毎年8月になると、テレビや書店で「戦争」という言葉をよく目にする。日本は今年で戦後75年となるが、シマオにとって戦争とはもはや遠い昔の話のようだ。 日本はアメリカに負けて民主化が進められてきた、と学校では習ったが、香港の民主化運動を見るたびにその温度差に引っかかりを感じるシマオ。
「具体的に民主主義と言っても、きちんと説明できないな……。そもそも日本の民主主義とは何なんだろう?」
佐藤さんはそんなシマオに今回もまた新しい視点を与える。
香港は中国の「財布」
シマオ:佐藤さん、久しぶりに明るいニュースがありましたね! ついに藤井聡太さんが棋聖のタイトルを取りましたよ! 最年少という快挙です。すごいなあ……!
佐藤さん:ずいぶん興奮していますね。私も昔は将棋が好きでしたから、注目していましたよ。
シマオ:同じくらいの世代の人が活躍しているのを見ると、僕も勇気をもらえます。最近は本当に年齢による制限ってないんだな、と思うんです。
佐藤さん:ジェンダーとともにジェネレーションギャップもどう埋めるかが今後の課題ですよね。
シマオ:若いからといって、権力あるおじさんたちと対等に話せない、話す場に立てないというのはおかしいですよ。
佐藤さん:「おじさん」という群れは、とても強固で頑ななものです。しかし世代間対立の図式は、ただ単純な二極化というものではありません。世代間不平等の元にある社会構造に疑いの目を向けることが大切ですよ。
シマオ:社会構造……。そう言えば最近、香港の状況を見ると、急進派の若者が民主化運動を先導しているような印象がありますが。
佐藤さん:「香港国家安全維持法」の制定を巡る動きですね。抗議活動の高まりにも関わらず、香港の中国返還23周年でもある7月1日から施行されることになりましたね。
シマオ:香港と中国ってそもそもどんな関係なんですか? 香港の「一国二制度」というのもよく分かっていなくて……?
佐藤さん:元はといえば、清朝時代にアヘン戦争(1840~42年)に敗れたことで、香港島がイギリスに割譲されました。その後の条約によって、九龍半島なども合わせた香港地域は、1898年から99年間にわたり租借されることになりました。
シマオ:租借……?
佐藤さん:建て前としては、イギリスが中国から借り受けるということですが、実態としてはイギリスの統治下に入るという取り決めです。この期限である1997年にイギリスが香港を返還する条件として、一国二制度、すなわち「従来の資本主義体制や生活様式を返還後50年間は維持する」ことが決まったのです。
シマオ:97年から50年だから……2047年。てことは、今回の法律はその約束を破るものですよね?
佐藤さん:言論や集会の自由が脅かされるという意味では、そうです。他方で、中国の本音は、最初から「政治は共産党体制のもとで、資本主義経済は認める」というスタンスでした。かつては中国の国力が弱かったから世界に対して譲歩していたけど、国力が強くなった今、本音を主張するようになったということだと思います。
シマオ:いずれは、香港の経済も中国のシステムに組み込むということでしょうか?
佐藤さん:それは考えにくいですね。今の中国は、実質的には市場経済ですし、香港における経済活動の自由は、中国自身にとっても大切だからです。中国にとって、香港は大切な「財布」なんですよ。
シマオ:どういうことでしょう?
佐藤さん:中国共産党や人民解放軍の高官たちの秘密口座が香港にあるというのは、公然の秘密なんです。香港の金融を通して、海外に資産を持つわけです。2016年に明るみに出たパナマ文書は、それを裏付けています。
シマオ:そんなことがあるんですか! 自分の財布である香港の経済をつぶすことはしない、というわけですね。
佐藤さん:その通りです。
経済ネットワークが生き残るための道筋
シマオ:いずれにしても、中国政府による抗議活動の弾圧はひどいですね。黄之鋒(ジョシュア・ウォン)さんや周庭(アグネス・チョウ)さんなど、僕よりも若い世代が危険を顧みずに行動をしているのを見ると、すごいなって思うと同時に胸が痛みます。
佐藤さん:確かに中国政府の対応は高圧的ですね。中国の文化では、権力者に異議申し立てをすることに対して厳しく対処する考え方が根強くあります。だから、中国政府の側から見れば、治安を維持するための対処をしているにすぎないわけです。
シマオ:でも、香港の若者たちは正当な主張をしていると思うんですよ。
佐藤さん:もちろん、自由や人権などの普遍的な価値を主張することは当然の権利です。一方で、一部の運動が過激化しているのを見れば、そこに「西側」の思惑があること、より具体的に言えば英米の諜報機関が関与していることは間違いないと考えています。
シマオ:え、いわゆる工作活動ってやつですか……?
佐藤さん:そうです。中国が経済的に非常に力を付けてきている中で、牽制できる材料があれば何でも使おうとするのが、諜報機関の基本的な考え方ですから。もちろん、こんなことは表に出てきませんし、日本はアメリカの同盟国ですから、アメリカがやっていないと言えば、それに従うのが国際政治の文法なのです。
シマオ:では、暴動は作られたものだと?
佐藤さん:いえ。そうではありません。こうした運動の背景には、両方の側面があるということです。自然発生的な衝突を本格的な暴動に転換させる過程で専門家(工作員)が関与した、と私は見ています。心情的には香港の若者にシンパシーを感じますが、日本国家としてどう対応すべきかと問われたら、あまり触れないほうがいいと私は考えます。
シマオ:国際社会で香港に味方すべきだという主張もありますよね?
佐藤さん:もちろん、中国政府に賛同する必要はなくて、遺憾であるとの立場を表明するのは当然ですが、日中関係はもっと大きな視点から考え、冷静な議論が必要です。特に、経済的、人的交流を深めていくことが大切で、買い物かごの中の卵が一つ腐っていたからといって、籠ごと中身をすべて捨ててしまう必要はないわけです。
「国際情勢はさまざまな利害関係が絡まっているので、ピースの1つを見るのではなく俯瞰して考えることが肝要」と佐藤さん。
シマオ:そう思います。中国の政治体制に疑問を持つことはあっても、ビジネスなど日本経済との結びつきが減ることはないでしょうからね。
佐藤さん:香港というのは面白いところで、世界各国との経済的なネットワークを持っています。例えば、中国にはアフリカから出稼ぎやビジネスをしに来る人たちがたくさんいますが、彼らは香港を舞台にしてそうした活動をしています。
シマオ:そうなんですね。
佐藤さん:文化人類学者の小川さやかさんが書いた『チョンキンマンションのボスは知っている』という本は、香港に住むタンザニア人コミュニティの人たちを描いた面白いエッセイです。 彼らは時には難民認定を受けながら香港に滞在して、中古車やケータイ、天然石などの輸出業で稼いで、コミュニティの中で「豊かな」生活をしているというのです。
シマオ:確かに香港と言うと、国際色豊かで、表の世界も裏の世界も含めていろいろなネットワークがあるイメージですよね。
佐藤さん:それはやはり中国本土ではなかなか実現できないもので、長い間イギリスの植民地支配下にあって、独自のルールができているのです。中国政府もそこは利用したいと考えているのだと思います。
新型コロナウイルス封じ込めと民主化弾圧のアナロジー
シマオ:今回の中国政府の行動を見ていると、何か急いで香港を支配しようとしている気がするんですけど、どうなんでしょう?
佐藤さん:一つは、新型コロナウイルス対応での成功体験があるんだと思います。
シマオ:成功体験……? むしろ、中国はコロナで大きな被害を受けたのでは?
佐藤さん:武漢でコロナが広まった際に、中国政府はロックダウンして移動制限をするなど、かなり厳しい封じ込め政策を取りましたよね。それが一定の効果を示しましたし、何より強権的な施策に対して国際社会からのそれほど強い反発はありませんでした。
シマオ:でも、ウイルスと民主化運動では違うんじゃないですか?
佐藤さん:それは違いますが、政府による権力の行使という意味ではアナロジーとして考えられます。実際、今回の民主化弾圧では、英米を中心とした反発はありましたが、韓国や東南アジア諸国などとの関係が悪くなったという話は聞きません。
シマオ:その意味では、間違っていないということですか……。
佐藤さん:繰り返しになりますが、中国は今の経済力に応じた国際政治上の地位を得たいと考えています。だから、彼らにとっては「当たり前」のことをしているにすぎません。
香港の民主化運動で使用されているスローガン「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、時代は革命だ)」は国家安全維持法に違反すると、政府はこれを禁止した。
シマオ:香港の人たちの感情は、それに対してどうなんでしょうか?
佐藤さん:もちろん、政治的な自由が押さえ込まれることへの反感はあると思います。一方で、多くの市民にとっては秩序の維持も大切です。政治的、経済的に大混乱が生じて生活が危うくなるくらいだったら、安定の方を取るでしょう。
シマオ:現実の生活のほうが大事ってことですか……。
佐藤さん:それはどこの国でも同じで、例えば直近の東京都知事選では小池百合子氏が圧勝しましたけど、あれも積極的な支持というよりは、安定しているほうがまだマシだという意思の表れでしょうね。
シマオ:経済さえうまくいっていれば、民主主義よりも大事なことがあるってことか……。それって、なんかスッキリしないな……。
佐藤さん:資本主義体制下の民主主義とはそんなものです。今の中国の体制が望ましいかどうかは議論があるでしょうが、一方で中国型の民主主義が比較的多くの中国国民に受け入れられていることもまた事実なんです。
シマオ:えっ、そもそも中国って民主主義なんですか?
佐藤さん:多くの人が勘違いしているポイントなのですが、民主主義にはさまざまな形があります。私たちが思い描く民主主義は「アメリカン・デモクラシー」であって、それだけが唯一の民主主義の形ではないということです。
シマオ:アメリカン・デモクラシー? それは一体?
佐藤さん:じゃあ、少し専門的な話になりますが、そもそも民主主義とは何かということを説明しましょう。
※本連載の第26回は、8月5日(水)を予定しています 。
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。昨年6月に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的な言論活動を展開している。
(構成・高田秀樹、撮影・竹井俊晴、イラスト・iziz、編集・松田祐子)