです。でも私は、「味は?」と思ったんです。そして、色や形で評価を得ることが自分の目指す道ではないと思いました。目指すは「安全安心でおいしいりんご」です。
りんご栽培では一般に、噴霧する農薬について県や農協から、量や濃度について指導があります。そこで私はまずできる限り薄めたり、量を減らしたりすることで減農薬に挑戦していきました。
中国で「1個2000円」に衝撃。市場に出すのをやめた
——対馬さんはECサイト「まっかなほんと」を運営して、消費者に直接販売しています。りんごを、インターネットを通じて販売するようになったのには、何かきっかけがあったのでしょうか。
対馬:当初は私も市場に出していましたが、ある時、最も高いりんごは中国など海外で売られていると知りました。国会でも、中国では日本のりんごが1個2000円で売られていると話題になった頃です。計算してみると、中国で2000円で販売されるとしても、私などの生産者が手にするのはその何十分の1でしかない。それが「だったら自分で独自に販売ルートを作った方がいい」と思い始めるきっかけでした。
そんな時期にネット通販をやっている人から「売らせてほしい」と言われてやってみたら、かなりのスピードで広がったんです。それが、2007年頃。ネット通販で十分な販売量があるので、その後は市場に出すのはやめてしまいました。しかも、ネット通販だと直接、消費者の声が伝わってきます。それで、無農薬りんごが求められていると確信しましたね。
——それで、減農薬から無農薬へと舵を切ったわけですね。
対馬:りんごの無農薬栽培をやっている木村秋則さんの存在を知ったのもその頃です。ただ、その時は、まずは自分でやってみなければと思い、とにかく農薬を使うのをすっぱりやめてみました。これがなんとうまくいきまして。県の人も噂を聞いて見に来て、木村さんに引き合わせてくれました。木村さんと会った日は、真っ暗になるまで話し込むほど話が尽きませんでした。
2009年からは9割のりんごを「無農薬」で作れるようになりました。減農薬や無農薬の認定を受けるには、始めてから2年経ってなければいけないという決まりがあって、「無農薬」を名乗れるようになったのは2010年からです。
2012年からは自分でECサイトを立ち上げてりんごを販売するようになりました。サイトに加えて、レストランや百貨店、無農薬食品を扱う団体などに販売し、毎年完売するようになっています。
——ECサイトを運営する中で、ペイパルとの出会いは、どのようなきっかけだったのでしょうか?
対馬:オンライン決済システムは、金融機関を通じた取り引きの煩わしさがなくて気に入っています。ペイパルさんは審査や手続きがスムーズで導入まで速かったですね。
過去には、海外からメールで取り引きを依頼されたこともあるんです。信頼性などクリアできない問題があって、その時はうまくいきませんでした。でも、ペイパルを通じてなら海外とも簡単に金銭のやり取りができますし、今後は海外との取り引きの機会もあるのではないかと思います。
コロナ禍でも折れず、新商品を開発
——今年は新型コロナウイルスの流行で、各方面で消費がかなり影響を受けていますが、対馬さんも影響はありましたか?
対馬:今年は、新型コロナウイルスの影響で、3月からは全く商品が動かなくなりました。
一般的なりんご農家は、秋に収穫して農協に販売し、秋に1年分の収入を得ます。でも私はそれが嫌だったので、収穫後のりんごが完売した後、2月から9月くらいまでの間は、りんごジュースをはじめ加工品を作って販売しています。リスクヘッジをし、毎月現金収入を得られるように工夫しているのです。例年は、こうした加工品をすべて売り切った頃に、また秋の収穫期が来る感じです。
ところが今年は3月以降、レストラン、百貨店が全く営業しなくなってしまいました。ECサイトで売ろうにも、百貨店のオリジナルブランドとして販売する商品には、そのブランドのラベルがついているので自前のECサイトでは売れません。現在はラベルを張り替えて販売したり、百貨店のカタログ通販に載せていただくことで、売り上げは少しずつ戻ってきています。
こんな時も、慌ててはいけませんね。今だからこそできることに集中しなければと、りんご栽培に時間をかけたり、サプリを作ったり、リスやネズミのような齧歯類(げっしるい)のペットがかじるための「りんごの小枝」という商品を作ったり……。新商品開発や既存の商品の改良などに取り組みました。また、今後は、無農薬のコメや野菜の栽培にも取り組もうと考えています。
先のことはあまり心配しないようにしています。私の仕事は、消費者の方が食べて「おいしい」と思ってくれる、その一瞬のための仕事。その一瞬のために1年間頑張っています。ネット販売を通してお客様の反応をダイレクトにいただける喜びもあるし、反省することもあります。とにかく幸せを届けることを念頭に、自分のできることを続けていきたいと思っています。
ペイパルは現在、新型コロナウイルス感染症という困難に直面しながらも、逆境を乗り切るために工夫を凝らしながら事業に取り組んでいるビジネスオーナーを応援しています。#SupportLocal